神無月徒然-向島墨堤をそぞろ歩く  (普通部OB 船津於菟彦)


10月6日陽気に誘われ、墨堤を歩いてみました。しかし、
10月というのに真夏日の陽気です。矢張り地球温暖化が進んでいるんでしょうね。でも大川-隅田川-の川風が魂べきの空ととも清々しい散歩でした。

暑い中、墨田区役所からスタートしました。正月には七福神巡りで回るコーズですが、素晴らしい天候に誘われ先ずは枕橋。橋のたもとに小さな祠。
浅草側から見て、隅田川の向こう側にある島が「向島」で、四季折々の風物が美しい行楽地、江戸・明治期を通じて人々に愛されます。向島では、料理屋で浅酌低唱、日が暮れるのを待って、竹屋の渡しから大川(隅田川)を渡り、山谷掘で降りて、土手八丁を進んで吉原へ繰り出したとか。絵葉書にある「向島枕橋」とは、源森川が隅田川に注ぐ河口に架かる源森橋ですが、水戸藩邸の掘割に架かる橋「新小橋」と男女の枕を並べた様に見えたことから、江戸っ子は、「源さん」と「新さん」が枕を並べて枕橋、と粋に小唄に謡ったそうです。
隅田公園は1923年の関東大震災により、壊滅的な被害を受けた東京の復興事業の一環として、後藤新平の主導により浜町公園(中央区)、錦糸公園(墨田区)と並んで計画・整備されたものです。そこを通り抜けると牛嶋神社で貞観年間(859年 – 879年)の創建。慈覚大師円仁が当地に来た際に、須佐之男命の化身の老翁から託宣を受けて創建した。明治以前は「牛御前社」と呼ばれて本所の総鎮守、鳥居は三ツ鳥居と呼ばれる比較的珍しい形態の鳥居です。
鎌倉に進軍する源頼朝の軍勢が隅田川を渡河する際に、千葉常胤が当社で祈願したため、無事に渡ることができたという。以降、千葉氏の崇敬を集めるようになった。
境内には「撫牛」と呼ばれる牛の像がある。自分の体の悪い所と同じ部分を撫でると病気が治ると言い伝えられている。
なお、神社には1845年(弘化2年)に奉納された葛飾北斎の大絵馬「須佐之男命厄神退治之図」があったが、関東大震災で現物は焼失し、現在は原寸大の白黒写真が本殿内に掲げられている。なお、同作は2016年(平成28年)に色彩の推定復元が行われ、すみだ北斎美術館にて展示しています。
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境内を出ると見番通りと言う如何にも粋な通りがあり、華やかなりしころは向島芸者が沢山歩いていたのでしょう。松阪の豪商・三井氏が江戸に進出すると、守護神として崇め、今では三井家と三越の守り神社があります。
 倉稲魂命(宇迦之御魂神)を祀る旧村三囲神社社は創立年代は不詳。伝によれば、近江国三井寺の僧源慶が当地に遍歴して来た時、小さな祠のいわれを聞き、社壇の改築をしようと掘ったところ、壺が出土した。その中に、右手に宝珠を、左手にイネを持ち、白狐に跨った老爺の神像があった。このとき、白狐がどこからともなく現れ、その神像の回りを三回回って死んだ。三囲-めぐり-の名称はここに由来するという。神社の屋根の上に小さな白ギツネの瓦が鎮座している。三越池袋店にあったライオンも鎮座している!八重の芙蓉が満開。
三井家では、享保年間に三囲神社を江戸における守護社と定めた。理由は、三囲神社のある向島が、三井の本拠である江戸本町から見て東北の方角にあり、鬼門だったことと、三囲神社の“囲”の文字に三井の“井”が入っているため、「三井を守る」と考えられたため。
本来は牛嶋神社の隣にあったが、洪水で一度流され、河岸に堤が築かれることになった際に南へ少し移動した。その堤のために、対岸から見ると、鳥居が堤から奇妙に頭だけ出しているように見え、浮世絵などに好んで描かれた。
三囲神社の三つ穴灯籠
神社の境内には、隅田川七福神のうち「恵比寿」・「大国神」が祀られている。
この石灯籠は宝永3年-1707-の銘がありかなり古い。伊賀上野の藤堂高睦が寄進れたと書かれている。見番通りを更に進むと一番大きい伽藍がある、弘福寺(こうふくじ)は、黄檗宗の寺院。山号は牛頭山。本尊は釈迦如来。隅田川七福神のうち布袋像を祀る。
江戸時代前期の1673年(延宝元年)、黄檗宗の僧鉄牛道機の開山、稲葉正則の開基により香積山弘福寺を現在地に移して建てられた寺院である。江戸時代には鳥取藩池田氏の菩提寺であった。関東大震災で罹災したが、1933年(昭和8年)に再建された。
そしてお目当て長命寺(ちょうめいじ)は、東京都墨田区にある天台宗の寺院。山号は宝寿山。院号は遍照院。本尊は阿弥陀如来。隅田川七福神のうち弁財天を安置している。「長命寺桜もち」で知られるが、今や幼稚園の方が大きくなり開園中は正門からは入れない。
平安時代円仁の開山により創建されたとも、慶長年間(1596年 – 1615年)に創建されたともいう。もとは宝樹山常泉寺と号していたが、江戸幕府3代将軍徳川家光の命により現名に改められたという。それは、家光の放鷹の途中で、軽い病気(微恙)になってここで休憩したので、僧孝海が加持のうえ境内の般若水で薬をすすめると、効験あって治癒した。家光は喜んでその井戸水を長命水と名付けて家康の画像を付して毎年供養料を給したという。

