”麒麟は来なかったか” で思ったこと (44 安田耕太郎)

麒麟が歴史大河物語の題名にもなった「麒麟がくる」であるが、テレビ放映は観ていない。主人公の明智光秀についてはこれまでの大河ドラマでも観ていたし、書物も読み馴染みがあり、もはや興味があまり湧かなかったからである。4人の先輩方々の投稿記事を拝読して悔やんだが後の祭。光秀が治めた比叡山麓・琵琶湖岸の坂本(竜馬の祖先の出身地といわれる>>坂本性の由来)、丹波の福知山などでの評判はすこぶる良かったことが知られている。ドラマでは謀反の動機をどうのように描いたのか知らないが、信長(享年49)より10歳近く年上と伝えられ、老齢からして天下を獲るのが目的であったとは到底考えにくい。

日本歴史上の最大の謎の一つが本能寺の変であろうし、キリシタンとなり関ケ原前夜自決した細川ガラシャの父親としても光秀はよく知られた存在だ。 主演長谷川博巳の光秀演技に “絶賛の嵐” と新聞で読む。詳細は見ていないわけだが、泰平の世をもたらす、或いは泰平の世に現れる動物が麒麟だとすれば、光秀は信長が構想し、秀吉が築城し、家康が入城したといわれる戦国時代英傑3人の必然の歴史的筋道の最初のプロセスを壊し、行程を先に一歩進め二人目の秀吉にバトンを繋いだ歴史的役割を果たしたのは間違いない。その意味では麒麟に値する存在でもあったのだろう。

歴史には “if” はないが、信長が暗殺されず天下統一していれば日本のその後はどうなっていただろうか?衆目の一致する、300年近い世界でも稀有な戦争なしの徳川泰平の世と、高い識字率に裏付けられた爛熟した町人文化が産まれたかは分からない。はたまた、鎖国>>開国>>明治維新>>文明開花・富国強兵>>日清・日露戦争>>第二次世界大戦敗戦>>経済発展>>現在の低迷・沈滞の流れはどうなったのであろうか?

いずれにしても、光秀と同時代に生きた家康によって始まった江戸時代が、現在の日本と日本人の文化・価値観を形成するほどの影響を与えたのは間違いない。麒麟到来の端緒を開いた一人として光秀の役割も決して小さくはない。

余談だが、正月にNHK番組「ヒューマン・ヒストリー」を観た。女優鈴木京香と結婚が噂される、光秀を好演した長谷川博巳がゲストであった。長谷川家は先祖が1300年前に鳥取の大山の麓にある大山寺の開祖とも伝えられ、また有名な名湯島根県・玉造温泉の重要な役職を歴任し、温泉旅館の経営にも携わった由緒ある家であるとのこと。大山登頂後、大山寺は下山途中に立ち寄った古刹であるし、玉造温泉も素晴らしい湯を満喫した思い出もあり、やはり長谷川博巳の「麒麟がくる」を観るべきであったと後悔至極であった。

米国におけるワクチン接種の現状   (普通部OB 田村耕一郎)

(編集子)普通部時代の親友田村のところに送られた、彼の在米の友人からのワクチン接種の現状についてのリポートを転載させていただく。なお執筆者ご本人からあくまで参考情報として、と限定されているので、一部のご紹介のみににとどめる。ちょうど今(15日13時半)テレビ6チャネルで関係した情報を報道しているが、接種開始を直前にしてご参考資料としてお送りする。
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ニューヨーク市内では昨年の12月15日から、新型コロナウイルスワクチンの接種が開始となりました。使えるワクチンは、当初はまだファイザー製のものだけ。医療従事者から接種が始まりましたが、まず初めは、いわゆるER(救急初療室)で勤務をする医療者、続いてICU(集中治療室)で勤務をする医療者が接種対象でした。接種が開始してまだ1週間。早く接種を受けたいと、ワクチンの接種会場には接種を待つ医療者で長蛇の列ができていました。

