”ウクライナ侵攻とグローバリゼーション” 補論  (53 林岳志)

「ウクライナ侵攻とグローバリゼーション」に関する私見です。

1985~1988にロンドン、2009~2012に北京に駐在した経験を踏まえると、グローバリゼーションは米国多国籍企業が自分の都合の良いように幻想を振りまいただけのような気がします。

各国・地域にはそれぞれ固有の歴史があり、それは様々な形でその民族に受け継がれ、繰り返しすり込まれています。英国(特にイングランド)は大英帝国の栄光が忘れられない、例えば、彼らにとって the Great war というのは米国が勝った第2次世界大戦のことではなくて、自分たちが主導した第1次世界大戦のことです。

中国では清朝末期に西欧・日本に食い物にされた屈辱が繰り返し語られます。このように、それぞれの国には栄光と屈辱に彩られた長い歴史があり、それはその民族共通の記憶になっていますが、米国にはそのような長い複雑な歴史的背景はなく、物量に物を言わせた(豊富な資源を背景にした)キリスト一神教的、もしくは西部劇的な「我々は十字軍(騎兵隊)であり、異教徒(インディアン)を征伐する」的な発想があるのではないかと思います。

ロシアのウクライナ侵攻は決して許されるものではありませんが、ロシア(ロシア人)もナポレオンやナチ・ドイツに侵略された苦い歴史(記憶)があり、かつ欧米に対する抜きがたいコンプレックスがありますので、NATOが自国に攻めてくるという恐怖が常に存在していることが今回の侵攻に背景にあるのだろうと思います。

言うまでもなく「歴史に学ぶ」「失敗から学ぶ」ことは大変重要ですが、米国もロシアも西欧もそして日本も、最近、この点が欠けているように思えてなりません。

(編集子)Can’t agree more  という反語的な言い回しがある。グローバリゼーションについては林君の定義についてはまさにそう感じる。小ぶりながら多国籍企業、のひとつだったヒューレット・パッカードでこの言葉が独り歩き始めたころ、これを金科玉条と振り回すパロアルト本社のいやな奴に、globalization なんて Americanization じゃねえか? それとも Californiazation か? と食って掛かったら、そうかも知れねえな、と一瞬黙ってしまった。そのあとどう言い訳したかは全く覚えていないが。