コロナ禍の消化法―オーディオファンの皆様へ  (44安田耕太郎)

マニアではないがコロナ禍で自宅にいて、映画に加えて、音楽を聴く機会が増えました。 再生音楽をオーディオシステムで聴く時、音の ダイナミクス(dynamics)やダイナミックレンジ(dynamic range) という表現を耳にします。
音楽の作曲や演奏における「ダイナミクス」と云うのは、象徴的なものとして「pp(ピアニッシモ、とても弱く)」「mf(メゾフォルテ、少し強く)」、「f(フォルテ、強く)」のような強弱記号で表される、音楽または音色表現の強弱を示す場合があります。

生演奏でない再生音楽をオーディオシステムで聴く場合、スピーカーのダイナミクスが優れていると、より生の音に近く聴こえると云われます。音の「ダイナミクス」とは動的なリニアリティ(linearity 直線性)と置き換えてもいいかもしれません。スピーカーからどれだけ大きな音を出せるかということではなく、瞬間的に出さなければならない音を、どこまで瞬時に発することが出来るかということです。要は瞬時のトランジェントの(transient、一時的な)スピード感です。

分かりやすい例を挙げれば、隣の部屋で演奏される実際のピアノの音とオーディオシステムから発せられるピアノの音とでは、どちらが生の音かは見えなくても聴けばすぐに判断できる。音色の違いも識別する要因ですが、それは周波数特性と音量がまったく同じだとしても、音のエネルギーが発せられる(burst)ときのスピードが異なるからです。生のピアノの方が圧倒的に早く迫力があります。それが両者の音の存在感を決定的に違うものとしている理由です。楽器がヴァイオリンの場合も結果は同じです。電気信号を音に変換するオーディオシステムでは、このダイナミクスをいかに上げて生の音に近づけるかは難しい物理的課題或いは限界です。

オーディオにおける「ダイナミック・レンジ」は、録音再生できる最小と最大の音の比率、幅を表す尺度。大雑把には「ダイナミック・レンジ(音量の大小)」はダイナミクス(音楽表現の強弱)を構成する一つの要素である」と言い換えることもできし、ダイナミック・レンジの小さいオーディオ・システムでは大編成のオーケストラ演奏曲を生に近い迫力で聴くのは不可能です。

ダイナミック・レンジを表す単位、最小音量と最大音量の関係を示す比率(倍率)をデシベル(dB)といいます。デシベルは対数(通常logと表記)なので、単位数が大きくなるにつれても比率は比例しません。

デシベルと音量の関係をあらわす目安をあげてみます。

120dB    飛行機のエンジンの近く
110dB    建設現場のリベット打ち
100dB   電車が通るガード下
90dB     大声による独唱
80dB     地下鉄の車内(窓を開けた)
70dB     騒々しい事務所
60dB     普通の会話
50dB     都会の住宅地
30dB     静かな住宅地

電車が通るガード下(100dB)は普通の会話の音(60dB)の100倍、飛行機のエンジン音は1,000倍の大きさ(6dBの差で2倍、10dBで3倍、20dBで10倍)の大きさ、窓が開いた地下鉄車内は普通の会話の10倍の音の大きさだ。

市販のオーディオ・スピーカーのダイナミック・レンジは80dB〜100dBくらい。ベートーベンの交響曲第5番「運命」、ワグナーの「ワルキューレの騎行」、ムソルグスキーの「展覧会の絵」などのダイナミックレンジの大きな曲は、90dB以上あるオーディオ・システムで余裕を持って聴きたいものです。

「オーディオは生演奏には絶対かなわない」というような表現をよく耳にします。オーディオと生演奏は、両方の魅力、そしてお互いの一長一短があるはずだと思います。オーディオをコンサートの代替でなく楽しんでいる粋人を何人も知っていますが、 一級のオーディオ製品は、技術(technology )と芸術(art)が最高点で融合する時に産まれるといわれます。技術は音響学的・電気的・機械的面を総合する製品作りをさし、オーディオにおける芸術性は、個性的で魅力的な音創り面と工業製品としてデザイン面に表現されることになります。先に述べた「ダイナミクス」を向上させる目的は製品開発の最重要課題の一つです。

