本日の散歩 目黒通りと桜田通りを掠める    (普通部OB 菅原勲)

我が敬愛する永井荷風の「日和下駄」の足元にも到底及びませんが、その真似事を一席。興味のない方は、それこそ「スルー」してください。 障碍者が出来るのは、まー、こんなもんです。いわく:

拙宅のある共同住宅は、目黒通りと桜田通りがぶつかるT字路わきにある。玄関を出ると、その前が目黒通り。左に出て、すぐに左に折れると、桜田通り沿いをだらだら下った坂道となり、交番と消防署が軒を並べる。坂を下り切ったところで、桜田通りを横断すると、その目の前が、図書館が同居している区役所の支所。これを桜田通り沿いに右に進むと洗濯屋があり、今度はだらだらした上り坂となる。下ったところが天神坂下。余談だが、これを上ると左に和菓子屋がある。「虎屋」と称しているが、我々は専ら「ニセトラ」と呼んでいる。

そこで、再び桜田通りを横断して目黒通りに戻る。駐車場があって、直ぐに「トヨタ」の販売店。トヨタの車など、街中をわんさか走っているので展示されている車は面白くも何ともない。せめて「ブガッティ」だったなら。その隣が、「シェラトン都ホテル東京」。余談だが、ここは、元外務大臣だった藤山愛一郎の本宅あと(妾宅ではないと思う)。玄関前に、宿泊客の国旗を掲揚するポールがあるが、「武漢ウィルス」このかた、掲揚されているのは日の丸だけ。例外は、五輪期間中のみ。

また。余談だが、都ホテルは宿泊客、利用客用に無料のシャトルバスを省線目黒駅との間を15分間隔で走らせている。厚顔無恥な小生は、これを頻繁に利用(便乗)しているが、最近の乗客は小生のみの場合が少なからず。これでホテルはやって行けるのか。通り過ぎて、目黒通りを横断して帰路につく。小一時間。

そりゃあスタバよりゃ高いわなあ

健常者なら20分の行程。それにしても、色気も何もないクソ(失礼)面白くもない散歩だ。確かに、都ホテルでお茶が飲めるが、「スターバックス」の約3倍。到底、しょっちゅうと言うわけにはゆかない。これが本日の成果。

(船津)高級住宅地に住んでいるんですね。珈琲はスタバの何倍もするのは当たり前。住む人が高級人だと物価も高い。こちとら下町は高い物売ると誰も買わないから直ぐ店が潰れて、分相応の物を売るようになり!幸せ。
藤山愛一郎と言えば普通部にご子息が来て今したよね。父兄会に第二夫人が女優の細川ちか子(1905.12.31-1976.3.20:本名は横田冬)さんが来て今したよね。今だったら大問題。フジヤマ邸ってそこにあったんですか。

(保屋野)菅原さん、船津さんの地図によるとお住まいは「白銀」なんですか。ネットで「東京の高級住宅地」を検索したら、一例ですが、何と「白銀」が第1位に選ばれてました。ちなみに、2位が「田園調布」3位が「松濤」4位が「南麻布」5位が「成城」6位が「青葉台~目黒」でした。。

なお、名前だけなら、品川の城南五山の一つ「御殿山」がトップ(他に、池田山、島津山、八ツ山、花房山)ですかね?

(編集子)なににつけスガチューと張り合ってきたが、散歩道については武蔵野のコーシューカイド―を歩いてる当方とはだいぶランクがちがうようで。わがつつじが丘にはスタバですら、ない。駅前のドトールがせいぜいで、鳥取県知事がいつだったか ”わが県にスタバはないがスナバならあるよ”、といったのがうれしかったね。明日もまた、ネスカフェかあ。

コロナに対する対応について (34 船曳孝彦)

新型コロナ肺炎の第5波の感染拡大は凄まじいまま続いております。決して明かりが見えて来たとは言えません。週内変化がありますので7日単位(あるいはその中の1日単位)で比べないと分かりませんが、まだ増え続けています。当初は高齢者感染の割合が多かったのですが、デルタ株への変異とともに、ピークが50,60歳代に移り、30代、さらに20代へと移行しています。怖いのは感染しにくいと見られていた幼小児の感染が急増していることです。子供の一斉検査で高い率で陽性が認められたとの報道もあります。当然ながら小児への重症化治療施設、設備など全く手が付けられていません。悲劇的な結果となりませぬよう祈るばかりです。

