“とりこにい”抄 (4) 鹿島槍 初冬 

1年の初冬11月。田中新弥とふたりで鹿島槍―針ノ木を歩いた。

この年、浦松佐美太郎が ”たったひとりの山” という深みのある本を書いた。タイトルはもちろん、この本から借用したものだ。

 

”たったふたりの山”

 

俺と貴様はそれをもとめていた

それを求めて俺たちは嵐の長ザクをかけあがったのだ

黒部には白いガスが詰まり 夜 星は蒼く凍てついていた

”ふたりっきりの山!”

 

”ふたりっきりの山”で

俺はなお ”なにか” をもとめた

素手でステンドグラスをぶち割ったときのような

なにかを俺は吸い込みたかった

そのために俺は貴様と急坂をよじ登って来た

だがハイマツを吹き上げる黒部のガスの晴れるたびに

俺は眼を凝らした - あれは人じゃないか……

 

しかし あるのは岩尾根

ただつづく岩の尾根

ただつづく岩の堆積

人間という奴はただ俺と貴様が立っていただけ

選ばれたふたりがいるだけだった

その空気を吸うたびに 貴様はそっと微笑した

 

しかし それなのに

霧に包まれた樹林の間からはるかに渡ってきたあの呼び声を

アラインゲンガーのうつろなコールを

俺は なぜ 懐かしく聞いたのだ

なぜ 貴様を制して耳を傾けたのだ

ビヴラムをきしらせて小屋に駆け込み

(おい いないぞ)

すでに去った人をいとおしんだ俺

 

”たったふたりの山” そいつをもとめた俺が

もとめたのは ひったくりたかったのは 

”山” ではなく

”人間” ではなかったのか

フオッサマグナをふきぬける初冬の風

立ち尽くす俺

貴様のコールに応えたのは

篭川のガスと遠い剣の照り返しだった

 

今日、小生は82歳の誕生日を迎えた。もう剣を見ることはできないが、60 年前の日の、あの嵐の向こうに聳えていた雄姿は今なお忘れられない。

鹿島槍南峰でのふたり

 

 

 

懐かしい写真みつけました! (42 田中ひろみ)

常日頃 Circle be unbroken 楽しく拝見しております。

たまたま 三田評論のデジタル版を見ていましたら以下の記事を見つけました。1月号で実際の記事を見ていたのですが、アナログなのでお送りしにくくそのままになっていましたがデジタル版で見つけましたのでお送りします。

39年卒の方々の卒業式の日だと思われます。懐かしい、若いお顔が見られます。

蔦谷さん、竹チョンさん、近藤さん、西澤さん、長谷川大二さん などのお顔が見えます(私のわからない方も)。景色も60年近く前で懐かしいと思いました。

師走に入り何かとあわただしいころ、どうぞご自愛くださいませ。

https://www.mita-hyoron.keio.ac.jp/post-war-pictures/201901-1.html

2019年11月 月いち高尾 (39 堀川義夫)

11月の月いち高尾は、10月が台風の影響で天気は良かったにも関わらず、生藤山のリベンジがかなわず中止になった為、久しぶりと言った感じで開催されました。4,5日前から開催日の天候が心配され、実施するのか? との問い合わせもありましたが、私の判断で決行することにしました。それでも、当日はお出かけ時間に雨が降っていたためか、3人が中止にする旨連絡があり、実際に橋本駅に私が付いた時点では結構降っていました。

長老ご夫妻、相変わらずの健脚ぶり!

当初は25名の参加予定でしたが、19名の参加者になりました。予定通りのバスに乗り草戸山に向かいましたが、そのころからラッキーなことに雨も降らずに終日過ごすことが出来ました。

登山口近くの紅葉

草戸山は町田市の最高峰の山で標高364m、麓にはキャンプ場など併設した青少年センターがあります。頂上の手前には境川の源頭もあり自然豊かな静かな山です。予定通りに頂上に着き、昼食後下山開始。いわゆる東高尾山稜コースを下っていきます。高尾までのコースタイムは約2時間半ですが、意外に地図には表れない大小の起伏があり、また、前夜の雨の為登山路が滑りやすく大分時間がかかりました。途中の四辻で6名が高尾登山口駅へショートカット、残りは元気に高尾の何時ものてんぐ飯店に直行、16名で楽しく打ち上げすることが出来ました。結局、雨具を付けることなくわずかにカップルの2人とすれ違うだけの我々だけの静かな登山を楽しむことが出来ました。

日 時 2019年11月27日(水)