自分の好みに合ったオーディオは生演奏とは全く異なる音楽の悦びを与えてくれそれ自体が独立した存在ともなり得ます。自分の愛機 (眺めるのも愉しい) からいかに素晴らしいサウンドを作り上げ、再生で聴く音楽というのは、コンサートで味わう音楽とは別世界。比較する対象でない別物だとも云われるし、オーディオで再生音楽を楽しむ達人を「レコード演奏家」と言ったりもするほどです。

生演奏の1番の魅力というのは、大音量、ダイナミックレンジの広さ(再生空間の広さ)、音場に包まれる空気感といったものでしょう。また、そのとき、その場所にいて、その感動を得るというリアリズムが堪らなく魅力的なので、こればかりは一般家庭のリスニングルームでは敵わない永遠の壁でもあります。 一方で生演奏は、座席による音響のムラがあるし、また演奏者の出来不出来によるムラもあります。ダイナミックな迫力はあるのだけれど、結構雑というか不出来の時の生演奏ほど落胆するものはない。その点オーディオは、当たり外れがなく常にベストの演奏、音響を時を選ばずして聴けるので、 生演奏は生演奏。オーディオはオーディオというように楽しみ方を割り切るのが賢明だと思います。

そういう意味でも、生演奏とオーディオは持ちつ持たれつだし、楽しみ方はそれぞれ違うところにある、と思っているので、一概に、「オーディオは生演奏には絶対敵わない」などと言うつもりはありません。1980年代以降の「重厚長大から軽薄短小」と「アナログからデジタル」の波に呑み込まれて久しいオーディオ業界は、往時1970〜80年代の熱気はもはや無く、ヘッドフォンやイヤフォンで音楽を聴く風潮を憂えています。昨今、自ら楽器を弾き、歌うDIYに勝る楽しみ方はないとつくづく思います。DIYできない人の戯言ですが。

(菅原) 小生、難しいことはサッパリ分かりませんが、若かりし頃は、例えば、五味康祐の「西方の音」などを熟読して、高級な 音響装置に憧れたものです。例えば、タンノイとかワーフデイルのスピーカーなど。しかし、一介の会社員が贖える価格ではなく、結局、身の丈に合った装置に落ち着きました。それに、どう足掻いても「生は缶詰に優る」からです。生より美味い缶詰はあるんでしょうか?
現在は、パソコンにイヤフォンを付けて聴いてる体たらくで、かなり堕落した音響環境です。共同住宅住まいでは、致し方ありませんが。と言うわけで、缶詰も乙なもんだと楽しんでいる次第です。

(安田)五味康祐はギョーカイでは有名なオーディオ評論の巨人でした。僕も彼の著書を愛読しました(写真貼付)。泰斗ぶりは半端ない達人でした。剣豪小説家らしく、製品や演奏を首斬り山田浅右衛門の如く、小気味良くぶった斬っていました。タンノイ、ワーフデール共にイギリスの名門スピーカー。タンノイは僕が勤めた会社が一時期子会社として傘下に所有していて、五味も愛用していました。工場はスコットランド・エジンバラ近くにあって現役時代訪問したことがあります。クラシック音楽向き、特に弦楽器が素晴らしいスピーカーです。

(編集子)筆者は著名スピーカーメーカーの勤務が長く、製品や業界情報に詳しい存在。世の中には (今さら聞くに聞けないし)、という、人間のミエが沢山ある。デシベル、という言葉をもう一度、理解しなおしてみようか。編集子には生演奏の出来不出来、を聞き分ける能力は全くないから、(今日のピアノはどうだった?)などという話題にはくわわれない。これは(聞くに聞けない)レベルではないと思うんだが、(聞ける)人って結構いるんだろうなあ。