三鷹事件、という事実、戦後の特筆されるべき史実のひとつを覚えている人は僕らの年代の方々までではないだろうか。当時三鷹はまだまだいわば辺境で、編集子が就職した昭和36年(1961年)でさえ、横河電機の本社が三鷹(住所は武蔵野市)だというと、へえ、三鷹ねエ! と丸の内族には馬鹿にされたくらいだった。
グーグルで検索すると、
”1949年7月15日に東京・三鷹市で起きた電車の暴走・転覆事件です。 この事件は米軍占領下で発生した「下山事件」、「松川事件」と並ぶ国鉄三大謀略事件の一つとされ、多くの謎に包まれていました。 しかし、裁判では竹内景助さんが単独犯として死刑判決を受け、再審請求中の1967年に獄死しました” と簡潔に記載している。
終戦後の大混乱がようやく収まりつつあった日本では、戦争責任を問う動きが活発化し、それに呼応して、共産主義をとなえる人たちが(どこまで本気だったのかはよくわからないが)政権転覆をとなえていろいろな(破壊行動を含む)活動を展開していた。その中心的存在が大企業の労働組合で、特に国鉄(現在のJRの前身)のそれは 国鉄労組 という名前が独り歩きするくらい、左翼主義の人々の砦だった。占領軍(という単語自体、現在の若い層には通じないかもしれないのだが)は日本の旧体制を破壊する目的もあって、日本では国禁とされていた労働組合運動をいわば再生させた手前もあり、このような動きには困惑していたであろう。この事情をウイキペディアは次のように解説する(一部省略)。
当時、中国では国共内戦により中国共産党の勝利が濃厚とされ、日本の国政でも日本共産党が議席を伸ばしていた。共産党員やその支持者が多かった国鉄は、共産主義化を警戒するGHQによってレッドパージの対象となり、複数の共産党員の国鉄職員が逮捕された。この事件も 政治的な共同謀議による犯行だとして、国鉄労働組合(国労)の組合員の日本共産党員10人と非共産党員であった元運転士の竹内景助]を逮捕した。1950年(昭和25年)東京地方裁判所(鈴木忠五裁判長)は、非共産党員の竹内の単独犯行として無期懲役の判決を下す一方、共同謀議の存在を「空中楼閣」と否定し他を無罪とした。検察は、全員の有罪を求めて控訴・上告したが、竹内以外については無罪が確定した。竹内の控訴審で東京高等裁判所(谷中董裁判長)は、1951年(昭和26年)、竹内についてのみ検察側控訴を受け入れ、書面審理だけで一審の無期懲役判決を破棄し、より重い死刑判決を言い渡した。
なぜ、今、三鷹事件などを引っ張り出したのか。政治的な意味はもちろんないのだが、きっかけは一昨日、妻や義妹たちと一緒に義母の墓参りに八王子にある富士見霊園に行ったことだ。此処はもちろん何回も訪れているが、義父母の墓碑以外、周りを歩いたことはなかった。今回は時間があったので、少し足を延ばしてまわりを散策してみたところ(この霊園は遠く丹沢山塊を見晴らす、いいロケーションにある)全く偶然に、上記した竹内景助氏の墓に行き当たったのだ。それだけならば、(あ、あの人か)という程度の偶然で終わったのだろうが、その墓碑の異常さに衝撃を受けた。
墓碑の中心に 無実 の文字があるのは(刑執行以前に病死されたとのことだが)故人の遺言なのか、ご家族の遺志なのかはわからない。しかし無念、の二字だけは強烈に僕の心に染みこんで離れなくなった。やがて自分にも訪れる最後のときに何を思うか、わからないし、彼の罪の有無を判断するすべもないが、彼が最後に見たのはなんだったのだろうか。いつか本稿にも書いた気がするが、石原慎太郎がテレビ番組で、”ああ、俺は今死ぬんだ、と意識して死にたい” と言っていたのを思い出したりして、妙な精神状態のまま帰宅した。
夕食の時間になって、テレビをつけたら、番組の名前は忘れてしまったが、女性歌手が マイウエイ を日本語訳の歌詞で歌っていた。フランク・シナトラの独特の哀調を帯びた歌はもちろん知っていたが、待てよとグーグルをひいてみて、この原作が実はフランスのものだったと知ってびっくりしたし、その英語版を作ったのがポール・アンカだと知ってまた驚いた。小生たちのジェネレーションで言えばアンカとはかの ダイアナ であり、作曲家としては史上最大の作戦の軽快なマ一チを書いたところくらいまでしか知らなかったからだ。その英語訳の出だしはこうなっている。
And now, the end is near
And so I face the final curtain
My friend, I’ll say it clear
I’ll state my case, of which I’m certain
和訳の歌詞としては布施明が歌ったものが有名らしいが、グーグルには布施明と美空ひばりのマイウエイの歌詞が違うのはなぜか? なんてのがあったりする。シナトラの歌を聞いただけでは気にもとめなかったが、この英語訳を見ると、布施が ”いま船出がちかづく” と始めるのは、ある意味では誤訳というか、原曲の雰囲気を取り間違えてしまうのではないか、と思えてきた。the end is near というのはあきらかに自分の最後(ヘミングウエイの ”真実の瞬間” と言っておこうか)を表しているのだが、”船出” という単語はこれから新しい場面が始まる、という感じになるし、そのあとに my way とくれば、その出発の心意気を描くようにも取れる。事実、過去何回かの結婚披露宴の席でこの歌がうたわれるのに出くわした経験もある。それとは別に、小生には、中心になる my way の訳し方が布施は すべては心のきめたままに と歌うのだが、なかなか原曲(フランス語を解しない小生には英語版でしかわからないが)の持つ雰囲気を伝えている気がしなかった。
ところが今度聞いた時、歌手(あとでケイコという人だと知った)がこのフレーズを 私のやり方で と歌った。例によって全く理論的にも何的にも理由はないのだが、竹内が自分の意思に反した終結をまえにして何を思ったか、自分は my way で生きてきたか、と考えたとき、それは 心のきめたまま ではなかったのではないか、と思ってしまった。そしてその訳は、こころのきめたまま、よりもより直截的なこの訳のほうがいいのではないか、と感じたのである。
グーグルの記述がどこまで真実なのか、という事も言い出せばきりがないが、それによれば、竹内は一緒に事に当たった仲間に、いわば裏切られた(彼らは無罪)無念の最後だったともいわれる。その是非はともかくとして、共産主義社会の到来こそが国のゆく道だ、と信じたうえでの(my way) 自分の行動が、結果として無実の人々を死に至らしめる結果になるとは竹内本人は考えもしなかったのではないか、と想像するし、同じ道を進んだはずの仲間から見捨てられた、その自分の 真実の瞬間 が近づいた時、彼が悟ったであろう my way は何だったのだろうか。
だから何だといわれても答えようはないが、秋の陽光のなかで黙って光っていた 無実 の二文字が引き起こした感情はしばらくは自分のなかで消えそうもない。
(船津)松本清張がこの三件の事件について書いていますが内容は忘却です
しかし、この国鉄関係の事件はどうやらGHQの黒い霧の中のよう
朝鮮戦争勃発で対日政策もガラリと変わり、統一教会の始まりの勝