コロナ対策―医療従事者からの提言   (34 船曳孝彦)

菅首相は『コロナ対策に専念したく自民党総裁選に出馬しない』と表明しました。文字通り受け入れましょう。プラスもマイナスも含めての安倍・菅政権でコロナ対策を担って来ての総決算を示し、次期首相にバトンタッチしようといういわば引退に当たっての遺言に相当する重い決意と思います。昨年春からの『コロナ情報』で発信してきたことと一部重なりはしますが、現時点で下記のように考えます。

政府、官僚、日本医師会、全国大学医学部長病院長会議、全国病院関連団体等代表などが一堂に会する緊急会議を持ち、専門家の意見を尊重すべきです。従来この姿勢が見られなかったのが残念で仕方がありません。

CoV-2ウィルスの徹底的検査 最近の新規感染者数は減少傾向にあります。しかしウィルス保有者が正しく捉えられているとは言い難い現状です。接触を疑われても全員検査とはなっておりません。陽性者の分子は分かっていても分母が分からないのではどうしようもありません。少しでも疑わしい人、希望者、出来ればワクチン未接種者には全員PCR検査を行うべきです。新規戦闘機購入を1機減らすだけで賄えます。

デルタ株は勿論ですが、ラムダ株、ミュー株など新変異株についての分析、対策が採れていません。これでは今日現在の新規感染者数が減っているからと言って決して安心できません。下げ止まりとなって、やがて次の第6波がやってきますし、もっと恐ろしいことになるかもしれません。

④ワクチン情報公開  何時、どれだけの量が各自治体に配布できるのか。正しい情報、スケジュールが示されなければ国民は安心できません。渋谷での例のように少数では話にならないし、予約制度も明示しなければなりません。このことは既に1月に指摘しています。ワクチン接種開始とともにあるべきものです。

⑤医療側への注文 ①での会議で医療側の新型コロナに対する住み分けをはっきりと打ち出し、国民が安心して一般疾患治療、コロナ治療を受けられるよう、国民に明示すべきです。

  A 重症者受け入れを含めて対応 コロナ病床増設は限界でしょう

  B 中等症主体に受け入れ 同じく増床は限界にきているでしょう

  C 入院は出来ないが軽症者、中等症に対応 発熱外来

  D 臨時医療仮設施設への協力

  E ホテル、選手村など待機収容施設への協力 酸素センター

  F 在宅患者への対応 (家庭内感染予防のため本来自宅待機は不可)

  G ワクチン接種への協力 (校医として経験豊富)

  H 新型コロナ以外の治療に専念 

これは非難されるべきことではありません。コロナ以外にも重傷者、要治療者は数多くいます。  新型コロナ死亡者は累計 16.4万人(1.5年)ですが、癌による死亡 34.4万人/年、心血管系死亡 18万人/年、東北大震災死亡行方不明 16万人弱です。これらの人の治療を疎かにしてよい筈はありません。

緊急事態宣言、蔓延防止策などを出しても、もう効果は期待できませんが、応の基準は必要です。感染対策を確りしたレストラン、食堂は人数を制限して営業認可してよいと思います。1組の人数は5人程度に増やしてもよいのでは。アルコールは楽観ムードとなってしまうのでもう少し我慢せざるを得ないでしょう。

国民は不織布マスクをつけて出来るだけ外出自粛(近隣県までは可とする

(⑥⑦はウィズコロナへの段階処置を考えました)

エーガ愛好会(87)   運び屋   (34 小泉幾多郎)

クリント・イーストウッドの10年ぶりの監督主演作。                         第二次世界大戦に従軍した退役軍人がデイリリーという植物の栽培で成功し、園芸家として名を馳せるが、その後時代の変化に取り残され。自宅を差し押さえられたりした頃、得意としている車の運転だけすればよいという仕事を持ちかけられるが、実はメキシコ麻薬カルテルの運び屋だった。このやばい稼業に手を染めながらも、家族を顧みなかったことを改めて反省し、家族との絆を再生するという話。NYタイムス紙別冊の記事「90歳の運び屋」に着想を得たとのこと。

娘の結婚式にも出席せず、妻や娘から総スカンを食いながらも、運び屋になったからには、新しい仕事に熱心に取り組むサマがいじらしい。全体的に、運び屋とそれを追う警官たち、緊迫感溢れる題材ではあるが、逆にゆっくりしたテンポで進み逆に心地よい。警官に追われ、麻薬探知犬が覗いても、臭い消しのようなクリームを塗り付けて防止したり、黒人の若者夫妻がパンクで困っているのを見
付け、「タイヤ交換ぐらいできなくてどうする」と活を入れながら手伝ったり、麻薬組織の連中も優しく付き合うところ等ユーモアも交える。これが最後に近く、組織のボスが代わり、仕事を強制され、妻が急に亡くなることにより、これまで逃げてきたことや眼を背けてきたことから向き合うことになり、運び屋の間違いと家族を悲しませてきたことへの反省、若干ありきたりの結末ではあるが、人間ドラマは刑務所に入って終わる。最後刑務所で植物デイリリーを育てる場面で終わるが、これまで運命から逃げ続けてきた罪滅ぼしか。

