日光へ行ってきました  (HPOB 小田篤子)

27~30日まで、成人してから初めて、日光を旅行して来ました。緑が多く、とて落ち着いた所でした。

《日光》
①先ずは中禅寺湖畔を周りました。湖畔には先日の『G7 NIKKO』のモニュメントが。
《ボートハウス》
1947年にアメリカの建物をモデルに建てられました。
長崎であちこちで見かけたグラバー氏が、再登場! この辺りに別荘を建て、カワマスを放流し、フライングフィッシングを広めたそうです。
長崎のグラバー園には水産学者でもあった息子、倉場富三郎の「グラバー図譜」が飾られていました。富三郎は日本にトロール船を導入、近代的捕鯨産業を確立したと言われますので親子とも魚好きだったのですね。
《立木観音》
加山雄三さんが「エレキの若大将」の撮影をした所で記念碑がたっていました。
《英国大使館別荘記念公園》
英国外交官、アーネスト·サトウが1896年に建て、旅行家イザベラ·バードも滞在しています。
サトウの次男、武田久吉博士は植物学者、登山家でもあり、日本山岳会の発起人でもあります。
さすが、あちこち旅をしたサトウさん! 穏やかな眺めは、心落ち着く絵葉書のような景色でした。お隣のイタリア大使館も、杉の木の皮をパッチワークのように使った外装が特徴的です。この時期この辺りへのバスがなく、帰りは歩き始めて間もなく、大雨、雷、ヒョウにあい、40分程一生懸命歩いてきました!
②《東照宮》方面へ
東照宮は外国人も多く、とても混んでおり、隣の、人がまばらな《家光廟日光大猷院》の方が阿と吽の口の金剛力士、カラフルな4体の夜叉、300以上の石灯籠、黒と金の荘厳な建物…と見応えがありゆっくり楽しめました。
《金谷ホテル歴史館》
山口由実さん(’62年生まれ、慶應卒)の著書「クラシックホテルが語る昭和史」を読み日光金谷ホテルの事を知りました。
金谷ホテルの金谷眞一(兄)と箱根富士屋のホテルの山口正造(弟、婿養子)は兄弟で父が金谷善一郎。山口由実さんは正造の曾孫です。
1873年に東照宮の雅楽士《金谷善一郎》が、泊まりにきていた米宣教医師ヘボン博士の勧めで、外国人専用の『金谷カテッジイン」=「侍屋敷」を開業。
イギリス人旅行家イザベラ·バードも1878年に12日間滞在したり、20年間使われた後、保存されています。元は武士の家でしたので、隠し部屋等、昔の知恵が使われており、庭も綺麗です。
《田母沢御用邸記念公園》
日光出身の実業家小林年保の別荘に、病弱だった大正天皇のご静養の為に、紀州徳川家江戸中屋敷(赤坂離宮として皇室に献上後)の一部を1898年移築した事から始まります。その後の増改築の結果、江戸、明治、大正の木造建築を合わせ持っています。木材の宝石箱だそうです!1947年まで利用された皇室3代。部屋数106室(皇室用23,臣下用83室)!
*日光金谷ホテル
夕方5時から泊まり客用に45分間の館内ツアーがあります。アインシュタイン、ヘレン・ケラー他多数の有名人が宿泊。
ここのバーは真空管の音響でジャズを流しています。違いが私には…(久しぶりにバーに入りました!)G7 NIKKOではリッツ·カールトンを利用したようです!
(この写真は 44 安田君提供)

釜蓋朔日 ― 水無月から文月へ     (普通部OB  舩津於菟彦)

水無月から文月へと時は移ろいますね。今年も明日で丁度半分。まだ半分しか時は過ぎていないと思うか、今年は後六ヶ月しか無いと思うか。紫陽花とクチナシそして紫君子蘭、ヤブカンゾウが満開の錦糸公園を歩いて来ました。

『 文月や 空にまたるる ひかりあり 』 加賀千代女   文月の空だなぁ。まだ夕方で日が沈んでいないのに、日が沈むのを待ちかねた月が光っている。
『 文月や 神祇釈教 恋無常 』     正岡子規    文月だなぁ。  世の中の有様はさまざまであることだ。

7月1日は釜蓋朔日(かまぶたついたち)と言う日だそうです
死者の霊魂が地獄の石戸を突き破って出てくるという日。お盆を迎える準備は朔日から始まる。この日を釜蓋朔日と呼び、あの世の釜の蓋が開いて、ご先祖さまの精霊が冥土からそれぞれの家へ旅立つ日とされている。あの世からの道は非常に遠く、それで朔日に出発しなければ盆までに間に合わないということ。走って現世に来てくれるのかしら、写真とかお位牌に向かって、「いろいろ教えてくれたり、今日あるのはも皆様のお陰です」と言うしか無いですね。
御元気なときに言いたかった言葉です。 これから祭祀などの執りおこない方とか戒名とか色々変わっていく時代に成ってきていますね。