参加者 中司、吉牟田、深谷、鮫島、後藤、遠藤、平松、小泉、船曳、船曳愛子、町井、三嶋、蔦谷、武鑓、藍原、柏木、相川、岡沢、堀川   以上19名

スー・グラフトン 全巻読了

大分前の本稿で、アメリカの女性ハードボイルドライター、グラフトンのことに触れた。

以前からオヤエがこの分野での女性作家、例えばサラ・パレッキーとかルース・レンデルなんかの翻訳と一緒に収集していたので、僕も散発的にグラフトンものを拾い読みはしていた。それがどういうわけか翻訳の出版が途絶えてしまい、二人してどうしたんだろうと思って出版社に問い合わせたが、明快な理由は教えてもらえなかった。翻訳についての何か事務的あるいは法的な問題ではないかと想像はしたが、またまたアマノジャクが頭をもたげ、それなら原書で読めばいいんだろうとアマゾン頼りに A から始めたところ、まるで申し合わせたように彼女の早すぎる訃報に接した。

グラフトンはアルファベットシリーズとして ”アリバイのA (A is for Alibi)” から始まる Z まで26冊を書くことを約束していたのに、何という運命の皮肉か、25冊目の ”Y is for Yesterday” が最後になってしまった。あと一冊でライフワークが完了するという時点でのエンドマーク、本人もさぞ悔しかっただろうと、暗澹とした気持ちになった。

ともかく、問題の ”Y” はこの夏には入手してあったのだが、そのタイトルに The final Kinsey Millhone Mystery  と書かれているのを見て、しばらく頁を開く気分にならなかった。それでも年を越すのはいやだったので、10月末から10日ほどかけて読み終えた。勿論会った事などあろうはずはないが、(スー、読み終えたよ、ありがとう)と言ってやりたい気持である。

25冊読み終えて、当然ながらオヤエから、”それで、どれが一番よかった?” と聞かれたが、返答に困ってしまった。同じ作家を読んでいれば、中には強烈な印象をのこしたものや、トリックの巧みさに驚愕したりするものが当然ある。僕の場合、それはクリスティでいえば ”アクロイド殺し”、アイリッシュなら ”幻の女”、マクドナルドなら ”さむけ” というふうにすぐでてくるのだが、このグラフトンシリーズにはそういうものが全く、ない。それでも、単なる意地や、英語の勉強、と言った動機を越えて、どうしても最後まで付き合おう、というものがあった。それはなんだったんだろうか。

ミステリ作品の基本はもちろん ”Who’s donit ? (誰がやったのか)” だが、話には ”How’s donit ? (どうやって殺したのか)”、それと ”Why donit ? (なぜやったのか)” が書き込まれる。クラシックの絶頂期にはこのなかでも ”How ?”  つまり奇想天外なトリックをしめすこと、現代の警察ものなどででてくる用語でいえば MO (modus operandi) を主人公が神のごとき推理によって解決するところが作家の腕の見せ所だった。この推理の在り方がより現実的な行動に置き換えられたのがハードボイルド作品であり、その過程に引き込まれ、興奮し、同期化することが読者であることの醍醐味なのだ。だが、この25冊を読む間に、こういう知的興奮を覚えた記憶がないのである。

それではグラフトンは読むに値しなかったのか、と言えばもちろん、そんなことがあるはずはない。考えてみると、僕がこのシリーズにいれこんだのは、トリックのわざとか、ストーリーテリングの巧拙とか、文体とか、そんなことではない。それは80年代のカリフォルニア、まだ電子メールも携帯電話もなく、確かに人種問題なんかがありはしたものの現在の混迷とは全く違った、good old days とは言えなくてもあの陽光、微風、それといかにもとあっけらかんとした ”アメリカ人” が醸し出す、”これがカリフォルニアさ” といえたころ、短い時間ではあったがそれを満喫できた自分の過去をたどることを可能にしてくれたのがこの25冊の、ミステリという形をとってはいるが、言ってみれば ”あのころの良きアメリカ” へのオマージュであったからではないか、と思えるのだ。

25冊すべて、難しい謎解きや奇想天外なトリックや暴力描写があるわけはなし、MOと言ったってそこは銃社会のこと、拳銃以外にはほとんど見るべきものもない。それでも、独立心そのものと言ってもいい、中年に差し掛かりかけているカリフォルニア・ウーマンの生活パターン、女性ライターらしく登場人物のファッションのことこまかな描写、シリーズもの特有の常連バイプレーヤへの親近感、さらに言えば僕と同じにワインといえばシャルドネしか飲まないキンジー。そんなものが混然一体となったおとぎばなし、というのがこのシリーズのような気がしている。翻訳が R までしかないのが残念だが、ブックオフあたりで探せば文庫本はまだまだ手に入る。ぜひともご一読をおすすめしたいものである。