閉幕後、スタッフの字幕に歌が重なる。・・・老いを迎え入れるな、もう少し生きたいから。老いに身をゆだれるな、ドアをノックされても、ずっとわかっていた、いつか終わりが来ると。立ち上がって外に出よう、老いを迎え入れるな。数え切れぬ歳月を生きて、疲れ切って衰えたこの体、年齢などどうでもいい、生まれた日を知らないのなら。妻に愛を捧げよう、友人たちのそばにいよう、日暮れにはワインで乾杯しよう、老いを迎え入れるな。老いが馬でやって来て、冷い風を感じたら、窓から見て微笑みかけよう、老いを迎え入れるな。・・・クリント・イーストウッドの気持ちが込められている。老いの身に、しみじみと突き刺さる。

(編集子)小泉先輩、感情移入の具合がしみじみと突き刺さりますなあ。

(小川) 小泉さんの名解説とジャイさんのコメントをブログで見て、「運び屋」をアマゾンプライムで検索して観ました。

クリント・イーストウッドの爺さん、自分に照らし合わせて観て、我々もあんな爺になっているのかと、何となく寂しい想いで…。それにしても同世代が観るにはなかなか深い想いが残るエーガでした。名解説に引き込まれる気持ちで2018年という新作でも実に感動した作品でした。「老いを迎い入れるな!」は将に我々同世代へのメッセージ、デイリリーは一夜花、実に素敵なメッセージがありました。ご紹介有難う。

*「風立ちぬ」が冒頭にありましたが、来月信濃追分にある堀辰雄の住まいに娘たちの運転で出掛けるつもりです。 老いは迎い入れな~い!

乱読報告ファイル(9)  大佛次郎 帰郷 再読

我が家の家系にはいわゆる理系の人間が少ない。東大理学部で半導体の基礎理論を専攻し、防衛大の教授だった母方の従兄弟が一人いるだけである。それとどちらかといえば女系家族で、これはまたワイフの家系も同じである。女系を蔑視したりするつもりは毛頭ないが、なんとなく理系の女性、というイメージが湧いてこなかったのだが、なんと孫娘の一人が志を持ってこの道へ進み、現時点では大学院に在学中である。嬉しい誤算,といえば本人は怒るだろうが、祖父としては大満足している。彼女の専攻は建築なのだが、中でも環境問題とか都市問題とかいった現代的な問題意識を持ちながらこれからの進路を考えているらしい。

きわめて標準的なサラリーマン生活を過ごした自分自身のこれまでを振り返ってみて、それなりに企業なり社会なりにささやかながら貢献してきた、とひそかに自負は持っているのだが、それがなんだ、と言われても他人に理解してもらうことはまずできない。その点、建築とか土木という分野では、その結果が万人に、専門家でなくても自分の目で見て、感じて、理解してもらえる。かつてテレビの番組で青函トンネルの掘削で土工をやっていた、という年配の人が、新幹線に乗ってトンネルを抜けるとき、”ここを俺は掘ったんだ、って誇りを感じる”、と言っていたのを見て、つくづくうらやましく思ったことがあった。

そんなわけで、彼女の将来には限りない期待をしているわけだが、その結果が街であれ建物であれ、人々に共感を呼ぶものになるには、(もしそれが日本に存在するのならば)日本人の心のありかたというものにマッチしたものでなければならないだろう。それが何なのか、人によって解釈は違うだろうが、冷静な目で、距離を保ちながら日本人の心、一口にいわゆる日本文化、などとくくってしまえないような心情のひだ、というか、そういうものを理解する機会をいくつも持ってほしい。そういうつもりで、自分なりに日本人、というものの解釈をさせてくれたこの本をプレゼントしようと思い立った。正確な記憶があるわけではないが、たぶん高校1年の時、人並みにヘッセだとかシュトルムなんかをかじり始めた時期、どちらかといえば地味なこの本にどうしてたどり着いたのかは覚えがない。しかし外国文学にはない”何か”を、それを日本人の心というのが正しい表現かどうかわからないが、そういうものをこの本から得た。そのことを彼女に伝えておきたい、と思ったのである。とりあえずアマゾンを探してみたら、この本の英訳版があることを知ったので、(外国人が日本文化のありようをどう訳すのか)を見てみたいと思って、最新版を2冊と英訳版を合わせて購入した。英訳版はまだ、手を付けていない。

”帰郷“ は第二次大戦直後、混乱の真っただ中にあった日本、全国民が心の支えを求め続けていた時期に書かれ、昭和25年度芸術院賞を受賞した作品である。事情があって罪を自分で被り、そのために祖国を去らねばならなかった主人公、旧帝国海軍の将校守屋恭吾が、敗戦後の日本へ帰ってくる。妻はすでに他人に嫁いでいるし、そのありようも全く違った世界になっている。ただ、自分が知っているのはほんの幼女にすぎなかった娘を一目見たい。その思いを彼に好意を持ち始めた女性(高野左衛子)の助けを得て、実現させる。娘には自分の正体を明かしたくない、と思っているのだが娘のほうは実情を左衛子から聞いて、父の存在を知っている。二人は京都の古刹で再会するのだが、父のほうは娘が実情を知っていることを知らない。この場面は原作ではこう書かれている(手元にある昭和25年10月、第六版から引用)。

 

