ブログ中、「我々は本当に正しい歴史を作り出していけるのだろうか。どうも小生の持論の、”高潔な指導者による独裁” のほうが好ましく思えるようになってきたのだが」 についての私見を述べます。僕もその案件に最も興味を持ち、総論には全く同感です。私見言及の前に、”小泉悠”について。早稲田大学社会学科学士・政治学科修士卒、現在東大先端科学技術研究センター・准教授。新進気鋭の41歳、テレビで彼の顔を見ない日はないほどの引く手あまたのロシアの軍事・安全保障政策の専門家。妻はロシア人。
有名なウィンストン・チャーチルの逆説的発言「民主主義は最悪の政治形態だが、これまでに試されたすべての形態を別にすればだが」で彼が礼賛した民主主義は、現在、試練を迎えているのは明らかだ。民主主義体制の盟主アメリカの衰退がそれを助長しているかにみえる。専制独裁政権の迅速な意思決定と強権に基づく国力の統合集中運用という特長を最大限に活かす形態に対して、民主主義の弱点は、形態の本質上、意思決定の緩慢さ(遅延)と国論の分断、更には選挙(国政や議会レベル)による為政者や政権の頻繁な交代により長期的戦略行使の困難・・など、独裁専制国家の政策意思決定とその実施の果断さと統一性に対して意思決定スピードと運用面では劣っていると云ってよい。
独裁専制国家が民主的な政治形態(或いは“的“)の国家を蹂躙した例は歴史上枚挙に暇がないが、二つ三つ挙げると、15世紀後半から16世紀初めのヴァロア王朝のフランス王国はイタリアへ戦争を仕掛け、都市国家フィレンツェ共和国のメディチ家を追放し、神聖ローマ帝国のカール五世はローマを攻撃、破壊した。19世紀末、ナポレオンは1000年続いたヴェネチア共和国を攻め滅亡させた。更に、近代ではナチスドイツのパリ占領なども含まれるだろう。
遂行する目的が理や正義に適っているか否かは別にして、より効果的・効率的で迅速な目的の遂行の観点では、独裁専制国家のほうが有利なようである。このような歴史的事実に照らすと、”高潔な指導者による独裁”は、確かに魅力的な選択肢であり、実現すれば民主主義と独裁制の長所が組み合わさった理想的な形態となるには疑いがない。但し、問題は、”高潔な独裁者” が存在しうるか否かである。独裁者が高潔なはずがないと思うからだ。高潔な指導者による独裁の最大の欠点は、実行現されたとしても個人に頼る宿命からは逃れられず、その持続性は大きな問題で不安定な政治形態となりうる。
独裁者は、基本的に権威主義的、野心的、利己的、猜疑心が強い、高圧的、感情的、プライドが高い、他人の意見に耳を傾けない、自分が正しいといつも思う、自己顕示欲が強い、独占欲が強い、自分のミスを認めない、他人のせいにする、自己目的完遂の為には手段を選ばす残酷となる、など。一言でいえば、“嫌なやつ”で、高潔な指導者になりようがない性格の持ち主だ。もし高潔な指導者が存在するにしても、彼(彼女)は独裁形態を選択するのだろうか?僕は、この点については懐疑的だ。真に高潔であれば、独裁の道には進まないだろう。逆にいえば、独裁者は高潔な指導者ではないだろう。
歴史上、“高潔な指導者による独裁” の例は寡聞にして知らない。大昔の古代アテネのペリクレスあたりは知られているが、これとて2500年前のこと。真実は不明だ。最近では、シンガポールを独立後目覚ましく成長させた初代首相リー・クアンユーが思い浮かぶ。
いずれにしても、民主主義と独裁専制体制2つのせめぎ合いは拮抗しつつ継続し、覇権争い(米中間)、宗教・民族問題、世界温暖化問題、経済問題、軍事的緊張問題なども重層的に絡み予断を許さない世界情勢が続くと予想される。主要国のリーダーの政権担当力量、政権交代、彼らの健康・寿命などにも注目したい。
(菅原)「高潔な指導者による独裁」って言うことは、権力に通じる。そこで、小生のバカの一つ覚えで、英国のジョン・アクトンの以下の格言を思い出す。
「権力は腐敗の傾向がある。絶対的権力は絶対的に腐敗する。偉人は殆ど常に悪人である」。って言うことらしい。現在、「くじ引き民主主義」に興味あり。
(編集子)独裁は必ず腐敗する、ということはたしかフランクリン・ルーズヴェルトも言っていたような気がするね。
関連