1888年(明治21年)の夏、境内にあった桜もち屋月香楼の二階に、正岡子規が仮寓していたことがある。子規は三か月あまり滞在して、『七草集』を書いたが、その「蕣(あさがお)の巻」に含まれる子規唯一の能作品に登場するシテの女のモデルが、月香楼の一人娘山本陸(やまもとろく)である。陸は当時15,6歳で、子規の思慕の対象として噂の種となったとさ。
関東風桜餅は、塩漬けの桜の葉を用いた、江戸に発祥した桜餅。伝統で典型的なものの一つ。東京隅田川の向島にある長命寺という寺院の門前にこの桜餅を作り始めた店舗がある。したがって、関東以外の地域では、関東風桜餅のことを長命寺と呼ぶこともある。
「長命寺の桜もち」は享保二年(1717年)に、元々は寺の門番であった山本新六が門前で山本屋を創業して売り出したのが始まりとされる。隅田川の桜の落ち葉を醤油樽で塩漬けにし、餅に巻いたとされる。もとは墓参の人をもてなした手製の菓子であったといわれ、桜餅の葉は落ち葉掃除で出た桜の葉を用いることを思い至ったからだという。はじめは桜の葉のしょうゆ漬けだったともいわれる。山本新六は下総国銚子の人で元禄四年(1691年)から長命寺の門番をしていた。将軍吉宗の台命により享保二年(1717年)同じ年に側傍の隅田川沿いに北から南へ桜木の植栽が行われ、これを機に花見時に賑わい発展した。記録に、文政のころ(1818-1830年)の桜餅屋のことが上がっている。曲亭馬琴他編の『兎園小説』の中で屋代弘賢が書いている内容から、盛況ぶりがうかがえる。
桜餅一つの売値四文は現在の価値に直すと、推定で米の価格から換算した場合は約63円、大工の賃金から換算した場合は約322円。只今はお茶付きで350円 お土産は260円になりました。
スーパードライホールは、東京都墨田区吾妻橋一丁目にあるリバーピア吾妻橋敷地内のアサヒビールの吾妻橋本部ビル(アサヒビールタワー)に隣接するホールである。1989年竣工。隅田川の吾妻橋のたもとにあった旧吾妻橋工場跡地の再開発で建造されました。
ビルとオブジェは、フランスのデザイナー、フィリップ・スタルクによる設計でホールの1階から3階にはレストランが入っており、4階にはイベントホール「アサヒ・アートスクエア」があります。屋上には特徴的な巨大モニュメント、燃え盛る炎を形象した「フラムドール(フランス語 flamme d’or、金の炎)」と呼ばれるもので、アサヒビールの燃える心を象徴するとされる。オブジェが炎を表すのに対して、その下のスーパードライホールそのものは聖火台をイメージしたものだということですが、巷ではウ○コビルとか呼ばれている!何とも奇妙なオブジェですね。