父親は何も知らずに云ひ出した。

”私も海軍にゐたことがある。あなたぐらゐのお嬢さんのある方だと、兵學校もあまり違ってをらんはずのやうに思ふが“

伴子は不意にそれを遮った。

”お父さま“

と、素直に、すらすらと口に出て、

”あたし、伴子なんです“

恭吾は伴子を見返してゐた。無言のままでゐる。

 

“ひとを驚かさぬことだ”

と、穏やかな聲で、低く云った。恭吾は、伴子を見詰めたままであった。その目の色が、止めどもなく深くなって行くやうに見えただけである。

唇が微かに慄へた。

この場面が、もし日本語以外の言語で書かれたら、つまり日本文化の外にある人が書いたとしたら、このような静かな描写になっただろうか。逆にもし原作が、ここで恭吾が仰天し、二人が抱擁するような描写になっていたとしたら、この “帰郷” が日本人の、少なくとも戦後の混乱で自らを失ってしまっていた日本人の、心を揺り動かす名作にはならなかったのではないか。

人間、生きている間にいろいろな場面に遭遇する。そのときどんな感情が吐露されるのか、もちろん千差万別だ。Rocky Mountain, high ! と爆発することもあるだろうが、富士の高嶺に雪は降りつつ、と詠嘆することもある。戦後の混沌の中では、日本人の心の動きには失ったものをいとおしみつつ、あるものをそのまま受け取っていく、このいわば詠嘆に近い、そんな心情が共通項としてあったのではないか。この作品が静かに語るものがそういうものに共鳴したのではないか、と思えるのである。そして思うのだがそれが日本人の心の奥底にある ”何か” なのではないか、と。

アメリカ人の友人と日本文化、について議論を戦わせた記憶は枚挙にいとまがない。そういう場面で、日本文化の根底にあるのは feeling of resignation なんだと思う、と言ったらえらく納得されたことがあった。諦観、という単語が思い浮かばなかったので即興の造語だったが、明確に、ときには冷酷に時を刻む四季の移ろいが作ってきた日本のなりたち、そしてそこに生きてきた ”日本人” の感情の一番下にあるのは唯一の神の救いなどではなく、自然というものに対する絶対的な―うまい単語が見つからないのだが―信頼みたいなもののような気がするのだ。

作品の筋としては、恭吾は自分の過去を辿りながら、京都の旧所や古刹を巡り、騒動の中にもなお静寂に生き続ける日本文化の背骨を辿り続ける。しかしなお、自分が帰り着く場所を見出すことはできず、ふたたび、思いを寄せる左衛子を振り切って再び、故郷を捨てる。彼女に残した手紙の書き手は エへエジユルス、という名前になっていた。この小説は次のように完結する。 

左衛子は忘れて了つてゐたが、刑場へ曳かれて行く基督を辱めた劫罰で永久に死の安息に恵まれることもなく、地上をさまよって苦しんでゐる傳説の猶太人の名前であった。エへエジユルスの寂しさ切なさを彼はこの署名に込めてゐたのである。

この結末が引き起こす感情、すなわち戦後の心の荒廃がもたらした結末、あるいはそこに見えてくる将来へのわずかな希望にもにもまた同化できない、一人の男の人生の始末の仕方が高校1年生、17歳の心に何をもたらしたのだったか、人生行路を振り返る年になって、あらためて見詰めてみたい気がしている。 

アフガン情勢から導かれる話    (普通部OB 田村耕一郎)

友人から送られてきた、フランスの思想家ジャック・アタリのメッセージをご紹介する。

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私たちは8月のアフガニスタン政権の崩壊から、忘れられがちな法則を思い返す必要がある。実現の可能性が非常に高いと考えられることは、一般的な予想よりもずっと早くに起こるという法則だ。米軍がアフガン撤収を発表すれば、イスラム主義組織タリバンが首都カブールなどを制圧するのは明らかにも思えたが、1年以上かかるとの見方が一般的だった。
1988年秋ごろには、東欧民主化やドイツ再統一などが「いつの日か起こる」ことが明白になった。当時の米国のブッシュ(第41代)大統領が89年12月、私と
の会話で「ドイツ再統一までには少なくとも10年はかかる」と語っていたのをおぼえている。ところが、実際には1年もかからなかった。

もちろん、法則が当てはまらなかったこともある。フランス革命は十分に予想できたが、一部の啓蒙主義者の予測よりも後に勃発したといえる。だが現在、状況は変化し、歴史の歩みが加速した。理由はたくさんある。例えば、民衆を制御することや矛盾を放置することが難しくなったことが挙げられるだろう。

まず、歴史の歩みの加速は、気候変動から実感できる。気候変動が現実であることは繰り返し発表され、科学的に証明され、記録に残っている。しかも、気候変動の影響は5年前の見通しよりも切迫していることが日々実感できる。対策を講じない限り、2050年に起こると言われていたことが、25年にも起こりうる。
次に、新型コロナウイルスの感染拡大だろう。現在よりさらに危険な変異ウイルスの出現を防ぐには、少なくともワクチン接種を義務付けるしか方法がなさそうだ。わかっていながらも認めようとせず、対策を先延ばしにし、強制しないふりをする。何らかの別の対策を打つべきでも傍観する。するとある日突然、ワクチン接種を義務付けることになってしまう。

