(承前) ”トラトラトラ” の通信事情  (44 浅野三郎)

真珠湾の奇襲は現地時間1941年12月7日午前7時55分(日本時間同8日午前2時55分)で使用周波数は7635KHz(昔はkc・サイクルと表しましたが、現在はkHz・ヘルツと表記します)だそうです。そして搭載送信機は96式空3号無線電信機(写真参照)で出力150ワットとのこと。日の出を過ぎての現地時間8時近くでこの周波数帯の搭乗機からの信号が直接瀬戸内海の戦艦長門で受信できたか少々疑問です。ただし、高度にもよるのでしょうが飛行中の飛行機(エアーモービル)からの信号は思いがけず遠距離まで届きます。

これからは私見ですが、奇襲前に淵田中佐の搭乗機から松崎大尉が発信したのは
「全員攻撃せよ」を意味するト(・・ー・・)の連打だけ,攻撃終了後「奇襲成功」の意味のトラ(・・ー・・ ・・・)の連打だったのでは。

そして、旗艦赤城からの電文(写真)が呉の戦艦長門で受信されたのではと思われますが?(周波数等不明)なぜトラだったのかは山本五十六司令長官の生まれ年が寅(来年と同じ)との説もありますが、奇襲成功が「トラ」、失敗は「トサ」(・・ー・・ ー・ー・ー)、そして中止は「トム」(・・ー・・ ー)だったという話も伝わっています。

 

(編集子)ハムの世界での大先輩の解説を及ばずながら補足させていただく。 同じラジオでも短波と呼ばれる周波数になると電波は地球表面と上空にできる(季節や時間によって変わる)電離層と呼ばれる、いわば電波を跳ね返す鏡みたいなものの間で反射を繰り返すことでと遠距離まで到達する。インタネットの現代と違って、海底電線のない地点の間の通信は短波のラジオによることしかなかった当時、この短波帯の中でも始末のしやすかった7メガヘルツを使用する通信機が使われていたのは理解できる(周波数が高くなると部分品をはじめとして通信機の製作は難しくなる。当時の日本の技術や製造レベルから考えて戦闘機に搭載できるような通信機の大量生産はまだできなかっただろう)。現在、アマチュア無線の世界でもこの7メガヘルツ近辺の周波数は主要な戦場として使われているが出力150ワット、というのはそのアマチュア無線家の間では中級程度の技量を持っていないと使用できない(最上級のライセンスで使用される実質上の最高出力は1キロワットで、地方の放送局と同じくらい)。また電波を発射あるいは受信するためのアンテナにしても、航空機に搭載されるものは非常に能率の低いものに制限せざるを得ない(ハムの常識からいうと7メガヘルツを効率よく扱えるアンテナは原理上20メータの長さが必要)。こういうことから判断すると、浅野君が淵田機から直接ではなく、旗艦赤城かの転送だったのではないか、と疑っている気持ちもわかるが、ハワイから広島まで、この時間帯の電離層の具合から言って(7メガヘルツくらいだと、夜間のほうが電波は遠距離まで届く)この通信ができたのは(ハムの判断では)非常に幸運だったのでは、ということである。

(船津)門外漢ですから分かりませんが、二イタカヤマノボレは長波で送信されたとか聞いていますが。潜水艦から?