“管見妄語”を読んで

2月8日付週刊新潮の“管見妄語”に藤原正彦氏が”愚かなる小学校英語”というタイトルで現在進行中の小学校での英語教育について書いておられる。氏はこの政策はまさに世の中の流れなるものにおもねったとんでもない愚挙であり、その結果生み出される将来の日本人は英語の発音が少しばかり良いだけの、無許容で薄っぺらな日本人で溢れることになる、と警告している。小生はこの結論に120パーセント、賛同する。偶然なきっかけからアメリカ系企業でサラリーマン人生を終えた立場から、実践に基づいた確信にもとづいてそう信じている。

外国人の英語の程度はサバイバル、ビジネス、ソーシャル、バイリンガルという4段階に区分できるそうだ。サバイバルレベルとは、とにかく目先をいわば生き延びるだけの会話が成立する段階で、パッケージツアーに組み込まれている程度の会話能力。ビジネスレベルになると、自分の専門領域、主婦ならレシピーを理解する、技術者なら回路や性能の議論ができる、財務担当なら業績を説明できる、といった段階になる。もちろん困難さは増すが、逆に専門家同士なら言語とは無関係に意思疎通が成立し得る。写真や建築図面や回路図やプログラムコードといったものが正確なコミュニケーションを保証するからである。議論の中身によっては、より抽象的な話も必要になるから、ここにはいくつかのサブレベルがあるだろう。ソーシャルレベルではこのような具体性がないものも対象になり、歴史や社会慣行や民族性や宗教などといったものの理解があり、咀嚼していないと目的とする情報や意見の交換ができないし、技術面でいえばそもそも会話自体がなりたたない。バイリンガルというのは、二つの言語が甲乙なく理解でき、その背景になる社会そのものが理解されている段階を指す。

日本人の英語力を高める、という意味の分からない政策は日本人がこの分類で言ったときにどのレベルに達することをゴールとするのだろうか。物理的に国境を接し、アルファベットとキリスト教とローマ帝国の遺産を共有するヨーロッパ諸国であっても、外国語ができないという人間のほうが多いだろうし、世界の指導的立場にある(はずだが)アメリカであっても、事情は同じである。世の中にあふれている”英語が苦手”、という感覚が何か悪いことなのか。それはそもそも、依然一部にある悪しき外国崇拝と日本人特有の自虐志向がもたらした雑音なのではないのか。一国の国民が他国の言語を理解しなければならない、あるいはそれができないからからそれを国家が主導するのだという論拠は何か。

僕が勤務していた会社は在勤当時従業員大体6千人くらいの規模で、メーカーでもあり販売会社でもあり、顧客も法人から一般個人までの広い客層を持っていた。だからそのありようはかなりワイドなもので、特殊環境であったとは思えない。あまり活動的でなかったとは言え労働組合もあった。しかし経営の実態は親会社のいわゆるグローバル志向のもと、英語による情報交換が絶対的に必要だった。日本人が運営しているが限りなくアメリカに近い環境だったといえる。電子メールの使用は始まったばかりだったが、社内電話は直に世界各地の事業所や客先と直接つながっていたから、電話をとったら英語だった、というのは日常茶飯にあったし、結果、日本人同士の間でも横文字があふれかえっている、皮相的に見れば世にいう“グローバル”的環境になっていたといえる。

このような環境の中で、我々の英語力は高かったのか。詳細な数字があるわけではないが、仮に6000人の社員がいたとして、僕の判定では、バイリンガルと言えるレベルの日本人は5人に満たなかった。ソーシャルレベルかな、と感じさせられる人もいたが、前歴にほかの会社で海外経験があるとか、外国で大学を出た、というような人たちで、これもまず10人とはいなかったように思う。自分自身の英語といえば、会社に入ってからやむにやまれず独学をし、幸運にもカリフォルニアに1年ほど駐在させてもらった程度だったが、自己採点では、言ってみればアッパービジネスレベル、くらいだったと思う。一時は日米合弁のモデルケースとまでいわれ、グローバリゼーションの先頭グループにいる、と自負していた企業でも”英語力”はこの程度だったのである。この中に藤原氏のいう ”発音のいい英語をしゃべる人”がもっといたら、会社の業績はあがったか。答えは絶対的にノーである。

この会社で “英語が必要” な職場はもちろんたくさんあった。技術系の多い環境だったから、文科系にくらべてなお英語に触れる機会は少ないまま社会に出た人がほとんどであった。それでもなんとか英語の資料や文献を読み、その大意さえわかれば後は自分の持つ力量で十分補うことができ、疑問があっても何とかあらすじさえ書けば、仕事は十分こなせるという自信を持つ人が大半だった。前述のレベルわけでいえば、ロワー、またはミドルビジネスレベル、だったろうか。すなわち、”発音が多少いい英語をしゃべる”ことよりも何よりも本業で勝負する実力が英語の壁を十分に超えさせたのだ。

社会人になってから英語を学ぶのは難しい、というのは単なるいいわけである。僕が工場現場で修業していたころ、上司の係長は帝国海軍の少年飛行兵で、もちろん、学校時代に英語教育というものを全く受けたことのない人だった。しかし持ち前の努力でそれなりの基礎英語を学び、担当部門の長として、まったく独力で ”英語らしきもの(本人の述懐だが)”を操って、日本のみならず、欧米の相手方とやりあい、だれからも尊敬されるようになった。彼のプレゼンテーションややり取りに同席したことは何回もあるが、まさに ”英語らしきもの“ で話をし、質問に応じた。相手も、彼が英語に関する限りは限界があるとわかるものの、実力と人柄とを尊重し、よほどのことがない限り、通訳を要求することはなかった。

一方、事業の拡大に伴い、アメリカ側の思惑で採用した日本人や、“日本語がわかる”人間を送り込んでくることも増えた。しかし僕が在籍したほぼ40年間のあいだで、仕事上関係があったそのたぐいのほぼ10人のうち、意味のある仕事をした人間は誰一人いなかった。一方、日本語は全くできなくても、日本人の間で尊敬され、見事な結果を上げて本国へ栄転した人間は、個人的に関係のあっただけでも10人はくだらない。言葉がわかる、という以前に何が必要なのか、という実例であろう。

ビジネスの分野の経験だけでの話になったが、”英語が喋れる“ ということ自体はいいことに違いないとしても、それ以前に個人の持つ実力や人間性こそが世界語である、という信条に間違いはと思っている。だから、藤原氏の、そういうものを培わなければならない青年期、その基礎を固めるべき少年期の教育こそが肝心であり、そのための時間を削って何の意味があるのか、という意見は正に正鵠を射ている、と考えるのである。

ただ、ひとこと付け加えさせていただくならば、”多少発音のいい”人間を育てるということもまた、実現不可能な空想に近いのではないかと思う。小学校の教師の方々の英語の実力がいかがなものか知らないが、英検一級を取得するのは小生ごとき多少の心得があってもかなり大変だった体験で言えば、失礼ながら三級ないしよくて二級程度の実力ではないか。このレベルの人たちに発音の模範を求めるのか。th の発音だの l と r はどうだとか、ということが仮にクリアできたとしても、もっと難しい、イントネーションやノンバーバルと言われる環境を含めた英語によるコミュニケーションの核心を”純”日本人に要求する方が無理というものだからだ。このあたりの実情を政府だか有識者だか知らないが無責任な論議をしてほしくないものである。

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