 

 

 

11月タウンウオーク  (36 翠川幹夫)

明治丸のガイドはもとプロの造船技師ボランティアであった

今月のタウンウォークは新旧が重なる町、東京都清澄白河から門前仲町→越中島を歩いた。参加は深谷、遠藤、吉牟田、前田、鮫島、中司夫妻、翠川夫妻と、実に久しぶり、たぶん五色スキーの時以来と思うが高木が参加、合計10名。

10:30am 地下鉄「清澄白河駅」に集合、地上に出て直ぐの清澄庭園を一周し、今も残る旧東京市営店舗住宅が並ぶ清澄通りを南下、深川名代の えんま寺(名前忘れた)を経由、正午に門前仲町の赤札堂ビル最上階の中華料理店「東天紅」で、今回、はるばる岡山から夜行バスで上京し、参加して呉れた高木圭二君を囲んでの昼食となった。彼は終了後、再びバスで帰宅、現役時代の “両夜行日帰り” という荒仕事である。

昼食後、更に清澄通りを南下すること30分程で今回の目玉、明治丸とその記念館に到着した。明治丸は明治政府がイギリスに発注し、明治7年に竣工した鉄船(現在の船は全て鋼船)で、小笠原諸島の領有権確保に貢献したと記載されていた。今は東京海洋大学の構内の陸に上がって展示されておりガイド付きで船内を見学させて貰った。

(編集注:今回写真担当をさせてもらい、なれない仕事で疲労したのか、スナップをとりためたアイフォンを紛失してしまった。目下探索中なれど回復の見込み薄。よって写真は明治丸のガイドさんに撮ってもらった一枚しかない)

久しぶりにタウンウィークを楽しむことが出来ました。
企画、写真といつもながらお世話になりました。ありがとうございます。
明治丸の知識など全くなかったのですが、きちんと保存され、明治時代の方々の思いを改めて知ることが出来ました。 鮫島

設営等色々御苦労さまでした。天気にめぐまれ楽しいひと時でした。写真ありがとう。昼食時の会計残 402円は 27日の月一高尾山の会計に寄付します。

高木さん
卒業以来だったかもしれません。小生は五色は不参加でした。
お元気そうで何よりです。
せっかく上京し参加されたのに ゆっくりお付き合い出来ず
申しわけありませんでした。また機会をみつけ参加ください。
お元気にお過ごしください。   吉牟田

昨日は、お疲れさまでした。好天に恵まれ、明治丸の見学はなかなか楽しいものでした。
カメラ持参を頼まれていながら、メールを見落としていたことと標準レンズが故障し望遠レンズしか装着していないため、カメラを持っていきませんでした。
ごめんなさい。    深谷

早速に写真お送りくださいましてありがとうございました。
お天気にも恵まれ楽しい一日でした。清澄庭園に明治丸と素晴らしい企画でした。        八恵子

大杉谷大台ケ原の旅  (39 堀川義夫)

2019年11月6日水、かねてから念願の日本三大峡谷の大杉谷から大台ヶ原へ紅葉を楽しみに出かけました。朝、6時に新横浜発のひかりで名古屋、乗り換えて三瀬谷、そこから登山口まで予約制のマイクロバスで1時間半。12時少し前に到着。上手くできておる。天気は雲一つない快晴で言うことなし。天気は良いが谷筋には太陽が届かない!ここから桃の木山の家までコースタイム約5時間。下手をすれば到着は日没後になってしまう。途中景色は言うことなし!素晴らしい滝や川の流れを楽しみながら、結構頑張った!約4時間で到着。こんな奥地に、、、桃ノ木山の家は良い小屋でした。

11月7日木、今日も晴天。ありがたい!この辺りは日本でも一番の多雨地帯で先週までほとんど雨が毎日降り続いていたとか?今日はコースタイム6時間半、でも昨日の調子で行けば5時間半位で行けるのではとタカを括っていました、、、甘かった。沢筋はきつい。20m登って10m降る。足場は悪い。神経を結構使う。残念ながら紅葉は期待していたほどでなく悔いが残ったが滝の景観は本当に素晴らしい‼️尾根に取り憑いてからの登りは厳しかった。かろうじてコースタイム+休憩時間で何とか日出ケ岳に到着。疲れた‼️頂上で360度の展望を楽しんでいると何と!4年前に7日間掛けてテントで縦走した大峰山脈(奥駆 吉野から熊野への修験者の道)の山並みが全部見えるではありませんが!暫し感激して大休止‼️ のんびりと今日の目的地大台ヶ原の旅館へ2時過ぎに到着。

