乱読報告ファイル (18) ペンバリー屋敷の闇    (普通部OB 菅原勲)

T.H.ホワイトの「ペンバリー屋敷の闇」(「Darkness at Pemberley」1932年。小林晋訳。私家版)を読む。当時としては、構成が誠に斬新だったし、現在でも充分に読むに値する。

これはROM(Revisit Old Mystery)と言う同好会があって、未訳の探偵小説をROM叢書として、会員に私家版で出しており、これが18巻目となり、市販は全くされていない(以前、お伝えした「マクシミリアン・エレール」は13巻目にあたる)。

全体の1/3ほどで、警部が当たりを付けていた犯人、これが殺人狂で、3人を殺した詳細を自白される。しかし、証拠が全くなく(当時の英国では、自白は証拠にならなかったのか)、逮捕できない。それに愛想をつかした警部は辞任する。ところが、数年後、ひよんなことから親しくなった准男爵とその姉に、事件の顛末を語ったことから、話しは動き始める。これを聞いた准男爵がその殺人狂の住まいまで乗り込み、「お前を殺してやる」と言ったことから、逆に、殺人狂から狙われる羽目になる。つまり、1/3が推理小説、後半の2/3がスリルとサスペンスと言う、当時としては極めて斬新な構成となっていた。1932年と言えば、A.クリスティーの「オリエント急行の殺人」の2年前、まさに英国の本格探偵小説の黄金時代に、早くも変革探偵小説が書かれていたことになる。

最後は屋敷の煙突での追っかけっこになるのだが、小生の貧しい経験では、煙突と言えばブリキのものしか思い浮かばない。英国の屋敷の煙突は、真っすぐは勿論、横にも移動可能なものらしい。勿論、最後は、警部が殺人狂を射殺し、その姉とのハッピー・エンドで終わることになる。

Wikipediaで調べたところ、テレンス・ハンベリー・ホワイトは、アーサー王物語を題材にした小説「永遠の王」を書いており、その翻訳は創元推理文庫に収められている。また、ペンバリー荘と言う名前は、ジェイン・オースティンの「高慢と偏見」から借用したらしい。探偵小説ではあるが、英国ものは、英国の色々なことを知悉していなければ、その面白みを充分に味わうのは至難の業のようだ、宗教も含め。

(編集子)つも感心するんだけど、こういう一般にはあまり知られてない本、どうやって探してくるの?それと翻訳のない本を翻訳するグループってどういうものなんだろう。実はここ半年、アマゾンでみつけた推理小説シリーズで、ジェフ・カーソンという人の デヴィッド・ウルフシリーズ ってのにはまってる。どっちかといえばアクションものに近いんだけど、結構推理も複雑で面白い。こういうのを翻訳してくれる人がいればきっと売れると思うんだけど。今までに16冊出ていて、そのうち9冊まで読んで、今日から10冊めにとりかかったところ。

(菅原)ジェフ・カーソンなんて全く知らなかった。貴兄こそ、日本で殆ど知られていない、面白そうな本を良く探して来るね。英語に堪能か否かの違いだな。大昔、神田の古本屋で、日本語に未翻訳のペイパー・ブックを買い漁ったのが懐かしい。今は、「ルアンダ中央銀行総裁日記」を遅ればせながら読んでいる。まだ1/3ぐらいしか読んでいないが、著者の服部正成は、月並みだが、正に、「凄い日本人がいた」、にピッタリだ。今の日本人は、勿論、例外はあるが、どうも金の亡者になり果ててしまったようで、行き先が案じられ、誠に情けない限り。

起業家の倫理について を論じる

(普通部OB 船津)「商い屋」は何処にいても人が欲しがるものを探し、作ったり、流通させたりして、人々の要求に応えていくのが「原理原則」創造無くして発展なし!
ワイン、ウィスキーは今や日本製が人気になってきている。求める物を与えて人の幸せを実現して行くのが起業家or企業家の倫理とはやや大袈裟だか、当たり前のこと!

(普通部OB 菅原)ブロッグ、「起業家の倫理」拝読。非常に乱暴ですが、一言で言ってしまえば、「気に入らないものは、飲まなきゃ良い、食べなきゃ良い、見なきゃ良い、聴かなきゃ良い、読まなきゃ良い」などと言うのが、ボンクラな小生が愚考するところです。

(44 安田)遊びは自由な行為であり、だからといって事業として何か物質的利益と間違いなく結びつくという保証はない。事業に関わる人には、「ホモ・ルーデンス」とは全く異なる、プロの企業家(或いは起業家)としての厳しい対応が求められるのは言うまでもない。

日本における醸造業の代表、ビールもウイスキーも一種の装置産業でごく限られた会社(銘柄)の寡占状態だ。即ち、キリン・アサヒ・サッポロ・サントリーとサントリー・ニッカだ。アメリカのビール業界もバドワイザー・ミラー・クワーズの寡占だ。一方、この寡占状態が目立つ醸造業の中で、日本酒は小規模な工場で職人が丹精込めて作り上げていて、地域に根ざした無数の日本酒醸造会社があり、個性ある製品を市場に提供している。更に、古代から人類が葡萄から作ったワインも日本酒と同じで、無数のワイン醸造会社はほとんど全てが小規模経営で個性を売り物にしている。例を挙げると、著名なボルドー、ブルゴーニュのワイン銘柄数は数え切れないほどだ。日本酒やワインを嗜む立場の者としては選択肢は多いほど良いのは勿論だ。
日本では寡占状態のビールとウイスキー醸造も世界的に観れば、ドイツやベルギーのビールは小規模工場で醸造される、いわゆるクラフト・ビール(地ビール)が乱立して消費者を喜ばせている。次に、ウイスキー醸造の本場スコットランド事情を眺めて観ると、日本ではサントリーとニッカの寡占であるが、スコットランドでは事情は異なる。16世紀ヘンリー8世の反ヴァチカンカトリックのイギリス国教会設立以後、ウイスキー製造をほぼ独占していた修道院が解散させられ、製造技術が民間へ移転し、無数の比較的小規模の醸造工場がスペイ川周辺のハイランド地域や西部のへブリディーズ諸島に散らばっている。多分、100近い或いはそれを超える醸造所でウイスキーが作られ、消費者を喜ばせている。クラフト・ウイスキーと呼ぶには規模もやや大きく、有名な銘柄も多いが、200 〜300年前はクラフト・ウイスキーの類であったろう。
新規参入者・起業家の作る「製品」「銘柄」の成功や盛衰はあくまで当事者企業間の「弱肉強食」の掟に委ねざるを得ず、自由市場経済のシステム下では、自然なことでそれで良いと思う。競争が参入者を切磋琢磨させ、社会を前に一歩進める源泉にもなり得たら“しめたもの” である。
(編集子)毎日散歩している甲州街道に面して、”クラフトビール” という小さな看板を出してる店がある。そのうち買ってみよう。ま、小生もいろいろあるほうがいいやん、という楽天派だが。