子供たちへの拡大の大きな原因は、大人の軽症感染者の家庭内療養(待機)政策にあります。狭い日本の家屋ですから、感染したお父さんを隔離するなど出来る訳がありません。お母さん、子供たちへと家庭内感染を広げた結果だと思います。昨年のコロナ情報でも述べていますが、感染者が家庭内に留まることは非常に危険です。子供同士の集団感染へと発展します。逆に子供から親への感染ケースも報道されています。子供たちを守るためにも、専用病院、隔離・観察施設の重要性を強調します。

TVのインタビューで「私達は罹らないと思っていた」と答えていた20代の女性がいましたが、街中の人出を見ても分かりますが、緊急事態だ、蔓延防止だなどの制約に全くとらわれずに出歩いていたのでしょう。国のGo-Toキャンペーン、オリンピック実施政策などからは、誤った楽観主義が広まってきたのでしょうが、とんでもないことです。路上飲酒などが放置されているのは、3流以下の国家でしょう。前報でも医療崩壊が始まったと指摘しましたが、やがて患者が病院前に群がり苦しんでいるインドの事情を皆さんTVでご覧でしょう。日本もあのようになりかねません。

◎政治の対応すべき対応

コロナ病棟増設ばかり強調されていますが、コロナ病棟増設はそう簡単には行かないのです。政治的プロパガンダの色彩が強いのですが、施設の広さ、設備、医師・看護師・技術者などの人材、それら全てが足りていないので、これ以上は無理な要求に近いと思います。一般病棟をこれ以上締め付けてがん、心臓病、外傷などの治療を疎かにすべきではありません。

入院治療のできない患者に観察-待機施設を増設すべきです。中国、米英などで素早く建設されてそれなりに機能したようで仮設病院、野戦病院を日本も見習うべきと言われます。しかし日本の現状では無理と思います。病院としての治療は出来なくとも、毎日診察だけは行い、重症化をいち早く見つけて手配しなければなりません。酸素治療も可能となるでしょう。イベントホールや体育館などを利用すべきですし、昨年から本情報でも主張していたようにオリンピック選手村の活用です。昨年オリンピック1年延期が決まった時点で踏み切っていれば、この1年弱で随分事情は違っていただろうと考えますが、過ぎたことは仕方ありません。信じられないパラリンピックが進行中です。あと1週間、終わり次第直ちに移行すべきです。

新感染者数のカーブは人流のカーブから1~2週遅れてきれいに一致しています。緊急事態宣言はオオカミ少年ではありませんが、完全に機能していません。殊に第5波では、山の日連休、お盆、オリンピック、パラリンピックなどの逆方向政策と重なり、効果がありません。為政者自身が守っていないような会食自粛を唱えても意味がありません。先述のTVの女性の発言などないように、本気で自粛方向に導くべかです。

◎医療側への提言

コロナ病棟増設にご協力いただいている施設にはご苦労様ですとしか言いようがありません。引き続き頑張ってください。

入院施設のない開業医の先生は、軽症患者待機・観察施設への診察、協力をお願いします。医師会として正式に表明すべきです。

眼科、皮膚科など普段感染症に関係していない先生は、ワクチン接種で大いに活躍してください。学校健診などで予防接種はお手の物です。ワクチン接種政策の最初からこのように分業すべきだったのです。

これは政治側かもしれませんが、発熱外来ももっとオープンにどこに行ったらよいのかPRすべきです。

◎皆さんに

 デルタ株は武漢型、イギリス型などとは別のビールスになってしまったかのごとき性格です。感染力は一桁違いますし、対応年齢層も異なってきています。重症化率も明らかに高くなっています。エアロゾル感染で天然痘並みに感染機会があるともいわれます。十二分に注意してください。

とはいえ、新型コロナビールスですからワクチンの予防効果は大いにあります。接種者の感染者は一桁以上低いようですし、重症化率も低値です。接種後抗体は時間とともに低下することをメディアは喧伝していますが、これは当たり前のことで、100%持続するものではありません。また低値となっていても、ビールスが入ってくればブースター効果で再上昇します。早く若い人たちに行き渡って欲しいものです。

今の趨勢ではまだまだ長引くものと思われます。精神的にもつらい毎日ですが、罹らないよう頑張りましょう。

アフガン情勢サマリー   (普通部OB 田村耕一郎)

