下村情報への反響-記念館の思い出 (普通部友人  船津於菟彦 ほか)

前掲42年下村兄の投稿に高校時代の仲間から反応が届いた。それぞれに記念館には思い出があるようだ。
編集子とは普通部以来の友人、高校時代は新聞会の仲間だった船津於菟彦から送られてきた、記念館がらみの思いをつづった一文を紹介する。船津は大学時代は慶応義塾新聞・新聞研究所を経て大手商社で情報産業を担当していたことから、現在のIT産業などについて造詣の深い友人である。お互い、結局、高校時代に夢見た新聞記者にはならなかったが。
大学一年の時にこの講堂が建てられ昭和天皇を迎えて、100年祭を開催したのですね。小生、駆け出しのカメラマンとして外回りを撮影。日吉駅はホームには途中までしか尾根が無く、遠くに普通部が見えます。車が総て外車で時代でね。天皇をお迎えするのに地べたに座ってズラリです。
カメラマンとして脚立を何時も下げていました。当時はフィルムも高くて一枚しか有りません。今のデジタル時代と違い、連写などしていないのでボケたりしたらオシマイ。結構良く撮れています。
我々は慶應義塾大学創立100周年に、新聞を作りました。コチトラ駆け出しで隅の方で写真だけ撮りました。その前に未だ復興もままならない、三田山上で創立90年式典が行われたようです。歴史を見ると1947年五月と成って居ますね。昭和天皇が三田山上に来られたようです。
この時にあの素晴らしい歌「慶應讃歌」が平岡養一によって作られ「我らが若き力もて、希望の祖国を打ち建てん」 込められた意気は̶-。
100年祭にも昭和天皇が日吉の新記念館に来られました。この時は迎える方々が地べたに座ってお迎えに成って居ます。我がカメラがパチリ。
まぁ時は移りますね。日吉の駅もホームに屋根の無いむき出しの駅でした。
来賓の車は総て米国車。未だ米軍が残したカマボコ講師や時代でした。
そして、社会人になりましたが創立150年祭が日吉グラントで行われ、「平成
天皇」が来られ、来賓の中では一番感銘深い、心に通じる祝辞を述べられたことを記憶しています。
同じ時代を日吉で過ごした同期後藤三郎から…………
久しぶりに日吉の高校と大学の間にある広場と新しい建物の写真を見せてもらいました(以前この広場で連合三田会のワンゲルのテントもあった)。右側にある我々の通った慶応高校の建物は戦争中に爆撃を避けるためにコンクリートが黒く縞模様に塗られて美しくなくひどく汚い建物に感じました。石原慎太郎が弟の裕次郎の情報を題材にしたと思われる”灰色の教室”と言う短編書は私にはひどく懐かしく感じられます。中味が高校内部の有様をかなり鮮明に描写しており思い当たることが沢山ある内容だからです。例えば、生物の女性教師のこと(当時田村先生と言う美人の先生がおりました)などが登場しております。短編小説ですが若しお読みでない方には一度読んでいただくことをお薦めします。