受け付けを済ませた後、問診票が渡され、ワクチンの有効性と副反応についての説明を読みました。ワクチン接種自体はものの数秒で終わってしまいました。左の腕を露出して、消毒。消毒が済むと、とても細い針で筋肉注射が行われました。「筋肉注射」というと、深く針を刺されてしまう、怖いイメージがあるかもしれません。しかし、実は痛みが比較的少ないことが知られています。
私のワクチンを接種してくださったのは薬剤師さんでした。こちらアメリカでは、医師や看護師に加えて、薬剤師さんやトレーニングを受けた薬学生も注射ができるようになっています。医師は主に、監視役やアレルギーが起こったときの緊急対応の役割を担っていて、前線で活躍するのは薬剤師さんなのです。日本では、注射をするのは医師、看護師に限られるため、ここは日本とは異なるところでしょう。

接種が終わった後は、約15分の経過観察がありました。ここでアレルギー反応がないかの確認が行われます。今回のワクチンでは、0.001%程度の確率で重度のアレルギーが 報告されており、そのほとんどが接種後15分から30分以内に生じていることがわかっています。また、重度のアレルギーが仮に起こった場合、すぐに治療を始めれば大事に至らずに済むこともわかっています。そういった背景があり、15分から30分の経過観察が行われているのです。実際に、このような対策がとられることで、今のところアレルギーを起こして命を落としてしまったという方は報告されていません。

重いアレルギーが起こってしまうのは怖いと感じられるかもしれませんが、私たちが普段病院で用いている抗菌薬のペニシリンは約5000人に1人の割合、0.02%の割合でそのような重度のアレルギーが起こると されています。それと比べると割合は非常に低いことがわかります。私自身はというと、アレルギー反応などなく、経過観察は15分で終了となりました。

それから接種当日は、まったく無症状で経過をしました。本当に痛みも違和感も何も感じませんでした。なお、接種当日は、一般のワクチンと同様に、激しい運動や飲酒などは控えていただいたほうがいいと思いますが、それを除いては、普通の日常生活を送っていただいて構わないと思います。私自身、接種後は普通に仕事をしていました。

接種翌日の朝起きると…左の肩に肩こりのような違和感があることに気がつきました。これは、動かさなければわからないぐらいのものでしたが、2日ほど続きました。3週間後の2回目接種の際は、これよりも少し強いはっきりとした痛みが出ました。しかし、ともに2日ほどで終わり、3日目には消えていました。

これまで報告されている  研究の結果を見てみると、副反応は私のように注射部位に痛みが出る人が最多ですが、同僚のように発熱などの症状も報告されています。報告された副反応の種類と頻度は、だるさ・倦怠感(51~59%)、頭痛(39~52%)、筋肉痛(29~37%)、関節痛(19~22%)、発熱(11~16%)です。

また、基本的に2回目のほうが1回目よりも頻度が多く報告されています。このため、1回目で問題なかったという方でも2回目に副反応が出ないか慎重に観察していただくことが大切です。加えて、高齢者の方は若者に比べて、こうした副反応が少ないことがわかっています。しかしながら、高齢者で持病がある方の場合には、高い熱が1日出るだけでもご飯が取れなくなってしまったり持病が悪化したりすることもあるかもしれません。

すでに自分のワクチン接種からは50日以上が経過しました。50日が経過した今も、大きな副反応なく経過をしています。何より、このワクチンの一番の魅力は誰もが想像をしなかったほどの高い有効性です。その安心感は、もう一層の頑丈なマスクを与えてもらっているような、とても大きなものです。もちろん、まだマスクも、手洗いも続けなくてはいけませんが、それでもなお、ここまで1年間少なからず抱えてきた不安を大きく取り除いてくれるものでした。
また、このワクチンには、重症化を防ぎ、命を守る効果も期待され、有効性が少なくとも半年ほどは持続しそうだというところまでわかってきています。

日本でワクチンを待つ皆様、もちろん、さまざまな価値観を持つ人がいる中で、私は皆さんに接種をしろと言うようなつもりはありません。ただ、各報道などでリスクばかりが取り上げられやすく、どこか膨張してしまっていることには注意を払う必要があると思います。また、ワクチンを受けることには、自分自身を守るというほか、これまで日常生活の中で感染リスクを共有してきた自分の身の回りの大切な人、両親や上司、友人を守るという意義もあります。この1年、つねに消えない不安と誰もが戦い続けてきたと思います

