こういう時代もあったのだと懐かしく読ませて頂きました。
アメリカ生まれ(1935年)の日本育ち(5歳から22歳)のケンは兄、姉(すでにアメリカでの通学経験あり)と違い英語との対面は中学での I am Tom Brown で始まる“Let’s learn English” で周りの人となんら変わりはなかったです。
大きな変化が訪れたのは1958年に徴兵され、日本語は一切無い、完全な英語社会に放り込まれ、半年を過ぎたころに “俺は日本人だ、間違って当たり前だ“ の境地に至って・・、からどんどん前向きに対処し、どんどん会話力が付きました。
日本人は中学から10年近く何らかの形で英語とのお付き合いがあり学んだ単語の数は充分ですので、後は四の五の言わず、単語の羅列で可能な限り早く“日本人だから間違って当たり前”、“お前は日本語は話せないだろう”の境地に入り込めれればしめたものです。
Ken
(編集子注)
上南さん、というのも多少照れるのだが、愛称 ”けんさん” はYHP (現日本HP) 創立時の入社第一号、小生会社時代の親友のひとりである。創立2年目から日本駐在の米人スタッフが増えたため、担当領域にとどまらずバイリンガルの能力を発揮して日米間のコミュニケーションに欠かせない存在になった。専門領域ならともかく、当時まだ力のあった労働組合との交渉など、日本人でさえ苦労する ”腹芸” の場で、労使の橋渡しをする場面など小生も陪席することがあり、その見事な通訳にただ感嘆したものであった。
本稿 ”外国語を学ぶということ” の初めに紹介し、”そこをなんとか” は翻訳できないよ、と教えてくれた人物とは彼のことである。外国 (もっとも本人がその時米国籍をすでに持っていたのかどうかは知らない)の軍隊という特殊社会を経験し、なまじっかな留学生やら企業の駐在員などとは次元の違う環境で体得した、だれだったか語学の権威が言っていた “斬れる英語” とはこういうものだろうな、とあこがれたものだった。
僕らの時代、YHPには単なるゼニカネや成績を越えて、合弁会社という場を得て、なんらかのかたちで日米の懸け橋になろう、という暗黙の了解が全社員の間にあったような気がするし、そういう意味からも英語を学ぼう、というモチベーションがあったのだろう。YHPから日本HPへと変身した時点でできた社史のタイトルがその意気をあらわしているようだ。