冒険小説、とはいったい何だろうか。小学生のころ、漫画でもなく文字でもなく、いってみれば絵物語が子供向けの本の中心にあった。山川惣治(少年王者、少年ケニヤ)とか、驚異的に詳細なペン画で僕らの心を鷲掴みにした小松崎茂(地球SOS, 空魔エックス団)などを覚えている人はたくさんいるだろう。また定期的に刊行されていた冒険活劇文庫、略してボーカツ、というのもあって、連載されていた 怒涛万里を行くところ、なんてペン画シリーズも僕のごひいきだったし、戦前からの老舗、少年倶楽部 (まだ漢字だった)には池田宣政別名南洋一郎の 吠える密林 だとかルパンものの子供むけ翻訳が連載されていた。
このころの冒険小説、とは子供心のあこがれであり、好奇心を満たすための教材でもあったが、親たちはいつの日か、自分の子供が“そんなもの”から脱皮して、より本格的な文学を読んだり、広く言えばもっと勉強してもらいたい、という気持ちで、いわば少年期のはしかみたいにとらえていたような気がする。その冒険小説、なるものをいいオトナが愛読するには、ある種のてらいもあり、なにか読むためのお墨付きというか裏付けがいるのかもしれない。
文学者と言われる専門家の中には純文学(この定義がまた難しい)を離れて、”冒険小説“と。いうジャンルを研究している人がいて、僕も数冊、斜め読みをしたが、その定義の中で一番納得したのは、主人公がなにか自分を超えるもの、大自然か、国家的策謀か、あるいは世の中の大勢にたいする疑問とか、そういうテーマに挑み、その過程を通じて人間的に成長する、そのプロセスを書いたものだ、という一文が一番腑に落ちている。後で書いてみたいが、ミステリ文学の流れにあるハードボイルドの定義には、 ”卑しき街をいく正義“ がテーマだという一節がある。冒険小説には、このような、あるいはよくしらないが純文学作品が伝えようとしている主題、そういうものはなくてもかまわない。なんにせよ、戦う人間がいて、そのプロセスがテーマになり、それに共感することができるパスタイム、とでも定義するのがいいかもしれない。つけくわえれば、この 共感 というのも重要なファクタで、世にいうエンターテインメント文学、お笑い芸人、などは時間を消費する、という意味ではパスタイムかもしれないが、その中身に共感を覚える、などということはないだろう。
前置きが長くなった。今まで、主にサラリーマン卒業後に始めた冒険小説乱読の過程から小生なりのおすすめをご参考までにいくつか書いてみる。今ではこれらが新刊で出てくる確率は低いかもしれないが、ブックオフあたりでよく見かけるし、アマゾンならばほとんどのものが入手できると思うものだ。 上記した定義に当てはまり、しかも強烈な読後感から言えば、一押しは英国の作家、アリステア・マクリーン 女王陛下のユリシーズ号 だ。第二次大戦下に実際に起きていたことが背景であり、主人公(たち)が創作である以外、現実にどこかで起きたに違いない現実の描写である。一人でも多くの共感者がいてほしい!とおもわせる傑作だ、と言っておこう。マクリーンはこの一作で一デビューし ナヴァロンの要塞 (グレゴリー・ペック)とか 荒鷲の要塞 (クリント・イーストウッド)など映画でもヒットを飛ばした。マクリーンとならんでデズモンド・バグリー、ハモンド・イネス、針の眼 で有名になったケン・フォレット、そして 深夜プラスワン のギャヴィン・ライアルと続き、小生が最近まで入れ込んできたジャック・ヒギンズと、正統的な冒険小説の作家はすべてと言っていいくらい英国人である。われわれは多くの場で英米人、などといってともすれば同一視することが多いが、国民性においてその違いがこのあたりに非常にはっきりとあらわれるようだ。専門家によると、同じ題材でも英国人が書くと冒険小説になり、米国人が書くとハードボイルドスタイルの小説になってしまうのだという。彼らの後継者たるジャック・ヒギンズは 鷲は舞い降りた で英国人の仇敵ドイツ軍にも人格を認めたと評価された。非常な多作家で、小生もいままで30冊近く読んできた。多作家の例にもれず、駄作も多いが、ストーリーの面白さと結末の意外性、という点では 脱出航路、狐たちの夜 に感心したし、作品全体に流れる一種の虚無感みたいなものにしびれた 廃墟の東 が特に好きだ。
米国人作家はともかく、日本人の作品でいえば、伴野朗と佐々木譲のものを読んできたが、いわゆる時代劇ものはほとんど知らないので、片手落ちになるかもしれない。冒険小説とは関係ないが司馬遼太郎の作品は結構読み、僕の日本史の知識はほとんど司馬の作品からもらってきた。その司馬史観、とさえいわれる作品を冒険小説として取り上げるのはおかしい、といわれるのを承知で書くと、燃えよ剣 で書かれた土方歳三という人物の生き方はある意味、前記した冒険小説の定義そのもののように思えるのだがいかがなものだろうか。