親しい友人から世界情勢に関する貴重な情報を転送して頂いている。現在関心の深いアフガニスタンの情勢について頂いた解説を紹介する。

*******************************

タリバンが圧倒的な攻勢を見せ、カブールを陥落。わずか2週間足らずでアフガンのほぼ全土を制圧しました。タリバンは「アフガニスタン・イスラム首長国(IEA)」の樹立を宣言。記者会見を開くなど積極的な情報発信を始めました。タリバンの報道官は、自国メディアで女性キャスターのインタビューに応じ、欧米メディアにも出演し、「米国とは戦わない」「すべての人に恩赦を出す」「『イスラム法の範囲内で』女性の人権を守る」などと発言。20年前とは異なり、融和的なメッセージを強調しています。

一方、国内では抗議デモが起きていますが、それに対して発砲したり、女性の市長やジャーナリストは虐待にさらされることを恐れていると述べています。カブールでは女性の写真が排除されている光景が見られます。タリバンの幹部の1人は「民主的な制度はなくなる」とインタビューで述べました
国際社会はおおむね静観する姿勢を見せていますが、カナダのトルドー首相は「タリバンを承認する予定はない」と宣言。一方、中国の王毅外相は「タリバンには圧力を加えるよりも政権移行に向けた支援を行うべき」と発言。パキスタンのイムラン・カーン首相は「アフガニスタンは奴隷の束縛を打ち破った」と述べました。

アフガン情勢はまだ不透明な部分が多く、確固たる見通しを述べることはできませんが、現時点でのポイントを述べます。バイデン政権に与える影響や諸外国の対応についてもコメントします。

●タリバンの支配
タリバンの新政府がどのようなものになるかはまだ明らかになっていません。タリバン以外のアフガンの勢力を取り込み、包摂的な体制を作ることを検討しているとも言われていますが、かつての国名である「IEA」を早々に宣言しており、イスラム法の原理的な解釈に基づく統治を行うことは間違いないでしょう。

新政府の機構や指導部の人選もまだ分かっていません。タリバンの最高指導者は宗教学者のマウラウイ・ハバトゥラ・アクンザダですが、公の舞台に姿を見せたことがなく、神秘的な存在です(死亡説もある)。タリバンの実務は、アクンザダの下にいるアブドゥル・ガニ・バラダル(タリバンの創設者の1人)、ムハンマド・ヤクブ(タリバンの創設者で初代最高指導者だったムハンマド・オマルの子)、シラジュディン・ハッカニの3人の副指導者が担っているといわれます。

バラダルは政治担当で、ドーハに駐在して米国との和平交渉を含む外交を担当していました(カブール制圧後にアフガンに帰国)。バラダルは10年にパキスタンに拘束されましたが、18年に釈放され、それから米国との和平交渉の任にあたるようになりました。釈放はトランプ前政権(ハリルザド・アフガン和平担当特別代表)の要請によるものです。バラダルは拘束される前から交渉できる人物として評価されていたので、タリバンの交渉担当にさせたほうが得策という判断がありました。

バラダルは政務を担当する最高幹部であり、アクンザダら他の幹部と異なり頻繁に姿を表します。そうした役割もあり、タリバン新政権が発足した際にはトップ(大統領か首相)になるとみられています。タリバンがカブールを制圧してから代表的な声明を出しているのもバラダルです。なお、先月後半にタリバンの幹部が天津を訪問して王毅外相と会談しましたが、このときのタリバン代表団を率いたのもバラダルでした。

ムハンマド・ヤクブはアフガン国内にあって軍事を担当していますが、初代最高指導者のオマルの息子として注目されることが多い人物です。最高指導者の地
位に押す声もあったが、自身が消極的だったといわれています。アクンザダ同様、姿を見せたことはありません。

シラジュディン・ハッカニはタリバン最強硬の武闘派といわれる「ハッカニ・ネットワーク」のリーダーで、やはり軍事を担当していますが、ヤクブとの役割分担など詳細は分かりません。ハッカニ・ネットワークは、ムジャヒディンの司令官だったジャラルディン・ハッカニが創設した組織で、元々は独立した武装勢力です。タリバンがカブールを95年に制圧する直前にタリバンに加わりました。