ワクチンはその不安や苦しみを緩和できるよう、世界中の研究者が協力して作り上げてきた叡智の結晶です。感染リスクを共有して生活をする中、ワクチンの輪を広げ、皆で皆を助け合う。そんな気持ちでぜひワクチンの接種を前向きに考えていただければと思いますし、何より最後は誰もが納得できる形で決断をしていただければそれが一番だと思っています。

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筆者は米国内科専門医、慶應義塾大学医学部を卒業後、日本全国各地の病院の総合内科・診療科で勤務。2015年からは米国ニューヨークのマウントサイナイ大学関連病院の内科で勤務し、米国内科専門医を取得。現在はマウントサイナイ大学病院老年医学・緩和医療科に所属。国内では全国の総合内科医の教育団体JHospitalist Network世話人、米国内科学会日本支部の委員等として、国外ではカンボジアでAPSARA総合診療医学会の常務理事として活動を行っている。

富士山、燃える !

雲で富士山が燃えているように見えます。1月末に多摩川の土手から撮りました
(私のカメラは 普通のデジカメです)。
(編集子)ご本人の希望により匿名で掲載。

春の息吹をたずねて  (34 小泉幾多郎)

 コロナ禍で外出しない日が続いたので、久しぶりに外出、大倉山の梅がどの程度か散策。梅の種別により硬い蕾もあったが、平均7割程度か。梅は例年通り咲いているが、毎年20日前後の観梅会は中止とのこと。昨年は、高尾山麓の梅郷を歩いたのを思い出したが、高尾は昨年から梅まつりは中止だった。早く気兼ねなく花を愛でる日が来てほしい。

また小生、特に七福神「七難即滅、七福即生」の説を信ずるわけではないが、散策による健康増進を主眼に、毎年正月になると、どこかの七福神を巡るようになり、もう何年続けているだろう。名の知れた七福神は巡ったこともあり、最近は、川崎、鶴見、恵比寿天・大黒天・弁財天横浜(港北)、瀬谷と近場になり、今

年は寄る年波もあり、何処へ?と思案するうちコロナを理由に躊躇し機会を逸してしまった。1箇所七福神なるものを見付け、1箇所でお参りできる野毛七福神(成田山横浜別院)で、お茶を濁すことになった。

成田山横浜別院

 

 

 

エーガ愛好会 (49) 心の旅路 (41 相川正汎)

 

「心の旅路」は昨年6月頃に 既にこの会で推薦いただいていました。コールマン髯のコールマンと 魅力的なグリア・ガースンの共演、 古さを感じさせず、楽しめました。

戦争のケガによる記憶喪失という暗いイメージが 町にでるや恋にめぐまれ、 交通事故で再度記憶喪失しても、社長や国会議員を務めるという 明るい展開に、少しびっくりしました。ヒッチコック作品では謎解きの種がどこででてくるか目が離せませんが、こちらは安心して見られました。インフルエンザの場面がありますが、この頃はやったスペイン風邪。 戦場で感染拡大したため第一次大戦の終結を早めたともいわれています。 コロナ拡大の今どきとつながります。

コールマンが颯爽とトレンチコートを着ていました。バーバリー社が撥水のギャバジンのレインコートを開発し一次大戦では軍用として重宝した歴史も反映しています。 格好良かったが重かったですね。

原作のジェームス・ヒルトンは 「失われた地平線」 Lost Horizonの著作もあります。中国南西部とチベットの国境地帯に飛行機が不時着、そこがシャングリラShangri―Laという理想郷だったというお話。シャングリラは果たしてどこにあったのか。中国は雲南州の小村を2001年に「香格里拉」と改称し、観光開発しました。そこから車で1日走ると梅里雪山の麓に。商魂たくましいですね。