日本の英語教育について (4)

日本人の英語教育はどうあるのがいいのか、ということについて、いろいろな立場からのご意見をいただき、 なぜ、英語が必要なのか、それはどの程度の能力なのか、という基本的な命題を議論してきた。今回はそもそもの議論のきっかけであった、”英語教育の手法“ といういわば技術論について私見を書く。

我が国における英語の必要性、という問題について、投稿者各位のあいだで一致した認識は、一般の日本人が大学まで進学した場合、単純合計で10年間まなぶことになる英語教育が、結果としてグローバルな場で外国人とコミュニケートできるだけの成果を出していない、ということである。ただ、ここでいうコミュニケート、とは、会話能力、と言い換えなければならない。なぜかといえば、外国語で書かれた書物を自国語で読解できる、すなわち主要な外国文献が自国語に翻訳されて誰でも入手できる社会環境を維持しているという意味では、日本ほど制度・機構が出来上がっている国はほかにないのではないかと思うからだ。

欧州各国は長い歴史を経てなお、自国の領土に固有の言語を保持しながら、地理的、文化(歴史)的経過からお互いを知り、認め合うという仕組みがあり、言語そのものを知悉しなくてもコミュニケ―ションが保たれているし、ごく普通にマルチリンガルな人間がいてもいわば当然と言える。しかしそのほかの国、米国をはじめとした非欧州の国々が他国の言語に敏感であるとは思えない。日本の若者のように、自国語で、今日はゲーテを読み、明日はサルトルに手を伸ばし、それがすんだらヘミングウエイにしようか、ということが出来る。これは明治開国とともに、わが福沢諭吉をはじめ多くの先達者が切り開いてきた外国語翻訳という確たる文化である。くりかえすが、かの 日本では英語の水準がほかの国に比べて低い、だから日本は遅れているのだ、というお役所議論は全く意味がない。外国の優れた文物を取り入れ、消化し、自国の状況に合わせてローカライズする、という事が大事なのであって、外国語がわかるかどうかという事は単なる事実のあとづけにすぎないからだ。

しかし、そもそもの議論のきっかけである、”グローバルな環境での異文化と対人関係のなかにあって自己を主張し議論を重ね成果を得るための言語、事実として世界語である英語の会話能力” という点についてわれわれが大きく立ち遅れている、という認識には小生も100%同意である。ただ、多くの人が指摘されるように、そういう現実の場においても重要なのは英語というツールだけの問題ではない。小生の経験からいうと、本節の意味でいうコミュニケート能力の不足、の原因は第一に日本人が生まれついてきたいわば日本人としてのしつけ、すなわち自己主張をする前に組織との整合性や他人の立場を考慮する、という文化であり、雄弁よりも断固たる沈黙を貴ぶという武士道的発想ではないかと思う。またそういう時に、これもまた日本人には苦手なのだが、ユーモア、とかエスプリ、といったものが持つ重要性も考える必要があるようだ。

(以前にも本稿で書いたと思うが、あまり評判はよくなかったが歴史の勉強として小生には役立ったアメリカ映画 遠すぎた橋 のなかで、ロバート・レッドフォード扮する分隊長が白昼、敵前での決死的な渡河を命じられるエピソードがある。無謀な命令に部下たちの間に動揺が起きる。ここでレッドフォードがこういうのだ。Hey, what the matter、guys ?   Don’t you have sense of humor ?     大体西部劇とかこういうスペクタクル物の会話はまずついていけないのだが、このカットのセリフは明瞭に聞き取れた。そしてその時、(へえ、ユーモア?)と違和感があった。しかし考えてみるとこのような生死を賭けたような場合ですら、ユーモア、ということが平然とでてくるのが英語の世界なのだろう。こんな生死をかけた場面でユーモアを要求する文化は日本には絶対に存在しない)