ジャラルディンはムジャヒディン時代からオサマ・ビンラディンとの親交が深く、アルカイダとも密接な関係を築きました。米国はハッカニ・ネットワークをアフガンで最も危険なテロ組織とみており、タリバンとは別にテロ組織に認定しています。18年にタリバンはジャラルディンの病死を発表し、息子であるシラジュディンが後を継いでいます(もう1人息子がいましたが、オバマ政権のときドローン攻撃で暗殺されました。ジャラルディンも暗殺されたという噂が何度も流れました)。

タリバンは近年こそ記者会見などを開くようになりましたが、かつては写真や動画撮影すら禁止しており、指導者や司令官が姿を表すことはめったになく、プレスリリースの発信なども稀でした。このため基本的に情報が少なく、彼らがどのような関係にあって、どのような体制を作っていくかは不明確な点が多いです。ただ最近、報道官を中心にどんどんメディアに登場するようになっています。バラダルは数週間以内に政治体制についてアナウンスすると述べていますので、見通しが分かったところであらためて取り上げたいと思います。

タリバンの融和姿勢は、20年前と比べると隔世の感がありますが、多分に広報政策としての側面が強いと思われます。要するに中国や欧米をはじめとする非イスラム圏との関係を安定化させるためのプロパガンダです。タリバンと言えばかつては蛮行のイメージが強く、それを知らしめたのはナジブラ元大統領の惨殺でした(局部を切り取り、車で市中を引き回して、信号機に吊るした。市民は嫌悪感を抱き、国際社会も衝撃を受けた)。恩赦が実行されるかは疑わしいですが、少なくともこうした暴虐のイメージを流すことは避けるでしょう。今の時点で言えることは限られていますが、国内における実際の支配と国外におけるイメージを使い分けする可能性が最も高いと考えられます。

●アフガンの内戦
タリバンはアフガンの国土の大部分を制圧しましたが、前回の記事で述べたとおり、占領と統治は別問題です。タリバンがカブールを超えて広範な支配を持続できるかには多分に疑問があります。
アフガンは、前近代から近現代に至るまで、周辺国を巻き込みながら戦乱を繰り返してきた国です。一つの国家が国土全体を有効に統治できた時期はほとんどありません。基本的に中央国家の力は弱く、各地域で民族や部族が伝統と慣習に則って自治を行ってきました。国家の主な資金源は外国からの支援で、このため外国勢力の侵入や工作が常態化していました。

アフガンの戦乱の大きな要因は民族の多様性です。民族構成は、パシュトゥン人42%、タジク人27%、ハザラ人9%、ウズベク人9%、アイマク人4%、トルクメ
ン人3%、バローチ人2%、その他にも数多くの少数民族がいます。多数派のパシュトゥン人でも4割程度で、パシュトゥン人とそれ以外の少数民族の関係は極めて悪いです。さらにパシュトゥン人でも、ギルザイ(主に東部カブール)とドゥラーニー(主に南部カンダハル)という2大部族をはじめとする多くの部族がおり、これまたお互いの関係は良好ではありません。

イスラム教という宗教の同一性がアフガンという国家の統一性を担保する唯一の要素になっています。もっとも、ハザラ人はシーア派の12イマーム派(イランの国教)を信奉しており、このため迫害の対象になります。イランはハザラ人の保護に熱心であり、このためスンニ派の原理主義であるタリバンとは元々は対立する関係にありました。
タリバンはパシュトゥン人の勢力であり(南部カンダハルが発祥)、イスラム原理主義とともにパシュトゥンの民族文化を重視しており、他の民族勢力とは激しく対立する関係にあります。そもそもパシュトゥン人は極めて誇り高く攻撃的な民族であり、自分たちこそ「アフガン」という強い意識があり、タリバン以前に他の少数民族とは相容れない面がありました。
このため主にパシュトゥン人以外の民族が軍閥を形成してタリバンに対抗しました。タジク人はラバニとマスード(東部カブール、北部パンジシール)、イスマイル・カーン(西部ヘラート)、ヌール(北部マザリシャリフ)、ウズベク人はドスタム(北部マザリシャリフ)が主要なリーダーです。ハザラ人は諸勢力がいました(中部バーミヤン)。パシュトゥン人ではヘクマティアル(東部カブール)が反タリバンの中心でした。

