菅原さんの遠藤誉女史の自伝、「卡子(チャーズ)」( 1984年、読売新聞社)を読んだ。極めて激しい衝撃を受けた。そこで この本を再読してみて、当時の状況から現在の日中関係に至る経過をまとめてみた。ご参考になれば幸甚である。
日本と中国との全面戦争は1937年から1945年まで9年 間も続き、終戦時(1945年9月)海外の日本の旧植民地及び占領地には 662万人の日本人が残されていた。
ポツダム宣言により、 一人残らず日本本土に引き揚げねばならなくなり、中国本土に162万人、満州に111万人、 ソ連に162万人の日本人がいた。
中国本土では日本軍との組織的戦闘が終わって二ヶ月後もしない1 945年10月11日から第二次国共内戦が勃発した。ソ連の後ろ盾を得た「中共」-中国共産党勢力- とアメリカの後ろ盾を得た「国府」-蒋介石の中華民国- が争った。そんな中菅原さんが書かれた遠藤誉女史の自伝、「 卡子(チャーズ)」の事件が1948年に起きた。日本に引き揚げずに満州の新京(現:長春)に残り、 チャーズに収容された人たちの虐殺である。それより前の1946年2月3日に「通化事件」が起きている。 満州国時代の通化省通化市- 現在の中華人民共和国吉林省通化市で日本人3000人が八路軍と 新八路軍によって虐殺された、真相は未だ分からない。
戦後の外地からの引き揚げは命がけであった。ドイツもドイツ本土へ千数百万人もののき揚げがあったが、途中で死亡したドイツ人は210万人。1946年末までに日本に引き揚げた日本人は約500万人でドイツに競べれば生還率は高かったが、 戦後一年以上経っても100万人以上の日本人が残留していた。
1950年6月25日朝鮮戦争が勃発して、状況は更に悪化した。
1949年10月1日 毛沢東は天安門の上で中華人民共和国の建国を宣言した。 正式な国家として承認した國はソ連など少数にとどまった。
アメリカを始めとして世界の多くの國は台湾に逃げ込んだ蒋介石の「 中華民国を正式な「中国」と見なした。外交の立役者は毛沢東、周恩来、寥承志-りょうしょうし- の三人。皆、抗日と反日。しかし、親日では無いが「知日」 ではあった。
中華人民共和国としては国際社会にデビューする突破口は当時、 日本だけだったが、その日本には連合国最高司令官総司令部( GHQ)はドイツ同様に日本を軍政を敷き、英語を公用語として占領軍の軍票を通貨として進める布告を9月3 日にする予定であった。同じ占領でも、 占領軍による軍政と現地政府を通じての間接統治では占領国の負担 は雲泥の差であった。時の外務大臣岡崎勝男が占領軍のマーシャル参謀次長と直談判して 、「布告」の差し止めを理を尽くして説得した結果、 間接統治により「従属」を強いられたが、直接統治による「隷属」 は免れた。
そんな環境下で「引き揚げ」をしなければならない、八方塞がりの状態のなかで、中立的な「赤十字社」を突破口とするチャンネルが切り開かれた。1950年に新中国は赤十字本社に「中国紅十字会」 として国際的に承認された。 日本は幕末の1867年パリ万博の折りに「赤十字社」 の事を知り、1887年「日本赤十字社」 として国際的に承認されている(ドイツの「赤十字社」はナチの組織と見なされ解体された)。しかし国交の無い新中国との「引き揚げ」 問題は暗礁に乗り上げ進まない。新中国も何を決めるのもソ連の思惑があって、「 中国共産党はソ連共産党中国支部」のような存在でも在り、 国内も安定していない状態が続いた。
当時中国には徳田球一・野坂参三・伊藤律の亡命共産党の「 北京機関」が存在していて、北京から日本の共産党を指導していた。 新中国は日本赤十字社の他に共産系の二団体をこの交渉相手に指定 してきている。そういった中で1953年3月中旬舞鶴から興安丸・高砂丸・ 白山丸・ 白龍丸の四隻が国交の無い新中国に第一次引き揚げ船として出港し た。しかし、 順調に進んでいた引き揚げ船も三月までの第三次線までスムースで あったが、日本にいる中国人の帰国問題である(台湾の中華人民共和国はこの帰国に猛反対)。
それらの解決のため新中国は李徳全紅十字会会長を団長とする10 名が「国府系」と「親中派」との対立の激しさの中での来日。李徳全は冷え切った日中関係に風穴を開けて、帰国し、 周恩来は期待以上の成果を喜びその後、 ソフトチャンネル外交工作を続けた。これがきっかけで1962年に日本は寥承志と高碕達之助とで「日中総合貿易覚書」 を締結。いわゆる「LT貿易」の開始である。
日本と中国は古くは遣唐使とか「漢字」 とか日本の文化の源を学び、戦後は日本が経済発展の「先生」 となり、数々の投資と支援をしてきた。歴史在る隣国であり、 その関係は深い。先人達が今では考えられないような環境下で繰り広げられた日中友 好は今後も続けていく必要が両国にとって重要と思う。
そういった過去の歴史を認識して世界平和の為に日本独自の行動す べきだとこの本は示してくれている。
(編集子)小生は満州国の首都新京(長春)から1946年6月、母と姉との3人で引き揚げた。父は当時勤務先(鐘紡)で現地の責任者であり、兄は旅順高校に在学していたが新京へ引き返した父と合流、約1年後に帰国した。本稿によって今まで漠然としか知らなかった事情がよく分かった。高校時代から衰えぬ船津の博識に改めて敬意。