今日、11月8日は大台ヶ原を満喫しました。大台ヶ原は大きく東と西に分かれていて一般観光客は東大台を散策したり日出ケ岳を楽しみますが、西大台は利用調整地区と言って1日に30人しか入境できません。事前申請し予約して1000円送金し、事前に講習を受けなければなりません。実際には15分程度のビデオを見るだけですが、結構面倒です。
今日申し込んだ人は10人ほどだったそうですが、山中では3人しか会いませんでした。ゆっくり歩くと5時間から6時間位掛かります。静寂で落ち葉を踏む音しか何も音がしません。素晴らしい環境です。ゆっくり自然を楽しむには最適のプランでした。3時30分のバスで近鉄の大和上市駅まで2時間、近鉄の特急で京都へ行って新幹線で帰りましたが、家にたどり着いたのは11時を過ぎていました。疲れたけど実りある3日間でした。

 

”とりこにい” 抄 (3)  1年、夏

高校3年の暮れ、それまでの人生観をがらりと変えてしまった出来事に遭遇した僕は極めて不安定な心理状況のまま大学に進んだ。新しい環境への期待はそれなりに持ってはいたけれども、心の中の不安を拭い去ってしまうなにかが欲しい、という欲求があって、それを期待してKWVに入部した。新しい環境があり、新しい友人もできかけていた。それでも心の奥底にあるもやもやしたものが時として頭をもたげる。そんな心境だった1年の秋ごろだと思うが何となく書き綴ったものを 部誌として ふみあと というのがあることを知って投稿してみたところ、編集をやっておられた丸橋さんの目に留まり、なんと ふみあと10号 の巻頭に載るという光栄に浴した。振り返ってみてなんとも気恥ずかしい独りよがりの文章だが、あのころはこんなにもがいていたんだなあ、と改めて思う。

最後の夏合宿第八班でSLに美佐子を頼んだ

その ふみあと の78ページに小山田(横山)美佐子はこう書いている:

・・・・私の学生時代にはまだ真白いページが沢山残されています。その純白のページを ”やま” という文字で一杯にしようと思ってます。

ミサとは高校3年次に文化祭の委員を通じて知り合って以来の付き合いだが、入部のころの心情がこんなにちがっていたのかなあ、と改めて感じる。ご主人の横山さんは慶応高校からの先輩で家族ぐるみの親友づきあいを御願いしている。

 

急傾斜30度

 

“想い出”とは何だ

ふみしめたビヴラムの間からにじみ出る疑問を

俺はまた考えてみる

急傾斜30度

遠いコルへつづくトレイル

踏みしめても ずりあがっても まだつづくザレ道

にらみつけても けとばしても トリコニイに食い込む石コロ

俺はまた考えてみる 

”人間に記憶は必要だろうか”

澄んだ空には空虚 微風には虚無

カメラ―トの声の聞こえない孤独

泣こうと わめこうと もだえようと こびりついてはなれない ”想い出”

ー 逃避ではない山歩きがしてみたい

なにかの文章を思い浮かべながら

俺はまた 考えてみる

けとばしても ふみつけても トリコニイに食い込む石コロ

そいつに ”お前” と呼びかけたくなって

そっと草かげへ転がした俺

急傾斜30度

トレイルはまだ つづいている -

華麗なる転身 - IT屋から伝統芸術へ

蛹が虫になり、オタマジャクシがアマガエルになるのは大自然の営みであるが、俺たちと同じ世界で売れるの売れないの、ハードよりソフトだのとわめいていたはずの仲間が見事に変身をとげ、今や妙齢のお嬢様や妖気あふれるやんごとなき奥様がたから先生とよばれ、生け花は日本伝統芸術の師範となった。瞠目すべきかはたまたコンチクショーとうなるかは別として、とにかくその個展の会場へ年取った悪童が集まった。曰く 堀星峰個展 (案内にはもう少し違ってより悪童をくやしがらせるタイトルがあったが)、場所は銀座コリドー街とこれまたカッコつけた場所ではござんせんか、星峰の旦那。

旧名 堀義一と申しやす

話をききつけて先回ご紹介した HPのガダルカナル を戦い抜いた仲間たちが集結したがいま思い出してみると師匠からプロらしい解説もなかったし(ま、話しても無駄だと思ったのに違いないけど)、お弟子さんの美形がたとの談笑もなく、ま、個展を出汁にした飲み会の前哨戦だったようだ。何はともあれ、GOOD OLD DAYS と GOOD BUDDIES に栄光あれ !

