喫茶店とのつきあい (1)

今考えても楽しかった普通部での3年を終えて高校に入学するとすぐ、新聞会に入った。当時は全国の主な高校には学生新聞があり、コンテストなども行われていたが慶応高校の Highschool News は常に別格扱いされる、内容も編集技術も抜群の存在だった。編集長のYさんはまるで別世界の人のように大人びていて、それを支える上級生も神様のように見えた。あの、どっしりとしたコンクリート3階建て、冷え冷えとした日吉校舎の2階、206号室の鉄製の重いドアを開け、隅に座って上級生の声がかかるのを待っていたのが懐かしい。

夏休み前になってYさんから、僕ともう一人の1年生、藤本恭(一時創刊間もない“女性自身”の編集長などを歴任した職人肌の好漢だったが、2001年に急逝)の二人(考えてみると藤本ではなくてカメラが職人裸足だった船津於菟彦だったかも)で、喫茶店探訪を命ぜられた。当時の普通部は学外の行動にとても厳格で 保護者なしでは映画館にはいることもできなかったくらいだから、渋谷や銀座の喫茶店を”探訪“するなどおっかなびっくりだった。初めて入ったのが渋谷の”“という店だったのだけは覚えている。ここはまだ同じ場所( 建物は当然変わってしまっているのだが、そうだと思っている)で営業しているのがうれしい)。

これが僕の”喫茶店”というものとの付き合いのはじめなのである。高校時代は日吉駅の北口を出たところにできた“巴里苑”(普通部3年の時までは丸善だった)くらいしか覚えはないが、大学に入ってからは自由が丘が便利になり、ちょくちょくと映画を見に行くことが増えた。南風座とロマンス座というのがあって、横山美佐子とたしか阪田清なんかがいたような気もするのだが、数人で入ったものの座れず、後ろから背伸びしながら“シエーン”を見た記憶がある。そんなことがきっかけで当時まだ珍しかったジュークボックスがおいてあったセ・シ・ボン”という店を見つけた。学部は違ったが授業の空き時間が偶然に一緒だった住吉康子と彼女の友人中島教子など何人かでよく出入りした。サム・テイラーの”ハーレム・ノクターン”や”夕陽に赤い帆” なんかが流行りだしたころである。

三田へ通うようになると、やはり地の利で銀座界隈へ出る機会が増えた。当時あったルノーのタクシーを使うと90円で映画街までいけたから、部室で何人かまとまれば150円で映画を見て、というのが自由が丘にとってかわった。山へ行っている以外には、酒の好きな連中は別として、当時は映画か、僕はやらなかったが麻雀くらいしかパスタイムの選択肢がなかったから、時間を過ごす場所として喫茶店、というのがごく当たり前だった。インテリを名乗る連中は“田園”とか“らんぶる”などの”名曲喫茶“を好んだし、”バッキー白方とアロハハワイアンズ”なんてのが出ていた“ハワイアン喫茶”や”銀巴里“などシャンソン喫茶などいろんなバリエーションが出現、言ってみれば喫茶店文化の絶頂期だったのだろう。このころ売り出し中だった“クレイジーキャッツ”を見に、田中新弥や小川拡、広田順一など高校時代のクラスメートと”ジャズ喫茶“と称する店にも行った。中でも新橋にあった”テネシー“はちゃんとしたポピュラーの生演奏がきける大変な人気の店だった。ここで聞いたなかに ”世界は日の出を待っている“ があって、新弥が偉そうに解説してくれたのをなんとなく覚えている。某日、飯田昌保が通ぶって”ここはいい店だ“というので、”エリザベス“というところへ入ったら、店中女の子しかいなくて、二人で小さくなっていたことがある。出がけによく見たら、”パフエ専門店”とあってふたりで妙に納得したこともあった。ここだけはさすがにその後も出入りはしなかったが。

このころからまだ通っているが昔通りの雰囲気が健在なのが新橋に近い”エスト“(さすがにLPレコードではなくなったが、ウエイトレスの制服からテーブルクロスまで、見かけは全く変わっていない)で、銀座へ出れば3回に1回ぐらいは今でもよく行く。銀座界隈の店も当然淘汰があって、なじみは減ってしまい、最近はこのウエストか、あづま通りの”トリコロール“がお気に入りである。ここは1階のカウンターを担当しているベテランの何人かの店員応対が暖かく感じられて、長居を過ごさせて貰うことが多い。

高校が四谷近辺だったせいであの辺りに詳しい八恵子と良く通ったのが紀尾井町の先にあった”清水谷茶房“だが、ここも廃業してしまった。いい雰囲気の静かな店だったが。当時のまま健在なのが新宿、旧三越の裏通りにある”ローレル”だ。オーナーはまだ変わっていないらしく、昔話をして喜ばれたりした。

会社勤めが始まると最初の勤務地は三鷹だった。同期に入社した曽山光明が成蹊の出身で吉祥寺に詳しく、あちこちとよく連れて行ってもらった。 洋菓子専門の”メナード“とか、”ルーエ“なんかがそれだ。5-6年前の話だがルーエのほうは同じ場所にまだあった。その後、やはり曽山に教えてもらった” 檸檬“は小さくてとても居心地がよく、本を持ち込んで長居したものだったし、いま、第一ホテルのある当たりの裏手にはほかにも”春風堂”とか家庭的でくつろげる小さな店がたくさんあった。最近吉祥寺が住みたい街としてよく出てくるが、僕に言わせると昔のほんわりとした雰囲気は消え失せてしまった、月並みな繁華街としか思えないのは残念だ。

(掲載した写真は新聞のコピーのほかは最近撮ったものである)