エーガ愛好会 (111)  去り行く男

あまり興味を惹かれる作品がなくしばらくBS劇場にご無沙汰していたが、この映画だけは見るつもりでいた。グレン・フォードだからである。

今の標準で言えば早死にしてしまった小生の兄は、彼の友人が ”アンタ、ほんとに哲の弟かい?“ と僕に尋ねたほど、小生とはかけ離れた賢兄だった。努力、冷静、寡黙、頑固。旧姓高校出身の色濃く、読む本はといえばゲーテでありシラーであり、音楽といえばたとえばシューマンなんかを好んで聞いていたといえばその懸隔がわかるだろうか。しかし大学進学の年に肋膜炎を患い半年以上病床にあった。当時の医療といえば自宅静養しかなかったが、その間布団の中でラジオを聞いて英語を猛勉強していたのを当時小学生だった小生もよく覚えている。就職後, 海外留学奨学金に応募し、プログラムの最終選考まで行ったが、この健康上の不安が理由で合格しなかった。しかし成績はよほどよかったのだろう、同情した委員会の口利きでハワイ大学への留学をしたという、まさに おめえ、ほんとに弟なんだろうな、と彼の親友に疑われても仕方のない誠実な秀才だった。

なぜこんなことを書いたか、といえば、グレン・フォードのイメージがその兄を彷彿させるものだからだ。さらに偶然といえば偶然だが、兄はたしか新婚旅行中のことだったと思うのだが、日本にきていたフォードとレストレランで行き合わせた、と嬉しそうに話をしていたものだった。例によって合理的な説明はないのだが、それ以来、グレン・フォードには親しみというのかうまい言葉がみつからないが、そういう感情をもっていろんな作品を見てきたが今回のこの作品には縁がなかったのである。

そんなある種の気概?をもって、コイズミ節や人間グーグルヤスダからのメールが届く前に感想を書こう、と思って今朝早くPCをあけたら、この時早くかの時遅く(逆だったかな)、すでに2通とも到着しているではないか。朝っぱらからこの二人の日課がどんなものか見てみたいもんだ。そんなわけで、解説は結局ご両兄にお願いすることになったが、ま、エーガにはこういう付き合い方もあるのかな、と思ったりしている。

(34小泉)インディアンに新しい光を当てた「折れた矢1950」の監督で、グレン・フォードを主演にした西部劇「去り行く男1956」「決断の3時10分1957」「カウボーイ1958」でもリアリズムを強調した異色的な西部劇三部作の最初の作品。

ワイオミングの山々に囲まれた背景の中、崖から落ちて気を失った放浪の男ジューバル(グレン・フォード)が、牧場主シェップ(アーネスト・ボーグナイン)に救われ、その牧場で働くことになる。出だしは「シェーン1953」を思い起こさせる。しかしその牧場の中は、全くの異色。1年前に結婚したばかりの牧場主シェップは、その若妻メイ(ヴァレリー・フレンチ)にデレデレ。牧童にピンキー(ロッド・スタイガー)、サム(ノア・ビアリーJr)等が同居しているが、牧場主が、馬乗りのエキスパートであり、寡黙で誠実で頼り甲斐のあるそのジューバルを牧童頭に抜擢したことから、もともと猜疑心があり、人を信用せず争いごとを好むピンキーは、対抗心もあらわに、ジューバルに突っかかる。またシェップの妻メイは、もともと金を目当ての結婚で、シェップの行動をどうしても好きになれず、元々奔放な性格からピンキーとも浮気の過去もあり、ジュバールにも横恋慕を仕掛けてくる。

こうなると4回も映画化された「郵便配達は二度ベルを鳴らす1939,1942,1946,1981」のリメイクとまで言えるような極端に言えば、西部劇の皮を被った性格描写を織り込んだメロドラマとまで言えるかも知れない。

ある日、西へと旅を続ける狂信的な宗教団体(モルモン教?)の幌馬車隊がこの牧場に野営を張ったため、ピンキーが退去を命じたが、ジューバルが同行していたレブ(チャールス・ブロンソン)から団体に病人がいることを聞き、滞在を許すことにした。そんなことから、レブをシェップの牧童の一員に雇うことになり、またジューバルは、団体の責任者の娘ナオミ(フェリシア・ファー)の美しさに惚れこむことにもなった。 ある夜、シェップ以下で野営している折、メイがジューバルに会うべくやって来た。人の好いジェップは帰りメイを家まで送るようジューバルに命令。ピンキーはシェップに、二人は浮気していると思い込ませてしまう。怒ったシェップは牧場に戻り、酒場にいたジューバルに発砲、ジューバルは丸腰だったので、心配して駆け付けたレブに助けられてシェップを射ち
殺してしまう。しかしピンキーに重傷を負わされたメイの証言で、経緯が判明。その後メイは息を引取る。ピンキーは逮捕され、ジューバルとナオミは新天地に旅立つ。ちょい役だがら、若きブロンソンがレブ役で良い味を出していた。

最後が少々あっけなく終わり、スッキリしないが、牧場主夫人メイの身勝手な横恋慕的行動、牧童ピンキーの嫉妬心と猜疑、それが、人の好い豪快、実直な牧場主シェップと寡黙で誠実な牧童頭ジュバールとを悲劇に追いやることとなっ
た人間模様の西部劇である。