(44 安田)「心の旅路」のグリア・ガースンは素敵ですが、同じ年1942年制作の「ミニヴァー夫人」の彼女も魅力的です。アカデミー主演女優を獲得しました。コブキさんのお薦めで観て大満足。BSPで放映されれば良いのにと思います。

それにしても1942年といえばイギリス・ロンドンはドイツからV2ロケットの攻撃に晒されて、チャーチル以下防空壕に避難していた頃。よくもまあ〜立派な映画を創るものだと感心します。芸術は力なり!です。「カサブランカ」も1942年制作です。

(相川)シャングリラの話は一度書いたかと思いますが、一昨年秋に四川省に旅したときに そこにも雲南省とは別に同名の町がありびっくりしました。

6000m級の白い山が3つあり、かっては馬でしか行けない秘境といわれてましたが、道も整備され中国人観光客でにぎわっていました。中国は人数が多いので世界遺産とか観光地となると人が殺到してしまいます。この時はミニヤコンカも眺められました。

ところで私は1942年6月の生まれです。この時のミッドウェイ海戦から日本軍は劣勢となりました。 アメリカやイギリスは余裕があったのですね。

(編集子)満州から母と姉と3人で引き揚げてきて、半年遅れて父と兄が帰国、東京へ出てきたのが1946年。小生はまだ小学生、姉や兄が カサブランカ や 心の旅路 などと話題にしていたのをかすかに記憶している。”風と共に”が作られたのも同じころだったのではなかったか?

 

 

”麒麟は来なかったか” 拝読しました (33 小川義視)

「麒麟は来なかったか」興味深く拝読しました。
今回の大河ドラマは明智光秀という事で中部に在する小生にとっては関心深く、どのようなドラマの展開になっていくのか全編を見ました。特にエンディングの本能寺の変をどう締め括るのか興味深く、ジャイさんの感想と同様に今まで見てきた通俗的なシーンにならなくてある意味ホッとしております。ジャイさん曰く「麒麟を連れてくることができなかったという悔恨の情が信長の最後を遠巻きに見ていたシーンによく表れている」。同感です。あらためて最後のシーンを見直した次第ですが、三年後まだ存命していた噂があったという事は全く知らなかったです。光秀生誕の「明智の庄」は塾創立150年リレー踏破の第6ブロック中仙道の道中にあり、今は亡き妹尾リーダー率いる「アサ会」が歩いた第1・2班の道中近辺にあります。この東農地区では昔から光秀は名君として評判高く、世間で通説となっている悲劇的、ネガティブな人物とは捉えておりません。
また今回のこのドラマで「麒麟」が中国神話に由来し、キリンビールのラベルも此処から来たことを始めて知りました。
ところで麒麟が来たかどうかはジャイ・オジイさん同様の感想です。家康が築いた3世紀にわたる江戸時代はまさに麒麟を連れてきた安定した世の中だったと思います。大陸覇権を夢見た秀吉の失政から鎖国政策を貫き、この時代に育まれた江戸文化の数々は「麒麟」のお蔭だと思います。

 

時は移り現代は平和ボケといわれるほど落ち着いた75年となっておりますが、これも敗戦によって憲法が改正され戦争を放棄したお蔭に過ぎません。ジャイさんの最後「それが麒麟のせいだというかどうかは別だが・・・」。この僅か75年は麒麟のお蔭ではないと思います。しかしジャイさん・菅チューさんの云われる通り「我らの生涯は最良の年だった」ってことになるんじゃないかな。…」まさに同感です。しかしスペイン風邪から100年近く過ぎた今日の世界的なコロナ禍、何かを示唆しているような気がしてなりません。人類の横暴が招いた災禍というか、コロナ終息後「麒麟」は来るでしょうか?米中の覇権争いのなか我が国は何処に向かっていくのでしょうか?

