米国での野球は今、変化の波に洗われている。事情に詳しい友人からの情報をご参考まで、お届けする。
カウントダウンが進むのを横目でチラチラと確認しながら、何度も首を振った。サインが合わない。投げる球が決まらない。 残り3秒。もう間に合わない―。大リーグ・メッツの先発投手、マックス・シャーザーはたまらず投球板から右足を外した。タイム。慌てて駆け寄る捕手にいらだちを抑えきれず怒鳴った。
4月10日、米ニューヨーク。パドレス戦の一回1死一塁、フルカウントの場面だ。最優秀投手賞の「サイ・ヤング賞」を3度受賞している38歳は、「ピッチクロック」に明らかに苦しめられていた。 ピッチクロックは、大リーグがファン離れを防ぐための改革の一環として今季から導入したルールだ。投手は原則として走者がいない場合は15秒、走者がいる場合は20秒以内に投球動作に入らなければ、ボールが宣告される。
「試合のペースが遅い」「選手がプレーしていない時間が長すぎる」。こんな懸念が10年以上も前から大リーグ各球団のオーナーの間で飛び交っていた。テレビの前のファンはすぐにチャンネルを変えてしまう。2015年に大リーグ機構(MLB)のコミッショナーになったロブ・マンフレッドは就任後、試合のペース改善に取り組んできた。投手が投げないまま打者が四球になる申告敬遠や首脳陣がマウンドに駆け寄る回数の制限、ワンポイント登板の廃止……。多少の効果はあったが、劇的な変化は生まれていなかった。
大リーグで取材していると「我々はエンターテインメントのビジネスだから」との発言をよく聞く。球団幹部から選手まで、だ。大リーグが愛されてきた理由
ファンを楽しませることを意識した、わかりやすい真っ向勝負。大リーグが愛されてきた要素の一つである。私が子どものころから大リーグを好んできた理由でもある。 打席での勝負や試合には当然勝ちたい。でも観客が喜んでくれるプレーも大事だ。だから、たとえ打者が直球を待っているのがわかっていても、力でねじ伏せにいく投手がいる。極端な守備シフトを敷いて野手のいる方向に打たせようと配球してくるのなら、野手がいない場所にではなく、頭上を越える本塁打を打てばいい、と豪語する打者もいる。
しかし、この10年ほどで大リーグは大きく変わった。結果と勝敗を優先したデータ重視の管理野球が主流になった。全30球団の本拠に高性能カメラや高性能弾道測定器が設置され、投球や打球の回転数や速度、軌道などが計測できるようになった。選手が投球動作やスイングなどの再現性を求めやすくなった一方で、首脳陣は選手の不調や苦手意識の理由を可視化できるようになった。
打者の打球方向の特徴にあわせた守備位置の変更などプレーの前の準備が重視されようになった結果、プレー以外の時間が長くなった。ひらめきで動くプレー
は減り、選手が高い身体能力を発揮できる機会も少なくなったように思える。
その結果、「最近はつまらなくなってきた」という話も多い。
成績を残さなければ、選手も球団幹部も職を失う。代わりはいくらでもいるのだ。勝利優先は仕方のないことでもある。だが、その結果、野球は複雑化し、プレー時間以外での駆け引きが増えた。取材現場でも「最近の野球はつまらなくなった」という意見を頻繁に聞くようになった。
選手はその日の調子よりも、過去のデータに基づく判断で交代させられるようになった。わかりやすい例が17年、ドジャース時代の前田健太(現ツインズ)だ。調子が良くても、球数が少なくても、相手打線が2巡すると交代させられる。1、2巡目と比べて被打率が明らかに悪くなるというのが理由だった。
20年のワールドシリーズ第6戦では、ドジャース打線を5回まで1安打9奪三振に抑えていたレイズの先発ブレーク・スネル(現パドレス)が六回1死から安
打を許すと、直近のデータに基づき、交代させられた。代わった中継ぎ投手が打たれ、レイズは2勝4敗で敗退した。この交代は、ファンの間で物議を醸した。
「データに偏りすぎている」との批判が増えてきた。「野球の衰退」とすら話す選手や監督、球団幹部も出てきた。 分析に基づくチームづくりで一目置かれているレッドソックスの最高編成責任者ハイム・ブルームでさえ「勝つための方法が、必ずしもおもしろくはなく、視覚的に魅力的でもないことは認める」という。
MLBの今季の改革は、失われつつあったエンターテインメント性を重視し、野球をおもしろくする方向を追求している。安打を増やすため、打者の特徴に応じ
て一、二塁間に野手3人が並ぶような極端な守備シフトを禁止した。盗塁も増やそうと、本塁を除くベースを大きくし、塁間の距離を短くした。
開幕からまだ約1カ月だが、効果は出ている。4月22日時点での大リーグ公式サイトによると、打者が引っ張ったゴロが安打になる確率は昨季より19%増えた。1試合の平均時間は2時間37分で、前年比で27分短縮された。
42歳で通算462本塁打の強打者ネルソン・クルーズ(パドレス)は「試合が30分早く終わるなら1週間(7試合)で210分。グラウンドにいる時間が減れば体力的にもかなり楽になる」と話す。極端な守備シフトの禁止にも賛成だ。「特に左打者で、安打性の打球がシフトで阻まれ、成績を落としてつぶれていく選手を何人も見てきた」。選手寿命が長くなることが期待できるという。
大幅に改革した大リーグ。だが、まだ道半ばなのかもしれない。 MLBが提携している米独立リーグのアトランティック・リーグは先月、試験的に導入するルールを発表した。新ルールの目玉は「指名代走」だ。控え選手をいつでも代走で起用することができ、代走を送られた選手は攻撃終了後、再び試合に戻ることが許される。足の速い選手を生かして得点を増やそうという狙いが明確だ。
このまま変化は続くのだろうか。フィリーズ球団編成本部長のデーブ・ドンブロウスキーはこう擁護した。
「私が子どもだった1960年代は今のように多くの得点は生まれなかった。野球界は(得点を増やすため)マウンドを低くして打者が打ちやすくするなどの変
化を受け入れてきた。NFL(米プロフットボール)やNBA(米プロバスケットボール)も、エンターテインメントを意識し、よりよい形を求めて(MLBと)競合してきた。人々は新しいものに触れたがる。野球界も変化を歓迎するべきだ」
日本ハムとソフトバンクでも活躍した先発投手、ニック・マルティネス(パドレス)も理解を示す。「日本のプロ野球もそうだけど、投手が『間』を使ったチェスのような駆け引きは芸術だと思う。なくなるのはとても残念。でも、対応しなくてはいけない。野球への関心が低いファンを魅了する方法は大事だ」
既存のルールの下で技を磨いてきたベテラン選手には、急なルール変更は酷かもしれない。改革の評価は今後も分かれるだろう。ただ、野球をおもしろくしようとする意図はくわかる。新たなファン層獲得の可能性も十分感じる。MLBには「エンターテインメントだから」の精神を常に忘れないでもらいたい。
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