(44 安田)印象深い2点だけ述べる。

映画の舞台が「シェーン」と全く同じワイオミング州のグランド・ティトン山(4,000m超)を背景とした平原(牧場)地帯。この映画は1955年制作、「シェーン」は1953年。主役の流れ者グレン・フォードがその地の牧場主に雇われ、話が展開するのも「シェーン」を彷彿とさせる。話の骨格もよく似ている。両映画ともグランド・ティトン山をバックに、主役それぞれの未来に向かうシーンがエンディングで幕を閉じる。
  右:グレンフォード   左:チャールズ・ブロンソン
二つ目はロッド・スタイガーに注目。
30歳の時の出演。悪の強い憎まれ役を演じ、主役のグレン・フォードと敵対する役。彼の十八番の役柄で、デビュー作波止場」(マーロン・ブランドがアカデミー主演男優賞)、オクラホマ」、「ドクトルジバゴ」の悪徳弁護士役など、どの映画でも強面の悪どい存在感溢れる演技はピカ一。アメリカ南部州の警察署長役を演じた1967年42歳時の 夜の大捜査線 ではシドニー・ポアティエと共演、めてアカデミー主演男優賞を獲得。北部から来た黒人刑事と人種差別が色濃く残る南部の白人警察署長との葛藤と友情を人種差別問題を絡めて描いた面白い映画だった。
メリハリの効いた玄人受けする演技がロッド・スタイガーの持ち味で、「シェー
ン」におけるアラン・ラッドの役柄の如く、主役のグレン・フォードは口数少なく内に正義感と覚悟を秘めた役柄で、彼との相違を際立たせるのが映画の背骨になっている。勧善懲悪の典型的な西部劇だったが、男女関係と人間模様の嫉妬・執念・疑心暗疑を描き、美しい山岳風景共々楽しませてくれた。
(編集子)解説の通りの筋立てで、ガンプレイというシーンとはあまり縁がない。ただグレン・フォードが丸腰でいるときに拳銃を彼に放ってその場を救う
ブロンソンの技はご存じ リオ・ブラボー でリック・ネルソンとジョン・ウエインが演じたものと同じ。投げられた銃がそのまま発射できるように受け取れるんだろうか、などという詮索はやめにしておこう。

甲州街道アーメンコーナー

上り車線信号の先がアーメンコーナー

甲州街道を新宿から走ってきて調布市に入りかけたところに旧甲州街道への分岐路がある。このY字路の少し手前左側が調布警察署だが、ここの一角のことである。警察署敷地の真ん前に甲州街道を挟んでBMWの販売店があり、その隣にビル一つを隔ててホンダがあり、その向かい側にマツダの国領店が、その筋向いがトヨタ、すぐ隣がスズキ、3軒先にフィアット、その先はミニクーパーのショウルームがある。つまり交差点を中心に半径200メートル以内に6つの自動車販売店が密集していることになる。おまけにÝ字を左に京王線国領駅へ入る、旧甲州へのアプローチには、お定まりの国籍不明カタカナ名前の億ションの麓(文字通りそういう感じなのだ)にもうひとつ、メルセデスベンツ のショウルームが控えている。ここにないのは日産くらいだろう。

マーケティング理論はまずマーケットセグメンテーションという章から始まることが多い。もちろんここでいうセグメンテーションという意味は全く違うのだが、この一角にこれだけ同業者の出店がまとまっているとなんだか調布市のカストマ―をセグメントしているような気持ちになってくるから面白い。同業者が密集して存在するというのはもちろん理由があり企業の戦略があるわけで、たとえば秋葉原の通称電気街なんかはその典型だろうし、セブンイレブンがあればすぐ近くににローソンがあるとか、マックのならびにフレッシュネスがあるとかい うのはよく見る風景だ。このように同業が隣接していることで価格に大きな差は存在しえないから、顧客はたとえば店のたたずまいとか、店員の態度とか、経済理論だけでは説明できない理由から店を選ぶことになるだろう。そういう意味では限られたスペースに同業店があるというのは顧客にとっても望ましいことになる。

そのあたりのことはわかるのだが、自動車というような価格が高く選択に時間を要するような商品の場合、顧客が次から次へと店を見て歩くというような行動パターンは当てはまらないように思える。またこのあたりは調布の中心地からははずれているし、駐車スペースも限られている。どうもこの地域というよりも地点にこれだけの同業者が密集する理由がよくわからない。そういう意味で、興味を引く地点だと思ってきたのだが、僕にとって別の意味を持つ地点でもある。

八王子方面から来ると新宿つまり小生が住んでいるつつじが丘方面へ行くには左斜めにカーブする必要があるのだが、この屈曲点からすぐのところに、横断歩道したがって信号機が並んでいて、その間隔は30メートルくらい           しかない。警察署の敷地の両端なのだが、正面玄関にはいるのに都合がいいという位置でもないし、なぜ二つも信号を作らなければならないのか、はっきりした理由がわからない。

数年前のこと、中央高速を降りて家へ帰るとき、この信号の一つ目が黄色に変わりかけたとき、その直近にさしかかった。たしかに道交法によれば黄色信号になった時に該当交差点に進入することは禁止されているが、その変わり方というかタイミングから、数メートルくらいだと、多少引け目はあっても人や車がいなければ進行してしまう、という行動は誰でも経験したことがあるだろう。この場合もそうだったし、その先30メートルでいずれとまらなければならないのは知っていたので、あまり罪悪感もなしに、すんなりと進んで次の信号で停止した。ところがそれが青に変わって発進した途端、背後にパトカーがぴったりくっついてきたのに気がついた。それまでどこにも見えなかったのだから、小生の通過と同時に警察署から飛び出してきたのは明らかである。左へ寄って停止。お定まりのお小言があって罰金、この場で長きにわたって保持してきたゴールド免許証はなくなった。