社会や政治などの面で深刻な問題に直面する中国共産党が、台湾への軍事的な賭けに出ることで、問題を先送りしようとすることもわかっている。わかっていながらも、実際には起こるはずがないというふりをする。しかし、中国の武力行使は我々が思っている以上に早期に起こるかもしれない。

米国が現在の同盟国を保護しようと思っても、能力を失い、欧州など世界各地から軍隊を撤収させることも明白なようにみえる。しかし、どの国も準備をしていない。一方、米軍の撤収により、特に欧州連合(EU)は自衛権について考え防衛力を整備するきっかけを得られるのかもしれない。

国際情勢だけではない。仕事や友人、家族など、自分の身の回りも同じような状況に置かれているかもしれない。「出来事はすぐには起こらないだろうし、まったく起こらないことも考えられる。従って心配しなくてもよい」と考える。ところが倒産や死別、言い争い、破局といった直視したくない出来事は往々にして予想より早く起こる。予期していなかったのに、「自分は予期していた」と語る者まであらわれる。さらに多いのは、準備不足で苦しむ者たちだ。

こうした出来事を探してみよう。自分にとって望ましい出来事なら、到来を早めるために即座に行動しよう。恐れている出来事なら避けるために、あるいは少なくとも備えるため、自分に何ができるかを考えてみよう。
地政学から私生活まで、やるべきことはたくさんある。気候変動問題はまだ回避可能で、中国周辺の海域で戦争が起こると決まったわけでもない。公私を問わず、多くの場面でサバイバルの鍵となるのは、先手を打つことだ。

ジャック・アタリ(Jacques Attali)

フランスの経済学者思想家作家、政治顧問。旧フランス領アルジェリアの首都アルジェ出身のユダヤ系フランス人ミッテラン政権以後、長きに渡り、仏政権の中枢で重要な役割を担った人物として知られ、つづくサルコジオランドマクロン大統領にも直接的な影響を与えており、フランスのみならず欧州を代表する知性のひとりと目されている。仏国内において経済、思想から伝記、小説、回顧録に至る幅広い著作で知られ、 『ノイズ──音楽・貨幣・雑音』、『アンチ・エコノミクス』、『2030年ジャック・アタリの未来予測(原題ーVivement après-demain)』など50冊以上もの本を出版している。日本では教養・思想面の著作翻訳が多く出版され、広く読者を得ている。

エーガ愛好会(86)  初めて見たエーガ、覚えてる?

今回の話題のきっかけはスガチューの一文だが、なんせコロナ日和(?)で暇なことと見えていろんな話がでてきた。今の子供だったらどんなゲームが初めてだった?とでも、俺たちがいなくなって(多分それからしばらくして)話題にするのかなあ。

(菅原)本日、いつもの如くボーットしていたら、閃きました、いや、大した事ではありません。「俺が、初めて見たエーガは何だったか」と言う疑問です。いくら思い出そうとしても、曖昧模糊。紅茶を飲んでも駄目、マドレーヌなんてないから食べていませんが、失われたエーガを求めても忘却の彼方。そして、考えに考えぬいて、以下の2本ではないかと。どっちが先でどっちが後かは、判然としません。

1.「石の花」(1946年)。ソ連、初めての総天然色。叔父夫婦に連れられて見に行きましたが、劇場は、それこそ立錐の余地もなく超満員。大人と大人の間から覗いていましたが、覚えているのは、色が付いていたことだけで、他は、全く覚えていません(これを、見たと言えるのか)。因みに、ソ連のエーガでは、「戦艦ポチョムキン」を除くと、一番、面白かったのは、G.チュフライ監督の「誓いの休暇」(1959年)です。

2.「ターザンの???」(題名は完全に忘れました)。小学校の映画観賞会で見ました。しかし、覚えているのは、ジェインが危機に陥り、それを助けるターザンが奇声発して登場するところで、館内が一斉に地鳴りのようにどよめいたことだけです。ただ、ターザンがジョニー・ワイズミューラー(以下。ワイズ)だったことだけは覚えています。ワイズは、てっきり米国人だとばかり思っていましたが、先ほどネットを見たら、ルーマニアからの移民であることを初めて知りました。

皆さんは、小生ほど間抜けではないことから、初めて見たエーガはキチンと覚えておられるとお察しします。

(安田)菅原さんの初めての映画、想像も出来ない2本を挙げておられました。「石の花」1946年、終戦の翌年・僕の生まれた年・菅原さん多分8歳。ようまぁ~そんな難しいエーガに行かれましたね!しかも、終戦の翌年はどんな焼け野原だったのでしょうか?人間やはりホモルーデンス、遊びがないと生きて行けません。菅原家の格調と文化の香りが匂い立ちます。

さて僕は何を初めて観たか思い出そうにも思い出せません。3本候補があります。「しいのみ学園」、「紅孔雀」、「笛吹童子」。しいのみ学園は1955年公開とある。小学校2年か3年生で先生に引率されて生徒全員で観に行った。オイオイ泣いたことを覚えている。出演した香川京子は素敵なお姉さんだというのも鮮明に覚えていて、以後10年間は彼女のファンであった。あと2本は東映のチャンバラ映画。ラジオ放送でドラマを聞いていて映画になったので早速観に行ったと思う。これらも’55~’56年頃だったと記憶する。三角形の真ん中に東映の文字が海岸の荒々しい波しぶきの中に浮き上がってくるとそれだけで興奮したのを覚えている。当時の東映のチャンバラ映画の主役俳優はいつも同じ。中村錦之助、東千代之介、大友柳太郎、悪役は常に月形龍之介と吉田義夫、女優陣は高千穂ひづる、千原しのぶ・・・。’50年代は名作が目白押しだった洋画は高校生になるまで全く観に行かなかった。