“麒麟は来なかったか” 読んだよ  (普通部OB 菅原勲)

貴兄のブログ、「麒麟は来なかったか」を拝読。

小生、大河ドラマの熱心な視聴者ではありません。ですから、「麒麟がくる」も見ておりませんし、麒麟が何を意味するのかも知りません。大河ドラマを最後に見たのは、「花の生涯」です(ハッハッハ)。

最も気に入ったのは、最後の段落、「1945年の敗戦以後今日まで、・・・」です。全く異論はなく、諸手を挙げて賛成です。ですから、映画「我らの生涯の最良の年」をもじれば、「我らの生涯は最良の年だった」ってことになるんじゃないかな。でも、これからの日本はどうなって行くのかね。少なくとも、中共に飲み込まれる前に、この世からおさらばしたいな。

”麒麟は来なかったか” 読みました  (37 菅谷國雄)

9日のブログを拝見しました。「大河ドラマ」は今まで見たり見なかったりでしたが、「麒麟が来る」は従来の単なる軍記物ではなく、登場人物の心理描写など巧みで見応えがありました。

「江戸時代は最良の時代、麒麟が来ていたのではないか」のお考えに賛成です。3世紀に及ぶ安定した平和の時代は、「パクス・トクガワ―ナ」と言われるほど戦乱の時代に終止符を打ち、物質的・精神的な豊かさをもたらしてくれました。日本の文化の素晴らしさ、繊細な美への眼差し、自制のある生活習慣など、江戸の遺伝子は、今なお我々の心底に流れる「日本らしさ」であります。

実は小生、地元の三田会から「蕎麦今昔・江戸の食文化」と言うテーマで講演を依頼され安請け合いしてしまい、慌てて積んでおいた本を読み直しています。最近は、若手歴史学者の磯田道史氏などが持て囃されていますが慶應義塾大学名誉教授で文化勲章を受章された、速水融氏の「歴史の中の江戸時代」徳川宗家18代当主で日本郵船副社長を歴任された、徳川恒孝氏の「江戸の遺伝子」この2冊はお薦めで、江戸時代の豊かさと奥行きを改めて教えて貰いました。

又偶然ながら速水融先生は、私の畏友で早世した川島亮三君のゼミの先生で彼がKWVを辞める時に「ゼミに集中して大学に残るため」と言ったことを60数年ぶりに思い出しながら、感慨一入でした。

麒麟は来なかったか

大河ドラマ 麒麟が来る 放映終了。始まった時から、どういうエンディングになるのかがずうっと気になっていた。予想外のラストは良く決まっていた。なんというか、筋立てとか技術論よりも、この番組で作られた光秀像にぴったりな感じだったと思う。

僕は吉川英治の太閤記を小学校6年の時に読んだ。父も兄も大の読書家だったが、戦後まもなくでかなりの数、中古の本が多く、日本史に関連する本を拾い読みしても、旧かな使いで、天皇尊重第一のものがほとんどで、そういう風潮の中でどちらかとえいばネガティブな光秀像が僕の中に定着していた。

中学高校と読書の中身に横文字文学ものが多くなったのはやはり当時の若者文化がそうだったからだろうが、社会に出て司馬遼太郎を知り、テレビの新撰組血風碌にはまり、彼の中期くらいまでの本はあらかた読んだ。高校で日本史を真面目に聞いていなかったため、小生の近世日本の歴史に関する知識というか理解はまずすべてが司馬の小説によっている(歴史学者は司馬の歴史観、というものをよく思わないそうだが、彼はあくまで小説家にすぎない、ということはよく承知しているつもりだが)。

司馬の描いている光秀像は今回のように理想の実現を人生のテーマにした人物ではない。むしろ権力のはざまで抜き差しならぬ状況に追い込まれた悲劇的人物、という書かれ方をしている。現実だどうだったか、もちろん知る由もないが、麒麟を連れてくることができなかったという悔恨の情が信長の最後を遠巻きに見ていたシーンによく表れている。このシーン前後の長谷川博己の表情の描写は僕の心に突き刺さった想いで見た。