もちろん法的にはぐうの音も出ない。しかしまさに待ち構えていたとしか思えず、気分がよくない。後で考えてみたのだが、この時乗っていたホンダは山梨ナンバーだったことに気がついた。県外車取り締まり、というのはたぶん検挙率競争では有利なのだろうし、それでも腹が立つ。こっちが悪いだけに余計だ。関係ないんだが、そんな警察を取り囲むようにクルマやがならんであたかも警察にすり寄ってるような気がして、しかもその中にいつでも調子のいいことを言っているホンダ営業所の真ん前で捉まえられたことで余計腹が立った。

それ以来、小生はこの交差点をアーメンコーナー、と呼ぶことにした。散歩コースで我が家からちょうど30分の位置にあるこのY字分岐に来ると全く合理性もへちまもないのだが心の平安が波立つからである。

ホンモノのアーメンコーナー。心が穏やかでなくなるところ。ウイキペディア抜粋:

「アーメンコーナー」とは、ゴルフの4大メジャーの1つ、マスターズの舞台となるアメリカ・ジョージア州のオーガスタナショナル・ゴルフクラブの11番、12番、13番ホールの3つの難ホールのこと。池やクリークが絡み、風を読むのが難しいこの3ホールでトーナメントの行方が大きく左右することでも知られ、「アーメン」と神に祈らずにはいられないほど難しいといった意味で使われます。

 

 

 

起業家の倫理   (大学時代クラスメート 飯田武昭)

昨日のNHK朝の「おはようニッポン」のニュース番組で経済ニュースとして、クラフト・ビールならぬ、クラフト・ウイスキーが日本各地で沢山立ち上がっていて、その内の1社を取り上げて約10分間ほど紹介していました。何でも、埼玉県かどこかの起業家が立ち上げた結構、大掛かりなクラフト・ウイスキー会社でしたが海外の20~30社程のウイスキー会社を事前に見学して起業家したと解説していました。今後は輸出にも力を入れていくと胸を張っていました。同様の会社が日本各地に乱立し始めている模様です。

私はこのニュースを見て嫌な感じがしています。

ウイスキーはスコッチとバーボンの産地に任せておけば良いと思っています。何でも平準化して、世界需要という一定のパイを取り合ってはどこも太刀打ちできない競争になってしまう!!真似しい!!の中国がこれほど巨大化してしまったのも、それを教えた当時の先進国であるアメリカであり日本であると思っていますので・・。

クラフト・ウイスキーまで国産をジャンジャン作るようになって、スコットランド人は陰て泣いているのでは?と思っています。精々、国産ウイスキーはサントリーとニッカに留めておくべきではないでしょうか?それとも競争社会だから特許侵害が無ければジャンジャンやるべしなのでしょうか?起業家倫理なるものは最早、現代社会には残っていないのかも知れません。

もう一つ、ヴォーカルグループでSIX TONESという男性ヴォーカルが紅白歌合戦を始めやたらとTV画面で踊って歌っています。The Plattersの歌う「16トン」は大好きな曲ですが、似たようなグループ名でそれも先ず気に障りました。

私はこのグループは確かに下手ではないし上手いと思いますが、約20年前に人気があって現在でも活躍しているISSAをリーダーにしたDa Pumpのグループとよく似た殆ど変わらないように見えます。何故、このように同じようなグループを沢山マスコミは育てるのでしょうか。他にも無数の男性、女性のヴォーカルグループがLIVEにTVに踊り歌っていますが、本当に区別がつかないような乱立状態に見えます。それぞれにファンが沢山ついている社会はクラフト・ウイスキー会社の乱立と似ている気がします。

起業するにしても一時的に儲かれば良いのではなく、もっと自分たちにしか出来ない事で研究心をもって人生を送れないものでしょうか。

(編集子)競争のもたらすプラスマイナスについてはそれこそ百家争鳴のテーマだと思うし、独創力の重要さもまた重要なテーマになるだろう。小生は飯田説には多少の違和感を持つものである。各位のコメントを待つ。

エーガ愛好会 (110)  プロフェッショナル  (34 小泉幾多郎)

文芸作品を得意としてきたリチャード・ブルックス監督作品。西部劇はこれ以外に「最後の銃撃 1956」「弾丸を噛め1975」の2作品しかなく、何れも異色作。この映画も監督・脚色賞にアカデミーノミネートのほか、撮影賞にコンラッド・ホールがノミネートされ、音楽も「ドクトルジバゴ」「アラビアのロレンス」のモーリス・ジャール。俳優もメキシコ革命を背景とした中、豪華メンバーを取り揃えている。革命家の指導者ジャック・パランスに誘拐された妻クラウディア・カルディナーレを取り戻したいテキサス油田の富豪ラルフ・ベラミーが雇った戦いのエキスパート達が、ダイナマイトの名人にバート・ランカスター、射撃の名手のリー・マーヴィン、馬の専門家ロバート・ライアン、追跡と弓矢を得意とするウディ・ストロードの4人。

メキシコ風味の音楽に載せ、リー・マービンからエキスパート4人のメンバーを紹介していくところから始まるが、残念ながら、ジバゴやロレンスのような聴きなれたメロディは現われてはこない。この後、戦いのエキスパート4人の活躍が描かれていくのだが、途中では、革命軍やら山賊やらわからない連中との戦いもあり、リー・マーヴィンが4人のリーダーとして活躍し主役を牛耳るかと思いきやその後4人の役割分担がはっきり分かれ革命軍拠点でのダイナマイト爆破あたりからランカスターの活躍が目立つ。その間機関車を襲う革命軍と政府軍との戦い、砂嵐の吹く砂漠や銃声のこだまする岩山のシーン等のロケーションもなかなか良い。撮影賞にノミネートもむべなるかな。拠点での戦いの結果、クラウディアとバランスは、もともと恋人同士で夫婦関係にあることも判り、妻クラウディアを連れ出した一行5人の脱出に革命軍の追っかけとなる。4人の強者の前に革命軍は二人だけになってしまう。富豪ベラミーの汚さに気付いたことで、 クラウディアとパランスの二人をメキシコに帰すことにすることで一件落着。