(中司)なるほどなあ。初めて見たエーガ、ねえ。夫婦二人で首をひねったが、たぶんジョニー・ワイズミュラーのターザンものだったのかな、というのが結論。

それと、当時まだ学校の講堂に付近の小学校の生徒と一緒に映画演劇をみる、というのがときどきあって、空気のなくなる日 というのを見たことがあった。これかな。5年くらいになるとセーブゲキてえのがあるとわかって、兄貴に頼んで連れていてもらうことが何回かあった。場所は自由が丘の南風座だったろうな。その時は傑作だなんてわからず、クレジットが牧場の柵に焼き判ででてくるのに感動した記憶があるから、かの 荒野の決闘も早い時期に見ていたのは間違いないし、床屋で主人公んが闇討ちされるのに子供心にショックを受けた記憶があるから、西部魂もみていたはず。

(相川)学校から見にいった 「仔鹿物語」(日本公開昭和24年) が最初だったと思います。カラーにびっくり。少年の気持ちになって撃ち殺される子鹿に涙しました。先日BSで見ました。南北戦争後のフロリダでの開拓民生活と知り、印象が変わりました。「シェーン」(日本28年) でも少年になって 「シェーン・カムバック」と叫んでました。ジャイさんの「空気のなくなる日」(昭24)は 私も見て印象強く残っています。ハレー彗星が接近して空気がなくなる というので、大騒ぎになり、タイヤのチューブを買ったり風呂場に隠れたりするユーモラスな話。学校推薦らしい内容。

(保屋野)初めて観た映画ですか・・・私も全く覚えていません。

ただ、いずれにしても、小学校の課外授業で観たのでしょう。校庭で観た記憶はあります。候補は、裸の島、ファンタジア、菩提樹、野バラ・・・多分違うでしょう。チビ太の「笛吹童子」「紅孔雀」はNHKラジオの新諸国物語(昭28年頃)で聞いた記憶が。その後に「剣を持ったら日本一の少年剣士」の「赤胴鈴之助」(昭32)が 登場、TVドラマでは吉永小百合が初出演。 その頃 我が家にもなんとかTVが入ってました。

子供心に見て感動したのはディズニーの「ファンタジア」(昭30)です。クラシックの名曲とファンタジックなアニメーションを合体させて見せる試みに びっくりしました。「魔法使いの弟子」は今でも思い出します。

(金藤)初めて見た映画は・・・昨年も書きましたが、兄たちがすでに通っていた小学校の夏の映画大会で見ましたのんちゃん雲に乗る」原作 石井桃子です。 鰐淵晴子がとても可愛いお姉さんだった事、ヴァイオリン、雲の上にいた事などは覚えていますがおぼろげです。もう一度観てみたい映画です。

その前の夏に「風の又三郎」も上映されていたのは覚えていますが、私は途中から眠ってしまったようで始めの方しか覚えていません。 どちらも観た映画とは言えません。
小学校から映画館に観に行った映画は 「路傍の石」、「二郎物語」「にあんちゃん」は、どちらか親に連れられて観に行ったかもしれません。
近くの映画館に同級生親子と観に行ったのは ディズニーの「眠りの森の美女」等だったと思います。
ラジオの「笛吹童子は2歳上の兄が聞いていましたので主題歌の最初だけ覚えています。 ︎ヒャラーリヒャラリコ ヒャリーラヒャラレロ 誰が吹くのか不思議な笛だ︎♪ までです。
TVは白黒でしたがディズニーランド「おとぎの国」チャイコフスキーの曲とともに花の妖精たちが踊っていて、まさにおとぎの国 大好きでした。
ミッキーマウスの魔法使いの弟子、こちらも曲と箒の動きを忘れられません

