先に書いた、ヌーヴェルヴァーグというジャンルに入るエーガのいくつかを紹介しておく。
①勝手にしやがれ
ヌーベルバーグの記念碑的作品であり、フランソワ・トリュフォーが原案、クロード・シャブロルが監修、ジャン=リュック・ゴダールが監督・脚本を務めた。ゴダールにとっては初の長編映画である。
ハンフリー・ボガートを崇めるミシェルは、マルセイユで自動車を盗み、追ってきた警察官を射殺する。パリに着いたものの文無しで警察からも追われているミシェルは、アメリカ人のガールフレンド、パトリシアと行動を共にする。だが、ミシェルが警察に追われる身であることを知ってしまうパトリシア。パトリシアは、パリで地歩を固めたい駆け出しの記者・ライターであり、ミシェルはどちらかと言うとフランスにいることに執着がない。
やがて一緒に逃げることを断念したパトリシアが警察に通報してしまう。劇中も何度か出てきた「最低」という言葉を最後にミシェルが言う。「君は本当に最低だ」と、かすれ声で言われたその言葉が訊きとれず、パトリシアは「彼はなんて言ったの?」と刑事にたずねると、「あなたは本当に最低だと彼は申していました」と伝えられる。パトリシアは「最低ってなに?」と訊き返す。
ジャン=ポール・ベルモンドはフランス映画に対する強い思いから英語圏の国が製作する映画には出演しなかったことで知られ、ハリウッドから数多くのオファーがあったにもかかわらず辞退していたという
アラン・ドロンとは、キャリア初期から何度も共演するなど親交があり、”永遠のライバル”と呼ばれた。訃報に対しての取材にドロンは「私は砕け散った」「彼は仲間だ。60年前から知り合い、一緒に仕事をして、とても親しかった」と動揺を隠せない様子で語り「私の人生の一部なんだ」と1950年代後半から続いた交流を振り返った
2021年9月6日、フランスのメディアによって、パリの自宅で死去したことが伝えられる。88歳没。
②大人を分かってくれない
フランソワ・トリュフォー監督の最初の長編映画。原題の「Les Quatre Cents Coups」(あえて直訳すれば「400回の殴打、打撃」)は、フランス語の慣用句「faire les quatre cents coups」(「無分別、放埓な生活をおくる」といった意味)に由来する
12歳のアントワーヌ・ドワネルにとって、毎日は苦痛の連続であった。学校では成績も悪く、いたずら好きで先生に叱責される。家では厳しい母親と、稼ぎも少なくうだつの上がらない父親に囲まれた息の詰まる生活。寝袋にくるまって両親のケンカを聞かされる日々。ある日、登校中に親友のルネと出会い、学校へ行くのを止める。午後に母親が街中で見知らぬ男と抱き合っているのを見て視線が合う。母は帰宅せず、翌朝、前日の欠席の理由を教師に追及されて「母が死んだのです」と答えるが、欠席を知った両親が現れてウソがばれる。
そんな彼の楽しみは映画を観ることだけだ。しかしある日、尊敬するバルザックの文章を丸写しして提出した作文がばれて叱られ、弁護したルネが停学になる。アントワーヌも家を出て、金持ちのルネの家に隠れ住む。やがて金に困り、ルネと一緒に父の会社のタイプライターを盗む。換金できず、戻しに行った時に守衛に捕まる。父親が警察へ連行する。非行少年として少年審判所へ送られ、護送車の中で初めて涙が出る。母親が判事の鑑別所送りの勧めに応じたため、束縛された毎日を過ごす。母親がようやく面会に来るが「ここが似合いだよ」と冷たい。監視の隙に脱走。野を越え、海へ、海へ。初めて見る海は大きかった。海辺に立ちつくし、ふとこちらを向いたまま動きを止める
パリに生まれたトリュフォーは両親の離婚から孤独な少年時代を過ごし、幾度も親によって感化院に放り込まれるなど、親との関係で問題の多い少年だった。1946年には早くも学業を放棄し映画館に入り浸り、1947年にはシネクラブを組織し始める。そのころ、のちに映画評論誌『カイエ・デュ・シネマ』初代編集長(1951年 – 1958年)となる批評家アンドレ・バザンと出会う。以降バザンが死ぬまで親子同然の生活を送る。彼の勧めにより映画評論を著すようになり、『カイエ・デュ・シネマ』を中心に先鋭的かつ攻撃的な映画批評を多数執筆した。特に、同誌1954年1月号に掲載された「フランス映画のある種の傾向」という文章は厳しい論調だった。
③去年マリエンバートで
『去年マリエンバートで』(きょねんマリエンバートで、L’Année dernière à Marienbad)は、1961年公開のフランス・イタリア合作映画。アラン・ロブ=グリエによる脚本をアラン・レネが監督したモノクロ映画である。1961年、ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞受賞。日本公開は1964年5月。
脚本のロブ=グリエ自身の言によれば、黒澤明監督の『羅生門』に触発されて作られた作品である。より正確に言うならば、芥川龍之介の『藪の中』を下敷きにした作品群の一つといえる。
ロブ=グリエがこの映画の仕掛けについて語っている。 それによると、黒澤明の『羅生門』がモチーフとなっており、最初に、
• 現在
• Xの回想(Xにとっての主観的事実)
• Aの回想(Aにとっての主観的事実)
• 過去(客観的事実→Mの視点)
の4本の脚本が作られ、それらをバラバラにつなぎ合わせて、最終的な脚本が完成したという。その際に、それぞれの場面が1から4のどの脚本に該当するのかがなるべくわからないように慎重につなぎ合わされ(時間軸の入れ替えも行われている)、最終的に完成した脚本はダイヤグラムシートを伴う、非常に複雑なものになった。わかりにくい映画だったが何か惹かれるものがあったエーガ。
④二十四時間の情事 日本題名が良くないなぁ
Hiroshima mon amour ヒロシマ・モナムール)は、1959年の日本・フランスのドラマ映画。アラン・レネ監督の第1回長編劇映画作品で、脚本はマルグリット・デュラス、出演はエマニュエル・リヴァと岡田英次など。被爆地広島県広島市を舞台に、第二次世界大戦により心に傷をもつ男女が織りなすドラマを描いた作品である。日本での邦題は当初『ヒロシマ、わが愛』とされていたが、公開時に『二十四時間の情事』へ変更された。ただし近年では、日本においても原題のまま『ヒロシマ・モナムール』と紹介される場合もある。アラン・ルネはヒロシマの悲劇のドキュメンタリー映画を作るつもりだったが、実際を観てこの映画になったとか。
来日し、広島へ反戦映画のロケに訪れたフランス人女優が、日本人男性と知り合い、深い仲になる。2人の情事の際の会話が続く冒頭では、広島の原爆被害の惨状を訴える映像シーンが続く。
2人はともに第二次世界大戦で戦争による悲劇的な体験を有していた。日本人男性は米軍の原爆投下によって家族を全て失っており、フランス女性は故郷ヌヴェールでナチスの将校と恋仲だったが、戦後に周囲から糾弾や迫害を受けた過去を持っていた。非常に良いエーガだったと思いますが、題名のせいか日本では余り評判良くなく後年評価された。
日本のヌーヴェルバーグ映画については余白無くまた、大島渚作品は余り評価しないのでタンマ。
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