ハミード・カルザイ、アシュラフ・ガニ、アブドラ・アブドラというアフガン政府のトップはいずれもパシュトゥン人ですが、欧米との結びつきが強いバックグラウンドもあり、米国の後ろ盾を得てタリバンに対抗しました。米国の傀儡といわれましたが、「タリバンを受け入れない」「近代的・穏健」「パシュトゥン人」という属性はアフガン政府のトップには不可欠の要素でした。

ガニは国外に逃亡しましたが(UAEに滞在、衝突を避けるために退避したと説明)、カルザイとアブドラはカブールにとどまり、タリバンと交渉する構えのようです。タリバンが包摂的な体制をどこまで追求するのか見極めるポイントになるかもしれません。

一方、サーレフ第1副大統領(タジク人)は暫定大統領を名乗り、アフマド・マスードとともにパンジシール渓谷で反タリバン戦線の結成を宣言しています。アフマド・マスードは、01年にアルカイダに暗殺された国民的英雄であるアフマド・シャー・マスード元国防大臣の息子で、父と同様にパンジシール渓谷に本拠を置き、タリバンに立ち向かう姿勢を示しています(ワシントン・ポストに抵抗の宣言を寄稿、ただしタリバンと交渉したいという希望も述べている)。

ドスタム、ヌールといった有力な軍閥のリーダーは国外に脱出していますが、これまで何度も国外に脱出しては再び戻ってきて支配を奪還してきた人々です。捲土重来を期すことは間違いないでしょう。そういうわけで、今後、タリバンの支配がどうなるかは予断を許しません。これまでのアフガン政治や国際関係の経緯を考えると、タリバンが広範な統治を実現できるかには疑問があり、事実上の内戦は続くと考えられます。

こうした考察の前提となるアフガン現代史については、読者の方からのリクエストもあり、書くつもりでいながら、ずっと延びてしまっていました。近いうちに書きますので、お待ち下さい。なお、以前にパキスタンの視点からタリバンについて説明したことがあります。パキスタンは歴史的・文化的・政治的にアフガンとの関わりが深く、今後のアフガン情勢において最も重要な影響を及ぼすキープレイヤーです。したがって「パキスタン現代史」シリーズはアフガンを理解する上でもお役に立つと思います。

●バイデン政権の対応
アフガン国内の情勢以上に関心を集めているのはバイデン政権への影響です。今回のタリバンのアフガン進撃、米国関係者の慌ただしい撤退の様子(ヘリを使った写真など)、アフガンから脱出しようとするアフガン人たちの悲痛な光景は米国内外のメディアに大きく取り上げられました。
Politico/Morning Consultの世論調査によれば、米軍のアフガン撤退を支持する米国民の割合は69%から49%に急落。またバイデンの支持率はファイブ・サーティー・エイトの平均で49%と政権発足以来初めて50%を割り込みました。支持率についてはアフガンのみならずコロナの影響も大きいですが、バイデン政権にとって大きなダメージになったのは明白です。

アフガン撤退自体は、バイデンとしては固い決意で実行したものです。多くの軍関係者や外交・安全保障の専門家は反対し、3,000人程度の駐留でアフガン政
府を維持できるのであれば費用対効果としては十分見合っているとの声が聞かれました。しかし米国民の多くはアフガン駐留自体に意味を見出すことができず、バイデンも「米国の青年たちを危険にさらし続けることはできない」という思いを繰り返してきました。息子がイラクに駐留したことも影響しているのでしょう。そもそもバイデンはオバマ政権のときからアフガン政府に不信感をもち、増派にも消極的でした。撤退は撤退で一つの戦略的な決断です。

この点について、アフガン撤退は「同盟国を見捨てるもの」として米国への不信感を高めたという見方があります。しかし日本や台湾をはじめとする東アジアにはこの問題はあてはまらないでしょう。アフガンと日本や台湾では戦略的価値に大きな差があり、そもそもアフガン撤退も対中国政策にリソースを割くためのものだったからです。
一方、NATO・欧州にとっては、連携不足を含めて、大きな不安を与えたことは否定できないでしょう。バイデン政権は欧州との亀裂の修復に取り組んできましたが、これまでの努力を損なう結果になってしまいました。EUは、先週から「戦略的自律性」を一層強調するようになっています。