まあ物語としては、若干スッキリ感がなく、これだけ苦労をしても4人は一人1万ドルの賞金も棒に振ったことになるのだが、もともとマーヴィン、ランカスターは革命に手を貸していた過去があると言うし、ランカスターの最後のセリフ「俺は純愛に弱い」ことから、結果は当然の帰結なのだろうし、さわやかな仕上がりと言ってよいのだろう。

(編集子)パランスといえばシェーンでの劇的なデビューの衝撃が大きいのだが、本作では違った一面がよくわかった。ほかにも グッドガイ を演じたものがあってへえ、と思ったものだが、タイトルが思い出せない。バッドガイ・グッドガイの連想で言えば、本作とは無関係だが、いつでもフォード西部劇では善玉と相場が決まってるベン・ジョンソンが ゲッタウェイ で演じた悪役はなかなかよかった。この系統の話で言えば、御面相からして悪役、ときまっているネヴィル・ブランドが トラトラトラ で重要な下士官役を演じたのとか、ジョン・アイアランドが さらば愛しき女よ で演じた警部とか、悪役ナンバーワン、ブライアン・ドンレヴィにもあったような気がするが思い出せない。

 

雪の日の過ごし方     

(34 小泉)

1月6日久しぶりに横浜も雪に見舞われ、翌7日溶けぬ間にと近くの大倉山公園を散策しました。

(普通部OB船津)昨日は久し振りの東京は大雪でしたね。窓の下の錦糸公園・朝の散歩。

(44安田)雪の日の翌日7日(昨日)、S44卒・閑人会は正月恒例の七福神巡りをしました(昨年は中止)。今年は元祖山手七福神。JR目黒駅から五反田方面、戻って白金高輪まで約6キロ、15000歩の周遊。例年より少なく8名参加。

 

閑人会 吉例七福神めぐり ー 七つの喜び   (44 吉田俊六)

S44卒の閑人会は正月明けは例年七福神巡りをしていて(去年はコロナで中止)、今年は7日(金)に元祖山手七福神を巡りました。これまでに 谷中、隅田川、浅草名所、深川、柴又、新宿山ノ手七福神を巡ってきました。参加者は、浅野(三)、内村、岡田、渋谷、大江、安田、山中、吉田の8名。

JR目黒駅を出発、全行程6km、15,000歩のコース、目黒駅 → 蟠竜寺 → 瀧泉寺 (目黒不動) → 大円寺→ 妙圓寺 → 瑞聖寺 (布袋尊) → 覚林寺 (清正公) → 白金高輪駅 ・・・神田(懇親会)

1.末広がりの八人で、目の黒いうちに巡り合えている喜び。

2.上述、1万5千歩を(1本の)休みもなく徘徊し続け達成した喜び。行人坂下 八百屋お七井戸前、名残の紅葉の健気さ.。口数が歩数を上回り、<若き日の武勇伝、恐妻・感謝の歴史、入院・手術・克服の戦い、等。

お寺詣で終活話:墓じまい・室内墓システム、また『戒名100万円!!』とか…。>

七草ならぬ道草で「天恩山五百羅漢寺」天恩山五百羅漢寺 (rakan.or.jp)

へ、羅漢さん一体毎の添え書きにも心洗われました。

 

3.メンバー各々の関心領域に応じた「願掛け」機会を得られ,笑顔に“後光”が差して、喜ばしいことでした。未来の年もお礼と参拝を繰り返したく思いました。金沢の鈴木大拙記念館の庭を彷彿とさせる 瑞聖寺(布袋尊)

4.「妙見」さんの御導き…、七福神の多様性を再発見でき、喜びました。(俊六こと、ズン六メは7月7日生まれの77歳。七夕の星のもとに生まれ)、

妙円寺の「福禄寿尊&壽老人尊」:南極星と「妙見大菩薩」:北極星それぞれ神格化させての星宿信仰に道教密教陰陽道などの要素混交の名残を覚知。

5.仏教に帰依し、守護する「天竺出身の3“天”」と「唐・和系の4“尊・神”・さん」を識別した喜び。七福神の中に、弁財(才)天・大黒天・毘沙門天 と「天」のつく3柱あり。毘沙門天は四天王のうち北方を担当する最強の「軍神」とされ、上杉謙信「毘」の幟にも用いられ、清正公との相性もむべなるかな。

覚林寺(清正公)

覚林寺(清正公)仏教世界のヒエラルキー、「仏」>>「如来」>「菩薩」・「明王」>>>「天」。

七福神の諸神は「神」であるが、われわれ「人間道」の衆生と最も近い“守護神”役で

「天」の部に位する。だからこそ、現世利益のお願いをしやすい…とか。ちなみに、“天”竺ならぬ「唐・和系の尊・さん」神々も親しみやすい。道教系の「福禄寿尊」・「壽老人尊」は仙人の出自。一方、「布袋尊」は実在した禅僧で、“堪忍”袋で度量を“視える化”された由。「恵比須さん」は唯一、日本国産の神様。希少・貴重な有難い尊在?古刹目黒不動の明王を守護。①西宮に代表される「えびす」信仰および、②大黒さまの子供で最初に魚釣りをした神様…の流れがあざなえる由来・・・幅広いご利益!目黒不動 三福堂 恵比須さんメデ鯛デカ!

  1. 現世利益…スッポン鍋三昧の愉悦!!

「8人で一連の卓上に2つのスッポン鍋を囲み堪能し、喜びました。

場所は名代・神田鳥千、私達ばかり、美味しい思いをしてしまって申し訳なく思いますが…、“眼福”ご賞味願い上げます。隅から隅までずい~っと…、照覧あれ。本年もよろしくお願い申し上げます。

7.寛大にも“鼻たれ”のS44「閑人会」プラン報告など“他生の縁”あり?のグループ・個人にプラットフォームを開放下さる先輩方を尊崇させて頂ける・・・喜び!KWVS44「閑人会」同期限りでの閑居不善(独断暴飲暴食・・妄言等々)を甘えて、賀詞を装い、(文責:ズン六で)本年も奉納仕りますㇽ。

(編集子)久方ぶりの図ン六節、健在で嬉しい。今後も健筆を期待。できれば写真は2M以内に収めてもらえると助かります(今回は最後の1枚を修正しなければなりませんでした)。

スキーだと? チキショーめ!