(船津)最初に観た映画なんて記憶力テストみたいなこと仕掛けてきたのは誰じゃ!これ確かに「空気のなくなる日」見ましたが、大分後ですよね。

夏の映画大会なんて在りましたね!小学校の校庭に映写幕建てて映写機で上映。
大体当時の映画館は「電気館」何て言う名前でしたよね!信州上田でなんだか知らないが母と見た。「石の花」は戦後有名でしたね。兄・姉が話題にしていました。色付き映画。
高校時代は藤本君が16㎜映写機の映す資格を取り、図書室で「米」とか米軍が民主化キョウイクの為の映画ナトコ?等を上映しましたね。
戦後の日本映画は腹切りとか戦前物は不許可。
GHQ主導で勧められた民主主義礼讃作品としてプロパガンダ映画が多数製作された。その中で黒澤明の『わが青春に悔なし』(1946年)、吉村公三郎の『安城家の舞踏会』(1947年)、今井正の青い山脈』などに出演した原節子は西洋的な新時代の幕開けを象徴するスターとして国民的な人気を博した。佐々木康の『はたちの青春』(1946年)では日本映画最初のキスシーンが撮られた。
こんな映画が最初に見たのかなぁ。
(菅井)はじめて見た映画…、幼い頃何故か親によく近所の映画館(当時は日本映画上演館と洋画上映館が2館ずつ計4館が徒歩10分圏内にありましたが20世紀中に全て無くなりました)に連れていかれたことを覚えています。記憶に残っているはじめて見た日本映画は豊田四郎監督、森繁久彌と淡島千景主演の「夫婦善哉」(1955)、洋画はディズニーの「わんわん物語」(1956)です。どちらも幼稚園児の頃です。実際にはその前にも映画館に連れていかれているはずですが見た映画の記憶がありません。4歳児には「夫婦善哉」の内容はサッパリ分かりませんでしたが(笑、森繁と淡島千景が出ていた映画を見たとい記憶だけは残っていました。

(小田)初めの頃は両親の好みの映画に連れて行かれていたように思います。内容等より、合間に買ってもらったカップのアイス、座席取り、終わった後の頭痛、急に変わってしまった外の空…のことの方が印象に残っています。

楽しく観たのは菅井さまと同じ(年齢は違いますが)「わんわん物語」です。ディズニーは女性を見た目、振る舞い共に、とてチャーミングに描くことが多く、(アラジンのジャスミン等)主役のメス犬 、”レディー”が犬なのに本当にレディーという感じでしたた。
その前の「ダンボ」は風邪か何かで見に行けなかったように思います。googleで見ると声の出演者がお爺さんばかり?坊屋三郎、古川緑波、三木鶏郞…でした。
(小川)全く思い出せない!中学時代、講堂で見たのか、映画館に連れて行って貰ったのかも?ターザンのワイズミユーラー、邦画では?思い出させて下さい!

(小泉) 初めて見た映画、残念ながら記憶が遠く、どの映画かわからないのです。何故かというと、母親が大の映画ファンだったことから、まだ物心つかぬ子供の頃から映画館に母親と一緒に入っていたのです。今でも覚えているのは、今でいう成人映画だったのか?物心ついた子供は入場できないことから、胸にピンセットか何かで留めてあった学年を示す名札を取り去って映画館に入ったことは鮮明に覚えています。しかしその映画が、何という映画かは、全然覚えていないのです。その後記憶にあるのは、どうも映画館ではなく、小学校の校庭に、夜暗くなってから白い幕を張って映写したのを観たのが、最初だったように思われます。多分阪東妻三郎主演の「無法松の一生」です。阪妻が人力車を何回も走らせている場面だけが記憶にあります。

「石の花」が話題になってましたので、カラー映画について一言。当時カラー映画は、総天然色映画と言われてましたが、戦後最初に輸入されたカラー映画は「ステート・フェア」次に長編漫画の「ガリバー旅行記」で、これが最初に観たカラー映画でした。その後、ソ連製の「石の花」「シベリヤ物語」も観ました。アメリカのテクニカラーに対し、ソ連は、アグファカラーで、シャープなテクニカラーにくらべ、ややぼやけたような感じがしたのを覚えてます。ソ連はカラーの技術がなく、ドイツの技術を勝手に持ち出した等と悪口を言ったものです。

(飯田)長野県豊科町安曇野の田舎の小学校低学年時代に学校の校庭に映写幕を張って見た(多分、村民と一緒だった?)数本の映画です。タイトルは覚えていませんが、ちゃんばらの日本映画に混じって「若草物語」(総天然色)を見ました。

(久米)映画大好き人間の両親に連れられて月に一回は映画を見に行っていたようです。私は1943年生まれで我が家では末っ子です。長女の姉は6歳上ですからその子供達を連れて映画に行く時にはどこに照準を当ててたのかと思いますが他の作品も連れていかれていると思うのですがはっきりと記憶にあるのはワイズミューラーの「ターザン」です。アアアーアーアーと右手を口に当てて叫び、樹から樹に飛び移るターザン、面白かったとの記憶があります。兄と映画を真似て落とし穴を作ったり致しました。「キングコング」も見ましたが恐ろしくて幼い私にはこのサルの顔が只々憎らしく思えました。

続いて「ターザン紐育に行く」背広を着させられたターザンが都会で戸惑うという筋書きでした。モイラーシャーラ―主演の「赤い靴」も記憶にあります。「名犬ラッシー・家路」はポロ涙一杯のお気に入りの映画でした。初めてのディズニー映画「白雪姫」楽しかてうっとりしました。交通博物館で常時上映されているミッキーマウスよりずっと夢がありました。」それから「バンビ」「ダンボ」「ファンタジア」と欠かさず見ました。。「踊る艦隊」「凸凹カーボーイ」「仔鹿物語」「カーネギーホール」など見た記憶があるのですが不思議に思うことは小学校低学年の私が良く字幕を追いかけて映画を見ることができたなあという事です。「馬」という日本映画も見たような気がしますが調べてみると高峰秀子主演で封切作品ではないものを観たと思われます。今、見直しますと幼い時に見た印象と全く違う印象の物も多くその映画に適した年齢で観賞することが大事なことだと思うようになりました。

