蕎麦行脚  (37 菅谷国雄)

日本に生れて、蕎麦・饂飩など麺類(ラーメン・素麺などを含めて)が嫌いという人種は、間違いなく少数派であろう。こんなに旨い食べ物はいつごろから日本にやってきたのだろうか。

蕎麦いまむかし

遣唐使の時代、生きて帰らぬ覚悟をして辿り着いたかの地は、日本とは比べ物にならないほど文化の進んだ所。見るもの・食べるもの、すべてが洗練されたものばかりであった。そうした食べ物のうち、小麦粉を水で捏ね扁平に伸され、ひも状にされて茹でられたものが多く食べられていた。それを見よう見まね、日本に帰った留学生の僧侶が食した精進の小麦粉製品、それが素麺や饂飩の始まりといわれている。(新島繁・蕎麦史考)

更に蕎麦のルーツを辿れば、8世紀の初め養老年間に凶荒に備えるための救荒食物として蕎麦の栽培を勧める詔が発せられたという。(続日本紀)

それから1200年、室町・戦国時代までは、小麦粉に雑穀の蕎麦粉を混ぜて団子や蕎麦掻きにして食べられていたが、江戸時代に至って「蕎麦切り」が誕生、17世紀の半ば寛永年間には庶民の間に蕎麦切りが流行。維新前の江戸末期には「今世江戸の蕎麦屋大略毎町一戸あり、不繁昌の地でも四町一戸なり(守貞漫稿)」江戸市中の食べ物屋6000軒の内約半数の3000軒の蕎麦屋があったことが伝えられている。(江戸の蕎麦の粋・歴史年表)

明治16年には製麺機が開発され、昭和の食糧難の時代には正に救荒食物として、格好の代用食となった。昭和50年ごろから手打ち蕎麦が見直され、今やスローフードの代名詞として、懐石料理やフランス料理にも使われる、良き時代を迎えている。

蕎麦に魅せられて

読者の諸兄妹は蕎麦党ですか饂飩党ですか?。永年の友が「蕎麦か饂飩か」でとうとう仲間割れをしたというは話もあるほどの各々その拘りは尋常でない。食通が多い関西人が江戸で流行した雑穀まがいの蕎麦など食えるか、などと言ったかどうか・・・それでも私は今や蕎麦に軍配を挙げたい。

それまで、ただの食いしん坊で天丼やかつ丼を追いかけていた私が20年ほど前、会社の先輩に誘われて神田の老舗の暖簾をくぐったことが蕎麦の道に引きずり込まれるきっかけとなった。店に入って先ず女将さんの笑顔、さりげなく心のこもった店員のサービス、冷たい蕎麦茶が素晴らしい。蕎麦を待つ間の酒と料理にこだわりがある。待つことしばし、新蕎麦の香りとその爽やかなのどごし、カツオと昆布だしがまろやかな汁。爾来、手打ちで評判の店を各地に尋ね、蕎麦行脚が始まった。

今回、私の独断偏見による中央沿線「多摩・手打ち蕎麦10選」を本稿に掲載して頂くことにした。私よりも数段と蕎麦学・蕎麦道に詳しい方も多かろうとお恥ずかしい限りだが、近くに出かけられた折には、夫々のお店に気軽にお立ち寄り願えれば幸甚この上ない。

 

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