(小田) 明日から、スキーのお供で赤倉等に行きます。入社1年目の冬、赤倉で、Giさんにスキーの手解きを初心者チームで受けたような気がします。それからずっと初心者のままです。すみません。

(編集子)赤倉でのスキーには小生にとってはいろんな(甘酸っぱい、高校生の頃の)記憶があります。大学では親友づきあいを始めた仲間が燕温泉に良くいっていた名手で、その関係で燕と赤倉の間の林道に新設【1960年だったかな】された、燕ハイランドロッジの居候をしていたものです。なんせ、懐かしい。関見峠リフトからの長い緩斜面なんて、ほんとに懐かしい。ヒコなんかと一緒に滑らせたくないなあ。

(小川) スキーの話になったら黙っておられない、皆さんお目出とうございます。オミクロンの爆発的な感染者急増で市中は賑やかですが重症化は少ないとか、こうやって数年掛かってコロナはインフルエンザのように沈静化していく段階に入ったと思っています。皆さんは百戦錬磨、罹患しても大したことない、マスコミの過剰な情報に惑わされず、ウイズ・コロナの生活をご計画になったらと思っています。

スキーは昭和25年(1950年)中学3年冬、中・高校の恩師に案内されて、オヤジにイタヤの単板スキーを買って貰い、関温泉に連れて貰ったのが初体験、信越本線関山駅に早朝到着したときは凄い積雪にまず驚き、部落を出て関温泉まで続く元高田師団の練兵場後に出た途端、スキーを履かないと歩行できない状態で、おそらく3m近い積雪だったとは思いますが、スキーの扱い方も全く無知の状態で、何とか履いたものの全く一歩も前に歩けず、悪戦苦闘しながら4時間掛かって関温泉朝日屋旅館に到着したのが午後、途中まで旅館のオヤジが迎えに来てくれていましたが、旅館到着の頃にはスキーの初心者テクニックは既に身について居ました。この旅館の息子さんはオリンピックで活躍した久保選手の実家ということを後で知りましたが、兎に角旅館の二階から出入りする豪雪にビックリするばかり、ツララの太さ・長さにも驚くばかりでした。日本最古のスキー場ということですがリフトもなく数日教えて貰い、5日目ぐらいにオヤジが燕温泉から赤倉に連れて行ってやるということで何とか悪戦苦闘して付いて行きました。赤倉の上部から明るい展望を眺め、快適にゲレンデを滑り降りていき、リフトなんてものに初見参したのも思い出されます。帰りは夕闇のなか燕温泉の七曲りを雪明かりで輝く高田の街の灯りの美しさが強烈に印象に残っております。ボーゲンの繰り返しで何とか旅館に辿り着き小生のスキー初体験は強烈な思い出となって未だに残っております。

夏山は恩師のお蔭でアルプス銀座から槍ヶ岳、それに白馬大雪渓と、慶応入学式当日にはワンダーフォーゲル部入部を申請したのが我がKWV入部の経緯です。在学当時の山行は下宿生活の諸事情により非常に不本意でしたが、夏冬の合宿だけはすべて参加しております。 以上思い出すまま懐かしい思い出を記しましたが、何といっても食事事情の悪い1950年から1958年までの記録ですから悪しからず・・・。

(金藤)初めてのスキーで旅館まで4時間かけて到着!? 大変でしたね!残念ながら 赤倉でスキーをした事はありません。野沢温泉 志賀高原スキー場へ行っていましたが、最後の方には奥志賀高原でタラタラ・スキー、アフタースキー中心で終わりました。 保屋野さん、同じ会社勤務でしたら、華麗なるスキー教えていただけましたか?

(保屋野) 赤倉ですか・・オミクロンはまだ大丈夫えしょう。私も24日から尾瀬岩鞍に行く予定ですが、オミクロンによってはどうなりますか。やっこさん、なお、スキーの件、私は自分が楽しむのが精いっぱいで、教えるのが大の苦手です。もし、HPに入っていたら・・・奥志賀で一緒に滑った後「グラン・フェニックス」でコーヒーブレイクを楽しんだかもしれませんね。

(編集子)3シーズン前、涙を呑んでスキーを捨ててしまった身として、周りの連中のことだけがやけに気にかかるのであります。ワンゲル同期のスキーフリークもひとりまたひとり、スキーシーンからいなくなったが、この男だけは健在なのがなんとも癪に障る。

しかもトマム、なんてしゃれ込みやがって。ただ小生にスキーの履き方を赤倉で教えてくれたのはこの男だったのである。浅海昭、山でもしつこく強い。酒もつよく、女性には常に気を配るのでいつもうけがいい。あ、右端にいるほうです。

(編集子追記)我々がKWVに入部したあたりから、スキーシーンが変わったのではないかと思う。高校時代初めてスキーを経験し、1年のシーズンスポーツでは当然ながらスキーを選択。発哺でアルペンスキーの名手と言われた関さんから、“ア・ペル・ロタシオーン” なんてフレンチメソードの基本を教わり、うまくなったつもりで志賀から五色温泉まで夜行を乗り継いで合宿に参加したら、こんどはオーストリーメソードとやらに大変換をさせられた。その次のシーズンにはかの ”黒い稲妻” で大興奮して同期翠川のひきで燕温泉へ行き、同行した飯田昌保なんかとあらためて指導を受け、いっぱしのスキーヤーのつもりでいたものだ。当時我々が実際にお付き合いいただいた先輩の中では、フレンチメソードの体現者というか、上級者だけが会得していた くらげ の名手前田さん(33年卒)と、スピード感あふれる、完璧な滑りが神業に見えた尾崎さん(35年卒)の二人にはただただあこがれていたものだった。国体選手だった三枝先輩(32年卒)のスキーは残念ながら拝見したことがない。OBになってから数多くの後輩たちとお付き合いさせてもらった中では、基礎の出来具合が違うと感心させられた笹田君(50年卒)と、もうひとり、華麗な滑りという意味では第一と思うのが本稿でおなじみ保屋野君である。笹田君や44年の浅野君(44年卒)たちの豪快さもいいが、華麗な、という意味では彼のヴェーデルンは右に出るものがない、と思っている。ミッキーややっこに見せたいものだが(浅海と一緒で、どういうわけか女性軍に人気のあるのが気に入らないけれど)難しいだろうな。ミッキー、もちろんあなたさまのダンナも名手の一人と尊敬してますぜ。