秀吉が朝鮮征伐なぞという愚挙を起こさなければ、そして最晩年の狼狽がなければ(これが例えば家康などに比べたときのインテリジェンスというか秀吉の人生観の限界をしめしているのだと思うのだが)麒麟になり得たかもしれない。”戦がなく、人々が安心して暮らせる世の中“ は、結局、3世紀続いた徳川時代であったのだろうか。悪しき封建主義だとか身分制度だとか、男尊女卑だとか、はたまた時代劇に必ず登場する悪代官だとか、ネガティブな話はいろいろあるが、世界に誇る江戸文化や京の静寂や人々の間に定着して明治への見事な転換をささえた倫理観とか、そういう現代への遺産を当時戦乱と後進国の収奪に明け暮れていた西欧の歴史と比べてみて、”日本に 麒麟は来ていたのではないか とおもったことだった。

1945年の敗戦以来今日まで、そのプロセスにありとあらゆる議論があるのを承知でなおいえは、この75年間のあいだ、戦争で死んだ日本の若者はひとりもいない。何が何と言おうとこれは事実である。チャーチルやメルケルみたいに国民に訴えた政治家がいなかったとか、拝米主義だとか、偶然だとか、いろんな議論は当然あるだろう。しかし僕は確信しているのだが、数世紀あとの歴史家はこの時代を日本史上最良の時間だった、と解釈すると思う。それが麒麟のせいだというかどうかは別だが。

エーガ愛好会(48) 昼下がりの決闘ー老いた英雄のプライド (34 小泉幾多郎)

サム・ペキンパー監督の「荒野のガンマン1961」に次ぐ2作目。1作目で、西部劇のヒーローたる拳銃での戦いを拒否してきた西部劇不信の男を主人公としたペキンパーは、2作目では、ジョエル・マクリーとランドルフ・スコットという典型的な西部劇ヒーローを演じてきた二人にかっての名保安官であり、名助手を演じさせる。小生若いころから親しみ、今回男優ベストテンにも入れた二人は、残念ながら拳銃或いはライフルによる積極的挑戦姿勢は剥ぎ取られ、役の上でも老いた西部人であり、更に老いた西部劇映画人だった。それでもこの二人が男と男の義理人情、心意気、西部男のプライドといったものを描いてみせてくれた。

マクリーは25万ドルの金を鉱山から運ぶ仕事を銀行から請け負いやって来たのだが、契約書を読むのにトイレに隠れ老眼鏡をかける始末だし、スコットの方は、射的場でのインチキ射的で賭けをして食いつないで暮らしており、馬に乗り降りするにもリュウマチや腰痛でままならぬ風情。

この二人に、スコットの知人の若者ドナルド・スターと鉱山にいるフィアンセと結婚するという娘マリエット・ハートレーの4人で目的地の鉱山へ向かう。鉱山でのフィアンセの兄弟5人の若者の醜悪さ。売春宿でのインチキ結婚式やら、寝室になだれ込む兄弟たちは悪党というよりは非行少年に過ぎない。おまけに一時は、スコットも若者スターも25万ドルの略奪をたくらむ気持ちでいたのだ。

男3人が娘ハートレーを救い、娘の家へ近づくと5人兄弟のうち2人は途中の銃
撃戦で死亡、3人が娘の父親を殺し家の中で待っていた。射ち合いが始まり、マクリーとスターが傷つくが、スコットも駆け付け、マクリーとスコット両者は昔のやり方でカタを付けようと直立不動の姿勢、二人対三人向かい合って歩を進め、弾丸を食らいながらも見事に3人の兄弟を倒す。

瀕死のマクリーの頼みを聞き金塊の護送を引き受けたスコットは若い二人と共に去り、地に伏すマクリーの俯瞰で終る。二人は老醜をさらけ出しても、理想のヒーローたることを実証した。それに反し、若者たちの自己の欲望にのみに走る無目的な若さ、老いたジョン・ウエインなら若者に開拓者の理想を伝授して消えて行く筈だが、この二人の老いたるヒーローはその心意気を誰に伝えるまでもなく振舞っていた。ただ若干の救いは、最後の決闘シーン、老人二人の決闘の呼びかけに対し、若者3人も2対3の決闘に応じた。これがなければ、無謀な動きで撃たれ傷を負い、決闘に参加できなかったスターも含めこれからの若者に、何の期待も持てないことになってしまうだけに、ホッとしたのも事実だった。