 菅原さんの遠藤誉女史の自伝、「卡子(チャーズ)」(
菅原さんの遠藤誉女史の自伝、「卡子(チャーズ)」(日本と中国との全面戦争は1937年から1945年まで9年
ポツダム宣言により、
中国本土では日本軍との組織的戦闘が終わって二ヶ月後もしない1
戦後の外地からの引き揚げは命がけであった。ドイツもドイツ本土へ千数百万人もののき揚げがあったが、途中で死亡したドイツ人は210万人。1946年末までに日本に引き揚げた日本人は約500万人でドイツに競べれば生還率は高かったが、
1950年6月25日朝鮮戦争が勃発して、状況は更に悪化した。
1949年10月1日 毛沢東は天安門の上で中華人民共和国の建国を宣言した。
 アメリカを始めとして世界の多くの國は台湾に逃げ込んだ蒋介石の「
アメリカを始めとして世界の多くの國は台湾に逃げ込んだ蒋介石の「中華人民共和国としては国際社会にデビューする突破口は当時、
そんな環境下で「引き揚げ」をしなければならない、八方塞がりの状態のなかで、中立的な「赤十字社」を突破口とするチャンネルが切り開かれた。1950年に新中国は赤十字本社に「中国紅十字会」
当時中国には徳田球一・野坂参三・伊藤律の亡命共産党の「
それらの解決のため新中国は李徳全紅十字会会長を団長とする10
日本と中国は古くは遣唐使とか「漢字」
そういった過去の歴史を認識して世界平和の為に日本独自の行動す
(編集子)小生は満州国の首都新京(長春)から1946年6月、母と姉との3人で引き揚げた。父は当時勤務先(鐘紡)で現地の責任者であり、兄は旅順高校に在学していたが新京へ引き返した父と合流、約1年後に帰国した。本稿によって今まで漠然としか知らなかった事情がよく分かった。高校時代から衰えぬ船津の博識に改めて敬意。