(菅原ーまとめ?)と言うわけで、ネットで確認した(以下、詳細は全てWikipedia)。「空気の無くなる日」の製作は1949年だが、学校とか市民館への移動巡回映画会が始まったのは、どうやら1950年かららしい(小生六年生)。従って、残念ながら、「ターザン???」の方が早い。何故なら、映画観賞会のその場に、コワーイ六年生も同席しており、特別視していたその六年生が、ジェインを救うべくターザンが登場すると、五年生の小生と同じように、快哉を叫び、「なんだ俺たちと同じじゃないか」と、変に安心した記憶があるからだ。ここから話しが飛ぶが、ターザンは何人かがやったみたいだが、ワイズミューラーが最高で、それは、007にも言えることで、初代のショーン・コネリーと今のダニエル・クレイグでは、月とスッポンほどの違いがあるのは間違いない。小生、今の奴は見る気にもならない。(中司反論:いやあ、何人も出てきたけど、俺はクレイグが一番リアルでいいと思ってるけどなあ)

 

 

 

続々 本日の散歩     (普通部OB  菅原勲)

本日は、早めに出かける。目的地は、先ずは、「クイーンズ伊勢丹」だ。従って、桜田通りを古川橋方面に向かう。前述した消防署の隣がお寺だが、名前は覚えていない(関心のない証拠)。ENEOSの給油所があって、バス通りを渡ると、Salvatore Cuomoのピッツァ店、東京メトロ従業員の宿泊所(だと思う)、直ぐに、最近、世間を騒がせた白金・高輪駅に通ずる出入口、その左にコンビニ「LAWSON」。右に、住友信託不動産の販売店。通りを渡ると、アクサ生命保険、その手前に、花屋、スターバックス、その隣の建物の二階が、ファミリー・レストラン(要するに、ファミレス)の「サイゼリヤ」。スターバックスの横に、吹き抜けの地下があって、小さな広場があり、そこを、ビストロ紛いの店、Tullys、薬のトモズ、築地直送だと称しているマグロ店、それに、「クイーンズ

夜になればかくのごとくきらびやかであるらしい。同じクイーンでも仙川の店はもっとささやかであるが。

伊勢丹」などが取り囲んでいる。用を済ませて、次の目的地、図書館に向かう。ここは、桜田通りとバス通りが交差しているが、横断歩道はなく、エレベーターを使って、歩道橋を利用する。図書館は支所の3/4階を占めており、4階に行って目的の本を探す。一つは、向田邦子だが、文庫の本棚で、未読の「寺内貫太郎一家」を借りる。もう一つは、永井荷風、これも文庫の「墨東綺譚」、これで何回目かな。いずれも、在庫は極めて貧弱。特に、永井荷風は、別に全集でもあるのだろう、あるのは、文庫の「墨東・・・」と「断腸亭日乗」の上下だけ。荷風は、今やニフウとなってしまったが、向田まで過去の人となりつつあるのか。精々、これから、一生懸命読むことにしよう。

はや長月ですね     (普通部OB 舩津於菟彦)

長月はやや涼しい日で始まりました!もう何だかんだ言っている内に2021年も後半に突入ですね。菅原さまの様に「読書の秋」ですね。こちとら3ページほど読むと目が閉じてしまいます!
今朝はベランダに水やり、してインナーガーデンを古いLensを付けて一回り。お花が咲いているとホッとして何か嬉しくなります
このレンズはライカの古いカメラに付いていた物ですが、腐ってもErnst Leitz GmbH-Wetzlar Elmarマァマに撮れています。菅原さま同様に下手写真に辟易かも知れません。まぁ長月のスタートやややけクソ。

下の写真は大分以前買ったフレクトランスモナラベンタートと言う花でこれはレンズは最新鋭のニコンZ6 レンズ  NIKKOR Z MC  105mm 1:2.8VR-Sで撮りました ほかはカメラ ニコンZ6 レンズ Ernst Leitz GmbH-Wetzlar Elmar f:5cm 1:3.5 ヘリコイド付きアダプター使用 ホトトギスト咲いたら直ぐに散る紫紺ノボタンこれが咲いていると何か今日は良いことありそうなホッとした気になります。咲いたら直ぐ散ります。せせらぎがあります。

愛用のカメラはこれです!

(編集子)門外漢には全くわからないけど、これって、車でいうとロールスとかフェラーリとかっていうクラスなわけ?

(続)本日の散歩       (普通部OB 菅原勲)