考えてみたら作品の写真は一枚もない。ひだりから麻生、中司、藤田、堀、浅原、楠

 

 

 

外国語を学ぶということ 2

仕事を辞めてから何度か夫婦で海外旅行をする機会があった。アメリカには仕事の関係上行くことが数多くあったが、ほかの地域にはそれがほんの数回しかなかったので、やめてまもなく、まず、まだ半分現役で現地にいた大塚文雄をたずねてアイルランド全島をドライブした。アイルランドがEUに加盟する前のことだったが、これまでに経験したことのないほど、現地の人情に触れることの多い旅だった。ごひいき、ジョン・ウエインの西部劇には必ず善人役でアイルランド出身のわき役がいたが、まさにそんな雰囲気の、楽しい国だった。ダブリンで飛び込んだパブではアルコールのまわったアイルランド訛りに苦労したけれど、言葉について気を遣うことはなかった。

そのほかにもメキシコ、スイス、イタリア、スコットランドなどと、できるだけパック旅行を避けて気ままにいくことにしてきたが、一度大手の旅行会社が所有する船でライン河を下る、という旅にでかけたことがある。希望する日程では船が下りの旅を終えて上りになる順番だったので、ライン河遡上、ということになった。ただメインはあくまでドイツ。慶応高校は3年次に第二外国語の授業が必修で、一応ドイツ語を取ったし、多少の心得はあったものの、例によって即席のレッスンを何回かとって、船ならばクルーと知り合う機会もあるだろうし、多少は会話も試せるか、という希望を持って出かけた(旅客はすべて日本人)。

企画自体はよくできていて満足のいくものだったが,船上でドイツ語を試す、という機会は全くなかった。ドイツを旅行する旅なのに、ドイツ人は船長だけだったからである。コック、ウエイター、事務スタッフなど、会うクルーのほとんどが東欧諸国から来た人で、ルーマニアかとおもえばハンガリー、スロバキアなどなどで、共通語はブロークンな英語であった。

この旅で当たり前のことだが、ヨーロッパ、という人間の集合がここに確かにある、ということを改めて感じた。国境を越えて旅をし、仕事をし、生活することが至極日常な世界なのだということだ。ローマ帝国が建設されたころ、わが日本という国はまだ存在していない。そのころから絶えず離合集散と悲惨な戦争を繰り返してきた国々が今なお、自分たちの生存圏を守り、陸続きの国境がありながらなお母国語を守り続けている。そういう前提の中で異国に旅し、異国で生き、働くことが当然という環境がある。その中で共通の言語として英語が選択されている、というのはある意味不思議なことに思える。英国は欧州本土にはない。欧州本土の覇者は例えばフランスであり、ドイツであり、さかのぼればスカンディナヴィアの国々だったのに、なぜ、英語なのだろうか。

19世紀、陽の沈まない帝国、として英国があった。しかし同時に地球規模の帝国としてスペインがありポルトガルがありオランダがあった。その結果、世界の国々は英語圏、スペイン語圏、ポルトガル圏、というように色分けされているが、それらを越えて英語が世界語になった。これにはもちろん、第二次大戦後のアメリカが英語圏の国であり、そのプレゼンスがもたらした結果なのだということも大きな理由であるのは疑いがないけれども、それにしても、である。

世界で通用する ”ハム”語 による交流.交信後に交換するカードの一例

僕は中学のころからアマチュア無線に興味を持ち、細々ながら現在まで続けてきた。 ”King of hobby” と呼ばれるようにアマチュア無線の範囲は実に広いが、短波を使う部門では、電波の伝達の特性から、当然世界中の同好の士(ハム)との交信がメインとなる。戦前は通信機器自体の性能もあり、外国との交信はモールス符号によるものがほとんどだった。モールス符号、は文字通り符号であり言語ではない。しかしその基本さえ覚えてしまえば、世界中の相手と母国語には関係なく交信ができた。この世界ではモールス符号が世界語だったのだ(たとえば 数字の ”73” は、”またお会いしましょう、よろしく” を意味する)。

ところが第二次大戦後、電子技術の進歩のお陰でハムの通信機器も戦前とは比較にならないほど進歩し、通信の大半をモールス符号ではなく、通常の言語によるようになった。となると当然だがそれを何語でやるのか?という疑問が起きる。事実、10数年前くらいまでは、専門誌には フランス語やスペイン語での交信についての解説があり、簡単な情報交換はいくつかの主要言語でやろうではないか、という暗黙の了解があった。しかし現在ではこの種の記事はあまり目にしたことがない。ハムの交信は英語でやるのが常識になってしまったからだ。ここでまたアマノジャクが首をもたげてきた。英語でなく、相手の言葉でQSO(ハムの世界では交信のことをこう言う) をやってやろう! ということである。