大衆社会のはじまり? (44 吉田俊六)

もうだいぶ前になってしましましたが、ポピュリズムをキーワードとしての社会洞察の意見交換を楽しまれているご様子、ジャイさんがフロムの「大衆社会」と結び付けての展開可能性について、意見を求められました。即答は不可能でありましてその後この宿題が頭の隅で熾火のごとくくすぶり続けておりました。
反応があまりにも遅くてごめんなさい。時事問題を語り合う会や読書会に参加する折に今、そして未来に向けての「大衆社会」の有り方に、見通しの手がかりを求めてきました。
フロムやリースマンの時代にヒントは頂いても、何かしら、そのままの解釈は厳しいのではないかとの、素朴な疑念があり、ITとパーソナル化の要素をどう噛み合わせるかの解決見通しがつけば将来の“大衆化” への論点がみえてくるのではと思ってきました。そこに、毎日新聞の記事で少しこのあたりに役立ちそうな内容のものをみつけましたので、“代返”コピペを添付させて頂きます。
(以下、吉田君から紹介のあった記事、対談形式で多少長いので、千葉氏本人の発言を主に、要点のみをまとめてご紹介する。理解の足りないことから吉田兄のご意向にあわない点はすべて編集子の責任である。記事にまとめられている本文の筆者千葉雅也氏は現立命館大学在職、気鋭の論客として知られている)

 

僕はインターネットが本格的に大衆化したと強く思っていて、ネットを基盤に本格的な『大衆の時代』が次の元号には始まると思っています。IT革命と言われた1990年代にネットを使っていたのは主にインテリ層で、『集合知』など人々の創造性をネットが後押しすると言われていました。2011年の震災以後、災害時の連絡手段や政治に対する不満表明のため、多くの人が参入し、ネットは大衆的なものが可視化される空間になりました。大衆の考えがこれほど言語化されイメージ化された時代はかつてなかったんです。歴史の新たな一段階と言えるほどです。

筆者写真、毎日新聞掲載

大衆と言うと、じゃあ、お前は大衆ではないのかという批判がありそうなので、これを「庶民」あるいは「世の中」としてもいい。ネット上では議論がかみ合わないとか、ささいなことで誤解されて炎上すると言われますが、実に多様な価値観、情報把握力の異なる人がいるわけですから、話が通じないのは当たり前なんです。

(南アフリカでネルソン・マンデラが解放された30年近く前には考えられなかった、人種差別や弱者敵視の発言を、今は一国の大統領が平然と語る。それも、ネット上の一部の大衆に故意に向けられた政治宣伝ととらえれば、不思議ではない。 ヘイトクライムの増大は人間自体が時代に押され突然悪化したというより、長く陰にいた者、隠されていた悪意が「ネットの大衆化」で単に表に出てきただけだと見る方が納得がいく)

人を刺激しやすい、さまざまなアイデンティティーへの攻撃的発言は、大衆的なものがほぼ全て可視化された結果なんです。もう一つ、現代を語るキーワードはニーチェが使った言葉「ルサンチマン(強者に仕返ししたい鬱屈した弱者の心)」だと思います。

特権に対する批判。なぜ自分ではなくあの人が得をしているのかという怨念(おんねん)です。特権層と自分を常に比べ、それが企業のマーケティングにも使われ、羨み、欲望をあおってインスタ映えのようにすぐに飛びつかせる。でも、消費しながらも個人はその都度、(自分の出自など)人生の条件を自覚させられているのです。あの人は最初から底上げされた条件で生まれ、自分はたまたま不遇に生まれ、損をしている。偶然、頼んでもいないのにこの世に生み出された揚げ句、不遇な状態であり続けるのは耐え難いと。そんな気分は昔からありますが、ネットで可視化されたことで、より意識するようになったのです。

それに加え、ポリティカル・コレクトネス(政治的きれい事)への反発が大きくなっています。そうしたスローガンの必要性はもちろんありますが、近代的な進歩主義は人間を単純化させる方に向いてきたとも言わざるを得ない。善を説くスローガンに不満を持つ人が反発している状況は無視できません。

人間の欲望はもともと否定性と肯定性の両方からできているのです。ところが今の『大衆の時代』には何事もわかりやすさが求められ、何が良くて何が悪いのかという単純な反応で皆けんかをしている。だから、それぞれ個人の中に肯定と否定(善と悪)を抱え込む両義性を復権させなければならないと僕は思っているんです。リベラルはよく知らない他者を弱者とみなして単純化するわけです。LGBTは多種多様なのに、かわいそう、優しい、正しい、愛に生きる人たちみたいに。でもLGBTにも意地悪な人もいますからね。毒舌な皮肉屋も。だから、表面的に人権や共生をうたって、個人の差異にきちんと向き合わないリベラルはネトウヨの映し鏡にほかなりません。

人間の差別性を露悪的に出すのでもなく、単に平和や友好を叫ぶのでもない、肯定性と否定性を併せ持つ人間像です。それをきっちり打ち出していく必要がある。従来型の人間性を果たしてどこまで延長できるのかということです。今のネット状況を見れば、多くの人が人工知能(AI)のようにパターン認識して善か悪かと即答しているようで、人間の方からAIに歩み寄り、劣化したかのように思えます。

グローバル型資本主義の進展が人に内面をなくす生き方を強い、皆がもがいている。そして、内面が衰えたからこそ、『傷ついた、傷ついた』とすぐに言う。。昔なら傷を自分固有の経験としてやりくりし、自分の中の負の面と向き合ってきたけれど、今はそれができなくなりつつある。だからいろんな人が過剰にハラスメントを問題にしているのです。内面の喪失、人間の単純化はある種の全人類的な時代の症状ではないかと思います。人間が心を失っていく過程で、叫んでいるという感じが僕にはします。

■人物略歴

1978年、栃木県生まれ。東京大大学院で博士号。パリ第10大学へ留学後、複数の大学講師などを経て立命館大准教授。主著に「動きすぎてはいけない:ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学」「勉強の哲学」「意味がない無意味」。