本日は用事があって恵比寿まで行った。共同住宅の裏門を出て暫く行くと三光 坂と言う急坂にぶつかる。これを左に折れて1区画ほど行くと右側に聖心女学院がある。短期大学の英語専攻科がなくなったから、今、ここに通学しているのは、小中高校生だけだ。勿論、夏休み中だから学生に出会うことはない。小生は右に折れて急坂を下る。急な坂道を上るのは可なりシンドイが、下るのにも骨が折れる。下りたところがバスの停留所「三光坂下」。ここを渋谷と田町をつなぐ都営バスが走っている。小生、身体障碍者なので、都から都営交通無料乗車券を頂戴しており、これを大いに利用している。このバスで田町行に乗って三つ目の駅に塾の中等部と女子高があり、その一つ先が大学だ。今は夏休み中だが、「ラーメン二郎本店」は健在で、昼飯時はいつも人の列が絶えない。小生、渋谷行の五つ目の駅、恵比寿で降りて、先ず、「みずほ銀行」に行く。スゲー、動いてる!「三菱銀行」、最後にアトレ内の郵便局に行く。アトレは相変わらず寒い。冷房をこれほど効かせる必要はあるのか。省線「恵比寿」駅の東口を出て帰途につく。恵比寿一丁目で田町行に乗り、三光坂を上るのが嫌なので、わざわざ一駅先まで行って、スーパー・マーケットの「クイーンズ伊勢丹」に寄って買い物をし、帰宅する。汗がポタポタ、ポロシャツはぐしょぐしょ。例年どうり蒸し暑さは変わらないが、今年の夏は風のない日がないくらい風が吹く。それも熱風ではなく、しのぎ易い。北風か。ならば、30度前後、までと思うのだが、であればこそ、40度近辺を35度前後まで下げてくれているのか。素人の小生にはさっぱり分からない。そこで我らが後輩の天気予報士、石原良純に聞いてみる。「今年の夏の天気の特徴は?」。石原良純、とくとくと、30分以上に亘って早口でべらべらと喋り捲る。しかし、結局、何を言っているのかさっぱり分からない。

(性懲りもなく、続「本日の散歩」です。「十代の性典」にあやかりました。ポスターのあの若尾文子は、今でも忘れ難い。続々までありましたから、「本日の散歩」も続々で打ち止めでしょう。関心のない方は、さあー、元気を出して「スルー」しましょう。

(編集子)若尾文子のイメージが小生とはだいぶ違うようだ(そもそもあやかった、という日本語の意味がわからん)。もめるのはばかばかしいので写真は探さなかった。小生新婚当時に住んでいたころの恵比寿とはあまりにも違ってしまって、懐かしさ、なんてものを感じないのは残念。

乱読報告ファイル(8) ロセンデ―ル家の嵐

英国人の冒険小説好きについては何度か書いた。古くは僕らの年代の人なら子供時代に読んだはずの 宝島 から始まってその筋に詳しい人ならいろいろな本を上げるだろうが、評論家の皆川正夫は 冒険・スパイ小説ハンドブック の中の ”海洋冒険小説ベスト30” としてその第一にアリスティア・マクリーンの ”女王陛下のユリシーズ号” を、第二位にジャック・ヒギンズの ”脱出航路” を選んだうえで、第四位に挙げたのがあまり知られていないかもしれないがバーナード・コーンウエルの ”ロゼンデール家の嵐” である。

話の筋は没落した英国貴族の当主が古い格式やら金目当ての親類などに飽きはてて、単身、ヨットで放浪の旅に出るのだが、その親類の策略にひっかかって財産の中でも飛びぬけて価値のあるゴッホの絵を持ち逃げしたという疑いをかけられる。一族の中でも彼がただ一人愛している知恵遅れの妹の将来にも不安を感じて英国に戻り、盗難にあった名画の捜索に巻き込まれてゆく、というものである。 作者自身もおそらくヨットに詳しかったのだと思うのだが、話の筋はともかく、海と一人で格闘するシーンが素晴らしく、これが英国人があこがれるライフスタイルなのだな、と納得する。小生は船にはできれば乗りたくない部類の人間で、ましてやヨットの操縦などちんぷんかんぷんなのだが、かえってその格闘にすがすがしいものを感じる。ヨットの経験者ならば十分満喫できるものがあるのだろうし、テクニックを論じたりすることもできるかもしれない。

もう一つ紹介したいのが 黄金の島 という作品で、これはがらりと変わってカリブ海での麻薬密輸に絡む話だが結構入り組んだストーリーなので、話の展開を楽しむのが第一。ただ ”ロゼンデール” とは違って、米国の裏庭で起きる事件で極めて現代的な話なので、海との戦いもヨットの話とはだいぶ違った感覚で、むしろ ”スパイ・冒険物語” に近いジャンルの話である。

いずれも面倒くさい論議なしに海の香りをかぎながら、できれば冷たいビールでも味わいながら楽しめる作品である。コロナ鬱の昨今、純文学系の方からは他愛ないといわれるかもしれないが、爽快感のある読後感を約束する。新刊は見当たらないので、ブックオフの文庫棚を探すことになるとは思うが。

バーナード・コーンウエル

1944年、ロンドン生まれ。カナダ空軍パイロットと英空軍に所属していた女性の間に生まれるが、その後すぐに養子に出されてエセックスで育つ。ロンドン大学を卒業後、教師などを経て10年間BBCでプロデューサーなどを務めたのち、妻の関係で1980年にアメリカに移住したことを機に小説を書き始め、イギリスを舞台とした歴史小説を多く執筆している。本国イギリスやアメリカのほか、その他の国々でも代表作『シャープ・シリーズ』や『小説アーサー王物語』など多くの作品が翻訳されており、日本でもその一部が出版されている。初期には海洋ミステリー小説を執筆しており、これには『殺意の海へ(The Thrillers )』、『ロセンデール家の嵐(Sea Lord』(第10回日本冒険小説協会大賞受賞)、『嵐の絆(Stormchild)』などがある。2006年にはその功績により英国王室から大英帝国勲章(OBE)が贈られている。