 

年男が年頭に思うこと   (普通部OB 船津於菟彦)

ある友人の賀状メールに「年男と言われてはやし立てられるいが、永く生きても100歳。後16年」とあって、以前からなんと無く、「寂寥感」を持っていましたが、未だ16年もある。人生、以前は20年間勉学ら励み、40年間仕事に励み、20年間余生を愉しむと言われていましたが、余生は40年間。懸命に働いていた期間と同じです。

さて、こんな歌があります。

聞け全国の高齢者
轟き渡る「敬老の日」の
示威者(じいしゃ)に起こる足どりと                  
 未来をつぐる鬨(とき)の声 
その昔疎開先の信州塩尻村が共産党の拠点になり、野坂参三とか俳優の岸はたえ、タカクラテルなど有名人が来村して共産主義を煽った時代、わけも分からず小学校の校庭で開かれる会合に参加して、歌った歌が
聞け 万国の労働者

とどろきわたるメーデーの
示威者(じいしゃ)に起こる足どりと
未来をつぐる鬨(とき)の声

(ウイキペディアより抜粋)

再開された第17回メーデー

第二次世界大戦敗戦翌年の1946年、「働けるだけ喰わせろ」をスローガンに掲げ、11年ぶりのメーデーが通算で17回大会として盛大に開かれた(別名「食糧メーデー」または「飯米獲得人民大会」)[13]。 全国で100万人、東京の宮城前広場に50万人が集まった[14]。5月12日には「米よこせ」を叫ぶ市民が宮城内に入り、同19日には「食糧メーデー」が25万人を集めて行われ、民主人民政府の樹立が決議された[15]

この歌は1911年明治44年)に発表された日本軍歌、歩兵の本領(ほへいのほんりょう)、の替え歌です。労働運動の歌に日本軍の象徴だったこの歌を書き換えたのが誰か知りませんが、戦後解禁されたばかりの共産党関係者の意図はあきらかですね。その原文は次のようになっています(編集子注:小生は 隅田 ではなく、吉野 であったように記憶しているが)。

万朶(ばんだ)の桜か襟の色                       花は隅田に嵐吹く                            大和男子(やまとをとこ)と生まれなば                  散兵線(さんぺいせん)の花と散れ

戦後の混沌から80年、時代は変わり今や超高齢化社会の日本、今が頂点。昭和の初期の日本の人口はまだ6000万人ほどでしたが、今は2倍の約1億2千万人です。人口が2倍となり、働き手、介護の担い手、マンパワーが不足しているで、人口が2分の1の時代で回っていたことがうまく立ちいかなくなりました。今、100歳以上の方は全国に6万人弱。日本は世界一の長寿国ですが、この長寿は今がピークなのではないかと思います。ご長寿の世代はもともと戦前から健康的な生活を送られていて、基礎体力もあり、何里も歩けるような健脚な方が多いですね。テレビ「ぽつんと一軒」を観て居ると10㌔とかを山道を歩いて小学校に通ったとか言う方沢山がいますね。

昨年敬老の日を前に発表された厚生労働省の集計で100歳以上となる高齢者が前年同時期と比べて8%増えて8万6510人、51年連続で過去最多を更新することがわかりました。男性は1万60人で、初めて1万人を超え、女性が約9割を占めて7万6450人。100歳以上の高齢者は2001年と比べて6倍。主要48か国の比較では、20年の平均寿命は女性(87・74歳)が世界1位、男性(81・64歳)が同2位。

一方、今の世代は戦後のベビーブーム、いわゆる団塊の世代。もっとも食糧事情がよくなかった時代です。さらに海外から650万人が引き揚げてきました。食糧事情は、戦前よりも戦後のほうがもっと厳しく、母親のなけなしの母乳をもらって育った世代ですが、高度成長期には外国から新しい食べ物が入ってきて、日本食から次第に離れていきました。20歳までに基礎的な体力をつけるという点でも、戦後世代は劣っています。最近、長寿日本一が沖縄県から長野県に変わりました。これは長寿のピークが過ぎたことを示しているのではないでしょう。

沖縄の長寿県の首位交代の一番の要因は、食生活の変化にあるといわれています。アメリカ軍占領下の1960年頃、肉の加工品などが大量にもたらされました。沖縄の伝統的な食事は理想的な長寿食といわれていますが、食生活が欧米化しても伝統的な食事をしてきた70歳以上の人たちは変わらず長生き。

最近、国立社会保障・人口問題研究所が統計を発表しましたが、男性の生涯未婚率が5人に1人、女性は10人に1人。団塊の世代までは婚姻率が非常に高く、それより下の世代では結婚しない人がどんどん増えています。未婚者は実家暮らしの人が多いので、ゆくゆくは親の介護をすることになり、その人たちが介護される側になったとき、介護をするのは誰かが、これからの大きな課題となります。

2008年から人口減少に転じ、今がその転換期なのでしょうが、経済政策はもっぱら成長・発展を追いかけ続けてきました。利益をとことん追求する経済至上主義のもと、大量生産・大量消費社会、そしてスピード社会へと駆け上がってきました。人口6,000万人だった時代からは想像もつかなかった、この不相応なスピード社会をスロー社会に変えていかなくてはならないと思います。高齢者の層は千差万別であり、われわれ80歳以上の世代から、まだ若い世代までいますが、私たちの世代からみれば、今の社会はスピードが速く、非常に住みにくいのです。

自分がここまで長生きすると予期していなかった人たちが老後を迎えて、親御さんが自分の年でにどうしていたかと考えても、前の世代はすでに多くが亡くなっていて、親の老後を見ていない。このような長期化する老後を歴史上初めて経験し、それを予期していなかったための備えはあるのでしょうか。親の背中を見て、この年になったらこんなふうに生きるものだと考えて、だんだんと年齢を取っていく、そのお手本がないところに初めて到達した世代ではないでしょうか