●中国の対応
中国はタリバンの制圧を歓迎しているとか、これをチャンスと見てタリバンに積極的に支援など関与していくとの見方をみかけますが、あまり合理的な見立てとは思いません。上記記事で述べたとおり、中国はイスラム過激主義が東トルキスタン・イスラム運動など自国の安全保障の脅威になることを恐れています。タリバンに融和的な姿勢を示していますが、防御的な行動という面が強いように思います。
実際、タリバンによるアフガン制圧後も、中国の言動はかなり慎重です。王毅外相がラブロフ外相と会談した際も、中国の国民や企業の利益が守られること、タリバンが穏健な宗教政策をとり、包摂的な体制を作り、平和で有効的な外交政策をとること、東トルキスタン・イスラム運動を含むテロ勢力を抑制することをタリバンに求めると述べています。かなりまともというか、タリバンにそれを約束させることができればいいけど、できるのかな?という主張をしています。

中国はタリバンに経済支援と政府承認をちらつかせていますが、これは前述のタリバンへの要求をのませるための交渉材料です。タリバンに接近し、アフガンでの影響力の拡大に積極的に取り組むというよりも、まずはタリバンが信頼できるのか慎重に見極めようとしているのが実態でしょう。「一帯一路」をアフガンにも拡大するというのは、プロパガンダとしては簡単ですが、実態がどこまで伴うのか疑問です。
また、先に述べたタリバンへの要求は、米国にとっても歓迎すべき内容です。アフガンに進出することで得られるものは少なく、どちらかといえば自らの利益を守りながら、あわよくば米国との関係改善に向けたアピールポイントとして利用しようとしているように見えます。ここ数少ない米中協力の分野の一つになる可能性があります。

エーガ愛好会(83)  風立ちぬ     (普通部OB 船津於菟彦)

民放テレビで2013年に製作された映画「風立ちぬ」をやって居たので再見した。NHKと違ってコマーシャルの多いのには辟易。

堀辰雄の「風立ちぬ」を軸に日本海軍のエース戦闘機、通称零戦を開発した堀越次郎を絡ませ、更にイタリア人ジャンニ・カプローニを舞台廻し役に登場させている。この男は1908年に航空機メーカー「カプローニ社」を創業し、第一次世界大戦中は連合国向けに、第二次世界大戦中は枢軸国向けに爆撃機や輸送機を生産した。第二次世界大戦で使用された爆撃機「カプローニ Ca.309」は、別名ジブリ(Ghibli)といい、なんとスタジオジブリの名の由来となっている、宮崎駿お気に入り。そこへ堀辰雄の夫人矢野綾子が堀辰雄の小説『菜穂子』の薄明の美人を下敷きに登場する。

飛行機に憧れている少年・堀越二郎は、夢に現れた飛行機の設計家・カプローニ伯爵に励まされ、自分も飛行機の設計家になることを志す。青年になった二郎は東京帝国大学で飛行機の設計学を学び、関東大震災が発生した際に乗車していた汽車の中で偶然出逢った少女・里見菜穂子と、彼女の女中である絹を助ける。世間は世界恐慌による大不景気へと突入していた。東京帝国大学を卒業した二郎は飛行機開発会社「三菱」に就職する。”英才”と会社から評価される二郎は上司たちからも目をかけられ、企業の命運を左右する一プロジェクトの頓挫やドイツへの企業留学など仕事に打ち込んだ。
その結果、入社から5年経って大日本帝国海軍の戦闘機開発プロジェクトの先任チーフに大抜擢されるが、完成した飛行機は空中分解する事故を起こしてしまう。飛行機開発において初の挫折を経験し意気消沈した二郎は、避暑地のホテルで休養を取り、そこで思いかけずに菜穂子と再会する。元気を取り戻した二郎は、菜穂子との仲を急速に深めて結婚を申し込む。菜穂子は自分が結核であることを告白したが、二郎は病気が治るまで待つことを約束して、二人は婚約する。
しかし、菜穂子の病状は良くなるどころか悪化の一途を辿る。菜穂子は二郎とともに生き続けることを願い、人里離れた病院に入院する。二郎は菜穂子に付き添って看病したかったが、飛行機の開発を捨てるわけにはいかず、そのまま菜穂子と結婚して毎日を大切に生きることを決意する。
二人の決意を知った二郎の上司・黒川の自宅にある離れに間借りして、二人は結婚生活を送りはじめる。しかし、菜穂子は日増しに弱っていく。飛行機が完成して試験飛行が行われる日の朝、菜穂子は二郎を見送ると、置き手紙を残して密やかに二郎の元を去り、サナトリウムに戻る。
ふたたび夢に現れたカプローニ伯爵は、二郎が作った飛行機を褒め称えるが、二郎は自分の飛行機が一機も戻ることはなかったと打ちひしがれる。しかし、同じ夢の中で再会した菜穂子から「生きて」と語りかけられる。

