日本の英語教育について (6)

馴染みのバー、聖蹟桜ヶ丘は アンノウン で、KWV仲間との気軽な会話から始まった議論が結構盛り上がって、いろいろな方の、違った視点からのご意見を伺うことが出来ありがたく感謝いたしたい。全くの偶然から英語が必要となる場に放り込まれ、それなりに英語に親しみ、英語社会に滞在する機会を得た経験から、自分の考えをここらあたりで書いておこうと思う。

僕のこの問題に関する基本的な姿勢は、日本の(というか日本人の) ”英語” (中国語以外のほかの言語でも同じようなことになると思うのだが)に対する態度というか向き合い方が基本的なところで間違っているのではないか、ということにある。江戸三百年の平和が破られ、欧州文化というものがこの国の機能の変革を迫り、間違えば我が国の植民地化の危機があると悟った時、欧米文化の取り込みには外国語の習得が絶対的に必要だった。江戸時代に培われた当時の知性ある指導者の、迅速かつ真摯な対応によって、きわめて短い期間に文化ギャップを埋めることに成功した。このあたりのことは今更言うまでもない。

その過程で、外国語(当時はまだ英語が世界語にはなっていなかったが)を学ぶ、という事は則、新しい文物を取り入れるために、絶対的に必要なことだった。これはほかの発展途上国においても全く同じだったはずだが、日本にはこのツールを使うことだけではなく、その背後にある先進的な思想や機構や技術をいわば翻訳し、今のことばでいえば ローカライズする基盤となる能力があった。維新の元勲と呼ばれる人たちの指導力ももちろんだが、福沢諭吉に代表される市井のひとびとの努力がこの国民運動を支えた。中でも前回書いたが、日本において外国語の翻訳、という分野が開拓されてこれを支えた。

此処までは誰も異論がないであろう史実だ。だが小生は、この後の過程で、そもそもは外国を知るためのツールにすぎない外国語(本論では英語)を習得するということが、その本筋からはなれて、教養(の一部)だと解釈されてしまうという過ちが起きたのだと思うのだ。もっとも歴史的な愚行として鹿鳴館の騒動をあげればよかろうが、外国語を解することがそのまま教養だ、という刷り込みが行われた。もちろん時代的背景として絶対的階級社会から抜け出せていないこの時期、外国語を学ぶことが出来るということは同時に権力や富も象徴した。このことが、何度も言うがツールにすぎない外国語(この場合英語)を知ることが教養なのだ=外国語ができるから偉いんだ、という短絡にいきついたのではないか。その結果、基本的な文脈とか日常会話などを飛び越えて、高校生あたりから英語の教科書にはだれが決めたか知らないが欧米の教養だ、としてシェークスピアだのハドソンだのポオなんかの文章の切れ端が教科書に登場するようになった。しかし例えば米国であっても、このような古典を読むのはハイスクールの上級からであり、当然その時点で母国語として英語を毎日駆使している。片や日本では熾烈な受験対策のために、英語教育を試験のツールとして枝葉末節にこだわり、たとえば受験生に愛用された赤尾の豆単(死語になったかな)をみれば carry coals to Newcastle  なんてのが(アメリカ人仲間に使ってみて大笑いされた) 必須熟語、と登場するような羽目になった。米国で ”大学でシェイクスピアを読んだ” なんて言ったらそれだけで感心されるが、どっこい、現実の英語のコミュニケーションでは、出発点から間違った教育の結果としてハムレットは読めるがハンバーガーの注文もできない、というような滑稽な現象が起きる。これがまだ、多くの場で繰り返されていることは頂戴した多くの方々の体験談からも明らかだ。

もうひとつの重要な史実は連合国(実際には米国)軍による戦後統治の影響だ。新憲法が制定され、政治思想的には欧米諸国と同等の立場になったのは喜ばしいのだが、そこで基本的思考として要求される、平等 という一語が、ときとして前後を忘れて独り歩きをすることが多いと感じる。僕は欧州での生活体験はないが、アメリカ、それも中でも進歩的なカリフォルニアで過ごしてみて、この 平等、という単語の解釈が日本と米国とでは違うのだ、ということを悟った。つまり、我々は 平等 の意味を equal  と解釈する。彼らは fair  と解釈する、という事である。

日本国憲法に規定される基本的人権、その重要な要素である平等、という概念、これはまさに正しい大義である。しかし現実の場で、たとえば教育機会の平等、という時に僕らは正しい選択をしているだろうか。

ありていに言ってしまおう。この機会平等、という発想が、実は現在起きている英語教育問題の根底にあるのだ、と僕は考える。日本人はすべてが、同じ機会をあたえられなければならない、という、現実離れした発想がそれである。

この論議に参加していただいた各位をはじめとして、僕らは決して日本人を代表する立場というか位置にいる人間ではない。自分で定義するのもおかしいかもしれないが、僕らは経済的にはアパーミドルクラスの都市部居住者の一般的にはインテリ層と呼ばれる(くすぐったいが)グループに属する。この分類に入る人の数がどれだけか調べたことはないが、このグループに属する人間が日本人なのだ、というのはおこがましい話であろう。前稿に転載させていただいた赤阪氏の議論をはじめ、またそもそもこの論議の発端になった、”これからのグローバル時代にうんぬん” という発想はこのグループに属する人間だから共鳴するのであって、ほかの大多数の日本人の方々が等しく共有出来る感覚ではないのではないだろうか(もちろん観光地のお土産屋のおばさんがガイジン客相手をする機会が増えた、だから私たちもグローバルとやらなんやろか、というような感覚は多くなっただろうが)。こう考えていくと、”だから、英語は日本人にとって必要なのだ” という結論には僕は到底賛同できない。