戦後70年で30年も寿命が延びたのですから、長寿社会の先駆者ではあっても備えがなく老後を迎えた人も多く、高齢者の貧困や経済格差の問題、特に1人暮らしの高齢者の貧困は切実だと思います。自営業や無職の人の年金は低く、もらっても生活保護水準以下です。特に女性単身高齢者の貧困率は5割を超しています。今の制度では、若いときの稼得力の格差が老後に影響するようになっていますが、若いときはたくさん稼ぐ人がよい思いをしても、年齢を取って長生きしたら、できるだけ所得格差を縮めるように再分配するという「老後社会主義」という考え方もあります。高齢者に生活保護受給者が増えると社会保障費を圧迫します。高齢者の貧困問題は社会全体の問題です。生産年齢人口がどんどん減少していますから、高齢者間でも高齢者を支える施策は必要になってくるでしょうね。

特に80~90代の世代は農業人口が多く、1950年代までは第一次産業の就業率が3割を超え、かつ農家世帯が5割を超えています。年金は国民年金のみで、低年金や無年金の方が多いのにその次ははサラリーマン化している世代なので、年金は悪くありません。結婚している人も多く、離婚も少ない。だから夫を見送ったあと、遺族年金をもらって、そこそこの暮らしをしています。

介護という点でみると、備えがなくて老後に入った人たちのお世話をその下の世代がしています。介護負担がこれほどまでに重くなると誰もが思っていませんでしたから、慌ててつくったのが介護保険ですよね。その次の世代が「自分が老後を迎えたときにどのような備えをすればいいか」ということを、今ようやく学習しているのだと思うのです。介護保険が始まって15年が経ちますが、最初は不完全で足りないところがあっても、3年に1度見直しをしながら少しずつ改善していくという形でスタートしました。しかし、最近は、社会保障関連予算が削減の方向に向かっているのが気になるところです。

2014年6月には「医療・介護一括法」(医療介護総合確保推進法)が国会で成立しました。この改革案は利用者にとっては負担増などが盛り込まれ、厳しい内容となっています。医療・介護を充実させていこうと介護保険をつくったはずなのに、この15年の間でどんどん条件を厳しくして使いづらくする方向に進んでいますね。介護保険制度をつくった2000年と現在の社会の間に食い違いが起きていて、時代の流れや変化に介護保険の内容が追いついていないのです。

この15年間で、家族介護力が確実に落ちてきました。これだけ落ちるとは想定外だったと思います。家族介護力を補う方向にいかなければいけないのに、今の制度は逆の方向に向かっているように感じます。日本の伝統的な家族構成を念頭において介護保険制度をつくったけれど、それが崩壊した。支える側の家族の形に急激に変化が起こったのです。

原資が足りないとやっとの思いで消費税を8%に引き上げ、今後さらに2%上げて10%にするはずだったのに、それも先送りしました。福祉先進国のスウェーデンでは消費税が25%で、租税負担率は約5割と高い割合になっています。スウェーデンやデンマークの人たちは、「自分たちのような貧しい国にできたことが、どうして日本のように豊かな国ができないのか」と言います。北欧の国は高福祉高負担。税金を多く負担する代わりに福祉が充実しているという安心感がありますね。日本は低福祉低負担だったのを、中福祉中負担に変えようという選択をしたはずなのにそのようになっていません。なっていないのは、そういう政治を選んできた私たちの責任かもしれません。今の高齢者を見ていると、自分が予期していなかった老後のつらさと切なさを感じます。日本の高齢者はあまり自己主張をしない感じがします。高齢者は数が多いですが、世代的な要因もあって我慢してきた方たち。そして女性が圧倒的に多い。「人の世話を受けて生きているなんて申し訳ない。肩身がせまい」というおばあさんたちが多いのです。高齢者の生活をよくするためには、「高齢者が自己主張すること」が必要だと思っています。アメリカには高齢者運動、シルバーパワーがありますが、日本にはまだまだ少ないですね。

日野原重明先生が立ち上げた「新老人の会」がありますが、会員は1万2千人ほどですから、アメリカに比べたら規模は小さいでしょう。アメリカにAARP( 以前の名称:American Association of Retired Persons・全米退職者協会)という世界最大の高齢者団体があります。会員は4千万人を超えています。この団体は政治に大きな影響力があります。特定の政党支持をしないで、民主党にも共和党にも影響力を行使しているのです。非常にうまい戦略だと思います。日本の高齢者もこのようなムーブメントを起こせないでしょうか。日本には3,000万人という高齢者がいますから、この層の心をつかんだ人はこの国を動かすと私は思っています。これは膨大な力となりますよ。高齢者が1人でも生きて、老いて、安心して最期を迎えられる社会をつくることが私の夢です。

そのためには介護保険をもっと手厚くしてもらいたい。そして、終末期を支える費用を手厚くしてもらいたい。たとえば、医療保険の高額医療費の減免制度と同じように、介護保険に終末期の短期集中ケア費用を支払い能力に応じて減免する制度をつくるということです。これがあれば最期まで自宅で過ごせます。年齢を取ったからといって施設や病院に行くのではなく、自宅で1人で最期を迎えられるための条件、制度をつくってほしい。そのためにはもっと福祉に予算付けをしてもらいたいと思います。

福祉の予算を抑制しているのが今の政治の傾向で、それを座視しているのが高齢者です。若者にお金がまわらないという不満の声もありますが、高齢者を大事にしない社会は、若者が年齢を取ったら同じ思いをするという社会です。老いることに希望が持てなければ、生きている甲斐がないと思うのです。いくつになっても「生きていてよかった」と思える社会。でも夢と言いたくはありません。実現したいと思っています。

3,000万人という高齢者たち叫ぼう。それが次の世代の人たちにも役立つのだ、頑張ろう「寅年・年女・男たち」
🎶聞け全国の高齢者

轟き渡る「敬老の日」の
示威者(じいしゃ)に起こる足どりと
  

未来をつぐる鬨(とき)の声 🎶