前回定義した英語レベルでいえば、今回寄せられた経験論にもあるように、ほとんどの場合、現在日本での標準と言って差し支えないと思うが、中学から大学まで、10年間の英語教育をこなしてさえいれば、実用的なレベルのコミュニケートはできる、というのが小生の経験値である。ただ、ビジネスレベル2、といった程度では上記したようなハイレベルのコミュニケーションを成立させるには不十分であることもわかる。相手が示す言外の意味がわかるかどうか、とか、対人関係の中で生じることとか、ちょっとした蹉跌が重大な誤解につながることもあり得るので、下村君が呈したようなシーンでは、やはりソーシャルレベル、の英語力が必要であると感じている。それではそのソーシャルレベル以上の英語力はどうやったら身につけられるのか。考えているうちに、一つのケーススタディがなんということか、ごく身近にあることに気がついた。自分の孫である。

彼が就学年齢に近づいたとき、息子夫婦は彼をインターナショナルスクールにいれる、という決断をした。正直言って我々夫婦はこれには抵抗があったのだが、いくつかのスクールで小学校から高校まで学んだ彼がつい先日、高校過程を卒業した。そして在日外国人の子弟が対象のPEARL(Programme in Economics for Alliances, Research and Leadership)の参加資格を得て、慶應義塾経済学部への入学が決まった。この PEARL の部分は当初から計画したわけではない、いわば完全なフロックで、当人も受験対策を始めようかという時期だったので、結果善ければすべてよし、に近い結末になった。彼の卒業式(アメリカ式にコメンスメントーcommencement )に出席してみて、改めて彼の英語力に感嘆した。測定方法があるわけではないが、これは見事に我々の定義するソーシャルレベルに達している(当然17歳という人生経験の範囲であるが)をこえていると確信した。結論から言えば、小学校レベルから本格的に教育すれば、外国生活を経ずにこのレベルに到達できる、という(彼には申し訳ない表現だが)実験が成功したわけだ。

ただ、もちろん、このことが、天下の愚策である政府主導の小学校英語教育なる暴論を肯定するものでは決してない。彼の場合、少なくとも學校校舎にいる時間は完全に英語オンリーの環境に置かれていたわけで、たとえ小学校の6年から大学での時間まで含めても、も日本の環境では絶対にカバーできない量、質、環境の英語を体得したからこその話だし、仮に小学校過程でいくばくかの基礎ができたところで上部構造の高学年での教育システムが変わらない限り、かつてこの議論について藤原正彦氏が喝破されたように、(多少は発音がいいくらい)の効果がせいぜいだろう(小生は同氏のご指摘の程度までの習得さえ絶対に不可能だと思っている)し、また、息子には聞いてもいないが、通常の家庭で子供にかけられる教育費とは相当の違いがあったはずだ。さらに幸運だったのは、家庭環境である。息子はアルバイトでためた自己資金で渡米し大げさに言えば徒手空拳、で英語を学び、米国の、いわば下層に近い環境での生活経験があり、現在は米国企業の日本組織にはたらき、嫁もまた米国生活の経験が豊富、というものだったからだ。

彼がこれから大学生活に入り社会人になっていく過程で、獲得したソシアルレベル級の英語力という有利性の一方、ほぼすべての時間を英語を学ぶことに費やした少年時代、という事実がどのように作用していくのか、想像することは難しい。もちろん、多感な少年期を外国人とのあいだで過ごしたことが多くのシーンでプラスに働くことは間違いない。しかしその同じ時期に一般家庭の少年たちが経験した、変な表現だがリアルの日本社会・日本人との交流・日本の子供たちが読んだであろう本や仲間内の交流、といったものを体験していないということがどうなのか、ある場合にはマイナスになることも十分あり得る、と思うのだ。

英語のレベル、ということで今までの議論を延長すれば、彼の場合にはいわゆるバイリンガルになり得る(もうなっているかもしれないが)立場にある。改めて確認しておくと、バイリンガル、の定義は、二国語が完全にでき、併せて、外国語の背後にある思考様式とか心理的反応などを自分のものとして身に着けた状況(いわゆる 英語で考える という反応)である。このことは多くの場合有利ととらえられると思う反面、小生にはバイリンガル人、という事にある種の不安というかむしろ反感を感じることがある。自分の経験からなぜかを述べる。

前にも書いたがhpという外資系会社に勤務している30年プラスの期間、米国本社が日本駐在という形で3年、5年という単位で担当者を派遣してくることがよくあったが、これには3つのケースがあった。すなわち、その人たちが

(1)日本語を全く解せないいわゆるガイジンである。              (2)日本語を英語同様解するいわゆる二世(本人の父母が日本人。したがって  戦後何年か経つわけで年齢的にあまり若い人はいなかった)。                     (3)日本で教育を受け、その後米国で教育を受けた人。