堀辰雄 1904年(明治37年)12月28日、東京府東京市麹町区麹町平河町5丁目2番地(現:東京都千代田区平河町2丁目13番)にて出生。東京府第三中学校(現:東京都立両国高等学校・附属中学校)へ進み、4年修了で、1921年(大正10年)4月に第一高等学校理科乙類(ドイツ語)へ入学。同期には、小林秀雄、深田久弥、笠原健治郎らが居た。三中の校長の広瀬雄から室生犀星を紹介され、8月に室生と共に初めて軽井沢へ行く。しかし9月1日の関東大震災で隅田川に避難し、辰雄は九死に一生を得たものの、母親は水死。50歳であった。辰雄は避難先の南葛飾郡四ツ木村(現:葛飾区)に養父と仮寓。10月、罹災後、室生が故郷の金沢へ引きあげる直前に、芥川龍之介を紹介された。震災で隅田川を泳ぎ、母を数日間探し回った辰雄は身体の疲労と母の死のショックの影響で、冬には肋膜炎に罹り休学。この運命的な波乱の年の一連の経験が、その後の堀辰雄の文学を形作った。
9月、北多摩郡砧村大字喜多見成城(現:世田谷区成城)在住の綾子と婚約する。モーリアック体験を経て、10月に長野県北佐久郡西長倉村大字追分(現:北佐久郡軽井沢町大字追分。堀は終生この地を「信濃追分」と呼んでいた)の油屋旅館で「物語の女」を書き上げ、続編の構想も練るが停滞する。綾子もまた肺を病んでいたために、翌年1935年(昭和10年)7月に八ヶ岳山麓の富士見高原療養所に2人で入院するが、病状が悪化した綾子は12月6日に死去。この体験が、堀の代表作として知られる『風立ちぬ』の題材となり、1936年(昭和11年)から1937年(昭和12年)にわたって執筆された。この『風立ちぬ』では、ポール・ヴァレリーの「海辺の墓地」を引用している。 1953年5月48歳没。
堀越二郎 1903年6月22日 – 1982年1月11日)は、日本の航空技術者。位階は従四位。勲等は勲三等。学位は工学博士(東京大学・1965年)。1937年より十二試艦上戦闘機の設計を行う。”ZERO” と呼ばれ米軍にも恐れられた、かの零式艦上戦闘機, ”零戦” である。死亡記事はニューヨーク・タイムズ等世界の新聞に載った。
海軍からのあまりに高い性能要求に悩み、会議において堀越は「格闘性能、航続力、速度の内で優先すべきものを1つ挙げてほしい」と要求するが、源田実の 「どれも基準を満たしてもらわなければ困るが、あえて挙げるなら格闘性能、そのための他の若干の犠牲は仕方ない」という意見と、柴田武雄の「攻撃機隊掩護のため航続力と敵を逃がさない速力の2つを重視し、格闘性能は搭乗員の腕で補う」という意見が対立し、両方正論で並行したため、堀越は自分が両方の期待に応えようと決めた。こんな二人を絡めて宮崎駿は堀越二郎の半生を描いている。本人は佐々木須磨子と見合い結婚。後に6人の子宝に恵まれる。
ぐしゃぐしゃになった零戦を見つめる二郎と、数多くの飛行機が空高く飛び立っていくシーン。そして二郎が「一機も戻ってこなかった」と話したこと。この一言に、二郎のさまざまなな想いが込められていると感じられるラストシーンには、正直感動した。
宮崎監督は「原発が爆発したあとに轟々と吹く風と木がうわーって揺れている様子を見て、『風立ちぬ』というのはこういうことなんだと思った」と語っている。さわやかな風が吹いているのではなく、轟々と吹く。そんな恐ろしい風の中ならば、必死で「生きようとしなければならない」。
つまり二郎にとって夢に現れるカプローニは、メフィストフェレスのように彼の「美しい飛行機を作りたいという」この世での望みを叶える代わりに、作った飛行機で多くの犠牲者を出すという「魂を売り渡す」ような結果を導いた人物ということになるだろうか。
幻想的に時にマンガに、全体には美しい映画をつくろうと思う(2011.1.10
宮崎 駿)。零戦を賛美するわけでも無く、声高に戦争反対を言う訳では無いと宮崎駿は語っている。
(編集子)メフィストフェレス、という解釈に妙に納得した。堀越二郎の伝記はだいぶ以前に読んだが、このような見方にはならなかった。

