熊野古道に行こうなんて誰が言ったんだ、

多分世界遺産に登録され
たの受けて、そのとき飲んでいたやつが、思わず口走った、和歌山県出身の田端が思わず受けてたった、事の始まりとは大体こんなもんです、実はその時は大した意味がなかった。ところが世の中色々です、暇になったおじさんが本気で考え始めた、で、行こうかなんて勢いがついた時に、台風直撃、どこがどうだかよく分からないけど、どうやら今はやめたは方がいいらしいと、それから苦節なのか様子見なのか、時は経って平成も29年、もうすぐ元号も変わるかもというとき、また動き出しました、この辺がワンダー47会の物凄さ、 と言うかみなさん時間にすっかり余裕ができたのか、今のOB会の現状を見れば一目瞭然。
しょうもない前置きはさておき、行って来ました、熊野古道、田端がリーダーでボン伊川、キャプテン小野田、スーさん鈴木が下調べ、調査行、その結果、熊野大社を中心とした、言わば観光コースと、そうは言っても老いてもワンダー、十津川村から果無峠を越えて熊野に至るいにしえ古道を歩くプランと二つのプランが提案されました。

んーん、と悩んだところ、いまだ九州は小倉の地で新興航空会社ス
ターフライヤーでフルタイムで毎日大回転の僕にとっては、月曜から土曜日まで休めよかと、でも行くなら十津川村からだよな、そうあの変な村に一度入って見たい、壬申の乱で天武天皇方について租税を免除されて以来、どう言うわけか尊王の思想高く、南北朝の時代護良親王を護り、幕末においても薩長土佐に並んで御所警護の任にあたり、なんで奈良県の山奥の田舎がと、僕の好奇心はこのルートに張り付いた、一週間休んじまえ、十津川の不思議と熊野に宿る日本の神様仏様の不思議に少しでも迫ることが出来ればと、近鉄大阪から大和八木まで、そこから日本一長いバス路線で十津川村に、バスの中での昼飯、僕は伊丹空港で購入した551の豚まん、ギッコがおくれと言うから、柿の葉寿司と物々交換、谷瀨の吊り橋で絶叫して、4時間以上かけて着きました十津川村、温泉でまったりしながら、そう言えば、近江屋で龍馬を襲った刺客は十津川郷士を名乗っていたなぁ、誰なんだ、僕は一般の見解とは異なるけど、龍馬暗殺の黒幕は薩摩、武力革命で政権を奪取すべきと唱える西郷、それに秘かに御陵衛士として新撰組と袂を分かった伊藤甲子太郎が仲を取り持ったと、斎藤一は近藤に言われ高台寺党に参画していた、龍馬は剣客、勝海舟のボディーガードをやっていた時期も、其の龍馬をほぼ一撃に近い形で切れる、斎藤一は居合の達人、しかも左利き、当時侍は通常人に会うときは刀を右手に持ち刀は抜きませんよが礼儀とされていた、これでおそらく龍馬も油断したのでは、左利きの居合の達人ならではが僕の推理の原点、近江屋事件の三日後に伊藤は油小路で新撰組に暗殺された、口封じか、斎藤一も近江屋事件の後しばらく姿をくらましている、好奇心が乱舞する、温泉上がって十津川村のつまみで日本酒を飲めば夜は虚ろに過ぎていく、とんと話が飛んでしまった。翌朝5時に起きました、7時出発、高野山からの小辺路ルート、
京から熊野へのメインルートは淀川下って、泉南のどこからか陸上ルート中辺路になんだろうけど、何で1000メートルの果無峠を越えるルートが賑わったのだろうか、これも十津川村の存在?スタートから頭は混乱する、果無部落の中に木をくり抜いた水場、赤い花が一輪、厳しい峠越えをを目指す巡礼者にひと時の安らぎが、誰が設えたか粋なもんだね、峠越えのバス道と交差を繰り返す山道を高低差1000メートル登り切りました、道すがらの西国番所を示す石造り地蔵観音、多分これは世界遺産登録後か、それにしても有名なルートの割りに誰も会わない、熊野へ降り始めてからようやく、「コンニチハー」、逞しいオーストラリアから来たと言う女の子二人ずれ、そう言えば二日目の湯ノ峰温泉で出会った白人の若い男の子二人連れ、試しにフランス語で話しかけたら、ベルギーからだと、驚くことに日本は初めてだとか、日本人だってめったに来れないこの和歌山の奥地に、なんでべルーギーからニッポン始めての人が来るんかい。
そう言えばスペインにもあった、サンチアゴコンポステーラ、キリ
スト教の三代聖地の一つスペイン北部のサンチアゴを目指す巡礼道、こんなのはヨーロッパではピュラーなのか、それに刺激されての熊野古道巡礼なのか、また話が飛んでしまいました、失礼しました。
僕が熊野古道を目指したもう一つの理由、日本人の神様仏様とはいったい何んなんだろうかと、神仏習合とと言う素朴な疑問、神仏習合の原点とも言える熊野に来れば、ひょっとして何か見えるかもと、神様の原点は自然神信仰だから、基本的には人間の力が及ばない大自然、大きな山とか川とか、滝と岩とか大木とか、自然の偉大さに恐れおののいて拝んだことだろうか、それから先祖さまを敬う祖先信仰、最後に稲作の流入と大きく関係する収穫への祈りからくる信仰と、一般的にはこんなことらしいけど、熊野の信仰対象は熊野川、那智の滝、ごとびき岩と大自然そのものだった、それがいつの間にか神様と合体することに、熊野川を臨む本宮ががスサノヲ、那智の滝がイザナミ、神倉山のごとびき岩がイザナギと祖先信仰の神様として体系化されていった、まさに大和朝廷の意向そのもののように感じる、日本の歴史書は日本書紀、古事記にはじまるが、これはやっぱり征服者の歴史なのだろう、スサノヲは天照の弟と位置付けられている、伊勢神宮に祀られる天照は皇室の祖先の神様だったよな、3年前に47会有志で山陰の旅をした時、出雲大社に寄った、たしか大国主命はスサノヲの子だったかな、スサノヲは天照の弟のはずだったから、でもおかしいよね、出雲神話のほうがはるかに古いはずなんだけど、だから古事記は大和朝廷の制服者の歴史書なんだよね、またつべこべ言いましたが、熊野の自然神に大和朝廷の祖先神を合体した、どうだろうか統治政策の一環だったのだろうか、本宮前のビジターセンターで案内ビデオを見ながら、想像がどんどん膨らんでいく、今宵の泊りは湯の峰温泉「クラヤ」さん、昔から熊野詣の参拝者でにぎわった、由緒ある温泉とか、温泉街の真ん中に小川が流れていて、なかなかの風情、翌日は白浜空港から来た本体と合流、ホリサン紹介のガイドさんの楽しい案内で、本宮を中心に中辺路を散策、お泊りはこれまたホリサン紹介の川湯温泉の民宿「立石」さんだとか、ホリサンの紹介だからきっとうまいもの食える、河原湯も楽しめそうだ、