である。この人たちが日本人や日本的慣行やビジネス環境に対応したとき、周囲(つまり日本人従業員、あるときは顧客)はどう反応したか。

(1)見かけもガイジン、日本語はできない。これは明白、何とか通訳してもらうしかない。もちろん、俺っち日本人の心のひだまで分かってくれることはあり得ないな。あとは結果がどう出るか、待つしかあるめえ。

(2)日本語は多少ヘンだけど、時間が多少かかっても、お互いをまず理解できる。ただときどき感じるギャップは、二世、というひとは心は日本人ではありえないんだから、どっか違うんだが、ま、ガイジンよりはもちろんいいさ。

(3)話はもちろん通じるし、問題ない……..はずなんだが、なんか、深いところで信用できない。日本人なんだけどアメリカ人なんだ、この人は。ま、コトバで苦労しないだけガイジンさんよりやいいけど、なんか、信用できない気がする。

この3タイプを我々の基準で考えると (1)のひとの日本語はサバイバルレベル(おはよー、ありがと、げんきですか? レベル)、(2)は個人差はあったがビジネスレベル2プラスくらい,(3)が問題と考えるバイリンガルレベルである。この(3)レベルの人たちはビジネスの遂行、という意味では多くの場合、問題はなかった。しかし日本人が期待し不可欠と考える人間同士の付き合い、チームビルディング、後輩の育成、などとなるとかれらが物理的に日本人でありながら感覚的には米国人であるという事実が障害となって、うまくいかない、あるいは妙な組織分裂を引き起こしてしまう、という経験をした。本人は言葉が通じるから自分のいうことができるはずなのに部下や顧客がついてこない。思ったことができない。なぜだ?という疑心暗鬼に陥り、さらにアメリカの有名大学卒、というプライド、この機会を(hpクラスの会社であっても、やはり日本駐在というのは特別)出世のきっかけとしたい気持ち、などが重なり、悪い場合には (俺はよくやってるのに日本人の部下が協力しない)という最悪の結果をまねく。当初、小生はこれが該当する本人の技量そのものが原因だと思っていたが、今、振り返って考えると、かれらがなまじバイリンガルすなわちバイカルチュラルであったことが原因なのだと考えるようになった。接触する日本人のほうは、日本人のもつ繊細さや人間関係がわかって当然だと思うのに、それが通じない、ということだ。

いったい、人間が異なる二つの文化・慣習・思考過程を同時に自分のものとして持ちえるのだろうか? (英語で考える)という反応は通訳翻訳といった分野では絶対的に有利なことにちがいないが、今英語、次の瞬間に今度は日本語で考えて対応する、などという事は可能なのだろうか。小生の反応が非論理的というか感情過多であることはわかっているのだが、どうも自分には、バイリンガルすなわちバイカルチュラル、 という図式がしっくりこない。技術論としては全く正しいと思うのだが。あえていえば、”人間は二つの時代には生きられない(菊池寛だったか?)” という感覚である。

(小生の愛読書のひとつが大佛次郎の 帰郷 である。やむを得ない国家的な事情で日本を追放された主人公が、戦争(第二次大戦)が終結して日本へ戻ってくる。生き別れになってしまった家族との再会はできない彼の事情を理解し、おさないころしか知らない娘とのあいだを取り持ってくれた女性に好意を持ちながらなお、自分がエトランゼであることを改めて知り、再びひとりで欧州へもどっていく。この主人公守屋恭吾のイメージは、だいぶ違うジャンルだが松本清張の傑作のひとつ 球形の荒野 の野上顕一郎にかさなって、二つの文化の間に翻弄された人生の描写である。もちろんこれが小生の持つ感覚の説明になるというわけでは決してないのだが、これからいやおうなしに訪れるグローバリゼーションの世界での陰翳の様な気もするのだ)。

長くなってしまった。本論についてはもう一度、書き直す必要がありそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

2023年6月 月いち高尾報告  (47 関谷  51 齋藤)

2023年第3回目の「月いち高尾」を、6月28日、実施。 4月26日予定は、ピンポイントで当日だけが大雨の天気となってしまい、止む無く、中止。 雨男・女は誰だったのか?

