“大衆社会” の到来

1月6日付けの読売新聞は2面を割いてポピュリズムの過熱、ということを論じた。ポピュリズムについては昨年、いくつかの投稿をもらって論じたこともあるが、この記事を読んで、現在の世界を蹂躙しているのがグローバリズムを信奉する大企業の行動であり、その結果生まれた多極化と格差の拡大である、ということを改めて認識した。硬くて面白みのない議論だが、この記事を読んで感じたことを書かせてもらう。

昭和33年、経済学部に進学はしたものの、経済学そのものには僕は魅力を感じなかった。いまでは死語になってしまったのかもしれないが,”近経”(近代経済学派)と”マㇽ経”(マルクス経済学派)との論争が華やかだったころで、塾にも福岡さんとか大熊さんといった売れっ子的教授のゼミに人気があったし、数理経済学なども登場したころだ。僕はこの風潮には魅力を感じず、社会思想史、という経済学部としてはやや傍流のゼミナールを選択。ワンダーでは翠川(4年次には彼のオクガタたる運命を背負って紀子君も参加)と一緒だった。

社会思想史、とは、基本的には人間社会をより良くするための社会改革に、歴史上どのような論理・学説が説かれてきたかを学ぶことである。僕がこの分野に興味を持ったのは高校3年の時の選択科目で,エリヒ・フロムの ”自由からの逃走” を読んだことがあり、民主主義という思想が実は危機に瀕しているのだ、ということを知ったのがきっかけだった。卒業論文は”エーリヒ・フロム研究” という怪しげなものだったがなんとか及第できた。その論題は、現在の民主主義社会は早晩崩壊し、”大衆社会” に移行するだろう、ということにあった。

民主主義とは、社会を構成する人間が理知的な判断に基づいて情報を得、判断し、その結果に基づいて社会を運営する、ということを基本にする。問題はその判断をするための、偏りのない客観的な情報なり知識なりがどうやって得られるか、という点にある。フロムの論点は、現代社会においては、人々が判断の基本とすべき情報が、偏りのない形で得られることはなく、民主主義の結果だと信じられている人々の行動がすでに何らかの形で、意図的に誘導されてしまっているのだ、ということにある。独裁国家であれば、その主張は独裁者が作り出すものであるから、すなわちその社会の権威は誰か、がわかっている。これに対して現代の民主主義体制では、そういう明確な権威者は存在しえないことになっている。それでも何らかの方向に人々を誘導するものが確かに存在する。それをフロムは ”匿名の権威” と呼ぶ。そしてそれは結局、マスコミニュケーションであり、人々は明確な理由がない限り、それが誘導する方向に進んでしまう。とすれば、社会を動かすのはすでにエリートや有徳者ではなく、自分自身では意思を持たない、大衆になってしまう。この形態が大衆社会とよばれるものなのだ。このことについて、フロムは Are we sane ? (われわれは正気だろうか?) と問いかけ、彼の主著とされる The Sane Society という本を書いた。

フロムはこの民主主義の破滅を ”自由からの逃走” と呼んだのであり、その実例として、欧州人が理想と考えたワイマール政府がヒトラーによって壊滅したことを挙げる。そしてこの“逃走”が、民主主義の権化と信じられているアメリカや西欧諸国において進行しているのだ、と警告し、そのきっかけとなり得るものはマスコミの拡大と個人の組織への従属にあるとした。フロムがこの本を書いたときには、マスコミとは新聞でありラジオであり、せいぜいテレビだった。現在はSNSという怪物が存在し、個人の考えや宣伝が直接、個人に届く時代、米国大統領がツイッターで発信する時代である。マスコミ、という組織的媒体はその可否はともかく、一定の客観性を保ち得たのだが、その存在意義はすでに二次的なものになりつつある。その結果、読売の記事が嘆くように、世界中がいまや過多の情報とそれに対する個人の情緒的反応とに左右されるポピュリズムそのものに動かされている。まさに大衆社会がついに到来したのだ、と思わざるを得ない。

全くの偶然から、いまや、代表的グローバル企業と目される外資系会社でサラリーマン生活を終えた人間としては、どうしても ”グローバリズム” なるもののダークサイドのことを考えざるを得ない。読売の記事が書いたように、格差の問題は日本はまだ救いがあるようだ。日本発、日本製のグローバリゼーションも数多いなかで、この日本的解決が何とか生き延びていくにはどうすればいいのか。いままで 外国語を学ぶ という論題で、日本でのありかたを多少論じてきた。欧州かぶれ、鹿鳴館的行動を排し、倫理と民度の高さにもとづいた行動を通じて大衆社会時代に毅然として対していきたいものだ。