翌朝これまた豪勢な朝めし食って、出発の準備をしていたら、キャプテン小野田が、弱弱しい姿で、昨晩宿の前で転んで、胸を強打したとか、ろっ骨が折れてるかもしれないから一足先に帰るだと、何甘ったれているんだいと、思いっきりバカにしてやったら、それじゃやっぱり行きますだと、ちょっとみんなにやさしく同情してもらいたかったんだろと、おまけに冷かして、今日は神倉山でごとびき岩に抱かれて、熊野古道の名所大門坂から那智大社、那智の滝と盛りだくさん、昼飯はめはり寿司の弁当とか、楽しみだね、と駆け足で、熊野の名所を一巡、熊野の大河を見ながら一路紀伊勝浦まで、古き仲間と、しゃべり食べ、飲み、また語り、そして僕はいくつもの疑問が興味へとしてまた大きな疑問へと、神様はどこから仏様と一緒になったのかな、仏教伝来は神代よりもはるかに後のこと、仏教でいう辺土思想、仏の教えが届かない僻地に、仏が地の神に姿を変えて仏の教えを説いて回ったとか、本地垂迹説だ、熊野詣での最盛期は仏教でいう末法の世にならん時平安中期、世が乱れ人々は列をなして熊野詣に、そこで神様仏様ということか、納得できたようなできないような、人の世の不思議、分からないことだらけ、そう思って旅に出ると思わぬ収穫があるもんだ、一人でもよし、良き相棒がいるとさらによし、古き仲間とこれまたよし、旅は僕の必須アミノ酸みたいなもの、思い切って一週間会社を休んで、あまりあるリフレッシュのできた旅でした。