5月は、KWV三田会の「春の日帰りワンデルング」があり、見送り。 久々の「月いち高尾」を企画したものの、梅雨の真っただ中での日程となり、果たして実施できるのかとの不安を抱きながら、毎日、高尾山方面の長期天気予報と睨めっこしながら、「何とかなりそうだ」と判断、意を決し上京、参加者に雨具必携を前提に、「決行」を連絡。

当日、曇り空で、下界は蒸していたが、雨具のお世話になることもなく、この時期としては、登山者が比較的少なかった初夏、緑豊かな高尾と景信山を満喫した。

(シニア―・コース) 36/遠藤、中司、高橋、吉牟田、鮫島、39/西澤、蔦谷、41/相川、47/伊川、平井、48/福良、47/関谷  <12名>

(景信山コース) 37/矢部、39/岡沢、堀川、40/武鑓、44/安田、吉田、46/村上、47/水町、48/佐藤、50/実方、丸満、家徳、51/斎藤、中里、羽田野、BWV/大場  <16名>

  • シニア―・コース

10:00 京王線「高尾山口」集合 10:15清滝発ケーブルカー 11;20 高尾山山頂 昼食

下り:

・関谷班: 4号路- ケーブルカーで清滝  久々の4号路はそれなりに整備されていたが、階段が増え、改悪との評価

・伊川班: 稲荷山コースから6号琵琶滝を経て清滝  稲荷山コースは木道の階段が整備され、多少興ざめなるも、自然保護致し方なしか

平均年齢80.7歳とは思えない元気なシニア―、足腰が多少覚束ない方も見受けられたが、口の方はお元気そのもの、体調不良、事故等のない楽しいワンデルングでした。

<文責: 関谷>

 

  • 景信山コース

10:00JR高尾駅前バス停集合10:12⇒(バス)⇒10:30小仏バス停10:35⇒(15分)⇒景信山登山口10:50⇒(50分)⇒11:40小下沢分岐11:50⇒(25分)⇒12:15景信山頂上12:45⇒(35分)⇒小仏峠13:20⇒(40分)⇒14:00小仏バス停14:10⇒(バス)⇒14:30高尾駅

・JRのダイヤ乱れでバスへの乗り遅れが危ぶまれましたが、定刻に16人全員が集合しました。(小仏行きのバス停が①番乗り場から②番乗り場に変更になっていました。)

・梅雨の最中でもあり午後からの発雷の予報もありましたが全く雨は降らず都心の暑さをよそに全行程を快調に踏破することができました。

・湿度が高く霞が立って展望が今一つでしたがズンロク植物学博士のご指導の下「ヤマアジサイ(山紫陽花)」「ウツボグサ(靭草)」「ヤマギボウシ(山擬宝珠)」等々花の季節を楽しむ山行になりました。

・梅雨時期のためか登山道、山頂周辺とも我々以外にはほとんど登山者は居なくて、山を独占したような至福の時間でした。

<文責: 斎藤>

 

  • テング飯店 懇親会

ケーブルカーで下山の6名が先行着、冷えた生で乾杯、清滝コース グループ下山の連絡を受け、ビールの準備。 景信山グループからの参加者14名も間もなく到着・合流。 会員増強活動の成果でそれなりの若手!の初参加もあって、従来にも増して、フレッシュな総勢25名の盛大な懇親会となり、今回もテング飯店は貸し切り状態となった。 当店の新商品として、清酒「高尾山」の4合ボトルが登場、今後の酒量激増が懸念される! 年次を越えた元気な高齢OBの楽しい集まりです!

(44 吉田)今回、粗忽モノゆえ、恥ずかしながら三月末に痛めた右足アキレス腱もようよう普通歩きが出来るようになっての、こわごわの試し山行でした。歩きながらの写真はガマンして足元に注意を注ぐようにしておりました。結果、なんとか、足手まといにならずに済みました。これも、思いやりに溢れたペース配分のおかげであります。感謝感謝であります。

「植物」に関してはこの時期ならではの花々との出会いを楽しめました。
植物同好の仲間となった“冬ちゃん”((シブイ)シダ類や(コワイ)キノコ類等々…“冬”場に会えないからこその関心対象ですか?
「サルノコシカケ」見事でしたネ。そして、ご下問ありし、丸い大きなキノコは
「オニフスベ」の仲間ではないかなと“妄想”。
“妄想”ついでに、手塚治虫の「ひょうたん次」を連想してしまいました。
今の世の中をご覧になったらこのキャラクターの登場機会も激増するのではないかなああ…と、さらに“妄想”。
ひょうたん次 https://ja.wikipedia.org/wiki/ ヒョウタンツギ

(大場)今日は大変お世話になりました。

蒸し暑い1日でしたが、お陰様でとても楽しい時間を過ごせました。
ありがとうございました。
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(50 丸満)

初参加でしたが楽しいひとときでした。これからも積極的に参加させていただきます。よろしくお願いいたします。
(編集子)今回、台風の到来にもかかわらずリーダーを勤めてくれた関谷君は早めに帰宅されたが、自宅付近も水が出て大変だったとのこと、お見舞い申し上げる。ご被害のすくなからんことを。