英語というツールを取得することそれ自身が本当に日本人としての教養に不可欠なのだ、という事であれば話は違ってくるが、僕は日本人がひろく世界のことを知ることこそ教養であって、シェイクスピアの原文が読めればそれが教養なのではなく、ハムレットの嘆きを聞いて、人間の在り方や考え方を学ぶことが教養なのだと思うのだ。そのためにはその道のプロである翻訳者の力を借りてそれを学べばいいのである。いやそうではない、この社会は平等(つまり誰でも彼でも同じ機会を持たなければならない)を重んじるのだから、教養を得る権利は日本人すべてに等しく与えられなければならない、だから英語の普及水準が低いのは問題なのだ、という論議には僕はついていけない。逆説的に言えば、ほかの、流行のコトバでいえばグローバルサウスのいくつかの国が我が国より英語の水準(これ自身の定義がわからないが)が低くても、文化産業政治うんぬんにおいて、我が国のレベルのほうがはるかに高い、という現実を無視はできまい。

もちろん、日本人の中でも各界の指導層には英語(僕の勝手な定義によればソシアルレベル以上の実力)が必要とされる立場の人たちがおられ、ほかにも自分の職業あるいは天職としてこのレベルの英語が必要とされる多くの人がおられることは当然理解する。したがって、そういう立場の方に対する教育制度(繰り返すが equal ではなく fair  な)がより fair  な形、制度として速やかに再構築されるべきだと思う。非現実的な平等=equal 論議は捨てて、必要な人に必要な、つまり平等=fair という観点に立って、英語の教育制度が、さらには(住んでみてアメリカという社会に失望することも数多くあったが、絶対的に日本より進んでいる=万民にとって fair である、と感心したのは社会人になってからも広く大学や専門学校に立ち返ることが出来る社会の仕組みだと理解した)より広い視点での教育システムの在り方が再構築されるべきであろうと考える。つまり、英語教育制度は原理的に機会不平等であっていいはずのものなのだ。

議論の途中に、小学校からの英語教育が必要か、という論点があった。もちろん現代の小学生が毎日の生活において、特に好むと好まざるとにかかわらずIT社会がもたらした情報の氾濫で英語に遭遇する機会は我々の時代とは比較にならないほど深く、その意味での対応は早急に考えなければならないだろう。前々回の本稿で、小生の孫の経験を挙げた。早期から英語オンリーの環境に置かれた子供がソシアルレベルの英語を習得できた、という事実は存在する。しかし彼と同じ環境を日本的平等主義の下で作り出すのは、絶対的に不可能だし、いままでの議論から不要だと断言する。さらに一般化して、小学校から英語教育をすべし、という今の施策には反対である。その理由はすでに述べたように、藤原正彦氏のご意見に述べられている通りなのだが、さらにより現実的な問題として、小学生に正しい英語、しかも正しい発音、などを教えられる教師が、失礼だが今の教育担当者層の中に何人おられるというのか。小学校レベルの教育者には、複雑化する家庭問題だとか、IT普遍化への対応だとか(とくに現在かまびすしいAIの普及)、我々の時代よりもはるかに困難な課題に注力していただくことの方がはるかに重要でなのではないか。

私見としては、小学校レベルでは、アルファベットが大文字小文字とも完全に読み書きでき、自分や家族の名前とか住所とか正しくローマ字で書け、100くらいまでの数字が完全に理解でき、そして当然発生するであろういわば日本語化されてしまった英語単語の意味が分かり、さらに言えば、サバイバルレレベルのあいさつができる、その程度でいいのではないかと思うし、ここまでならば一般の教育従事者でも十分対応可能だろう。ただしいずれにせよ、この程度のことで正しい発音ができるようになる、などということは夢想であるとは思うが僕は現在政府が進めている、というかいわゆる進歩的知識層の方々が唱える小学校からの英語教育、というのは、明治の鹿鳴館騒動に匹敵する歴史的愚挙だと信じている。そんな時間とカネがあるのなら、年齢にふさわしい情操教育とか日本史や文化のことをより深く教えるべきなのだ。

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明治の一時代を象徴する社交場「鹿鳴館」 明治16(1883)年、政府や貴族の社交場として建設された「鹿鳴館(ろくめいかん)」。 現在は、建物があった帝国ホテルと日比谷U-1ビルの境目に「鹿鳴館跡」の碑が埋め込まれています

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ここまで書いてくる過程で、本騒動(?)の起動者である下村君や関谷君、海外経験の長い飯田君、児井君などから各自のご意見を頂戴した。また、別稿で転載させていただいた赤阪氏からは現在進行中の教育プロセスやツールについての情報を頂戴することが出来た。

続きはこの猛暑(むしろ狂暑か?)が去った後、振出しへもどって、”アンノウン” ご自慢のマティーニをシェイク(ジェイムズ・ボンドはどっちだったか忘れたが)してもらいながらになるだろうか。涼風にはまだ間があるようだが。