今夏最後の縦走行      (39 堀川義夫)

今夏、最後の登山に行ってきました。6月の80歳の誕生日以降の山行に関しては、普段の山行とは異なり、自分の気持ちの中では「さよなら〇○〇山」登山と位置づけ、この山行がこの山に来る最後の登山になっても悔いのないように、そして素晴らしい思い出を演出してくれた〇○〇山の登山路、植物、景色等々の全てに感謝を込めながら、歩かせてもらっています。もちろん、これから先も訪れるに越したことはありませんが・・・

2021年8月18日(水)                         新宿発23:15の夜行バスで扇沢へ。久しぶりに夜行バスで寝られるか心配だったが、ビールと缶酎ハイでぐっすりと良く寝られた。これも特技か・・・?? 夜行としては十分な睡眠で扇沢に到着しました。

8月19日(木)                            扇沢から15分ほど歩いて戻り、柏原新道から入山。心配していた雨は全く影響なし。コースタイム通りに種池山荘に到着しました。雲が低く頂上の辺りは雲が掛かってしまいますが素晴らしい景色です。爺岳への登りには猿が歓迎してくれ、また、雷鳥の声がずっとしていたけど遂に姿を見せて呉れませんでした。途中、振り返ると立山そして剱岳が素晴らしい!

岳山頂到着前から小雨が降り始め、我慢して山頂へ到着し、思い切って雨具を着けたとたんに雨は止み、面倒なので雨具を着たまま冷池山荘へ到着。途中、赤岩尾根からの登山路との合流地点に素晴らしい大理石の道標が出来ていた。こんな道標見たことない!!

 

8月20日(金)

20日の日の出に祝福され鹿島槍(北峰)頂上へ。今日の午前中は天気も良いようなのでゆっくりと稜線歩きを楽しむ。そして、大学4年の夏合宿(58年前)に北峰に向う釣り尾根に残る雪渓のところでテントを張ったのを懐かしく思いながらしばしたたずんで懐古した。今では絶対に出来ない古き良き時代の思い出である。

冷池山荘より釣尾根を望む           大学4年の夏合宿に、あの雪渓の所でテン張ったんだ!

そして、荒れて恐怖感一杯の登山路をキレット小屋目指して下降を開始、この道は登るのも大変だろうが下りも物凄く神経を使う。やがて、キレットの核心部を通過し、雨の降り始める前(正午過ぎ)に無事キレット小屋に到着です。

8月21日(土)

今日は午後から雨になるとのことで、早めに目的地に着くようにと小屋からのアドバイスがあり、5時30分にキレット小屋を出発して五竜岳へ向かいました。ところが、直ぐに小雨ながら降り始め、滑るのと悪路に難儀しながら約5時間、五竜岳にやっとの思いで登頂することが出来ました。五竜岳山頂には誰もおらず、天気は最高とは言えませんでしたが、振り返れば八峰の急峻な登山路を見返ることが出来ました。2年前のKWV三田会夏合宿で五竜岳から冷池山荘まで、今回の逆コースで行く予定でしたが、私の体調が前日から悪く、若いリーダが気遣って台風接近を理由にして五竜山荘から遠見尾根を下ることにしてくれました。メンバーに大変迷惑をかけたことが悔やまれました。あれから2年。歳を取り、体力も落ちました。でも、工夫次第でまだ行く方法はあることを実証できました。当時のメンバーには申し訳ありませんでしたが、個人的にはリベンジでき満足の山旅となりました。

(編集子)ったく !!!

(36 田中新弥)堀川の気持ちは、判るような気がする。俺達の針ノ木の下りは俺の記憶では、一つには、あの時の気象条件、みぞれ、残雪、雪の条件、二つ目には、俺達のザックは二人とも重すぎたよ。
俺達は重装備、あれで滑落を針ノ木でしたら、とてもストップ出来ない。
それに、ザイルは確か持ってゆかなかった?ではないか・・・?
あのジャイとの山行は、俺にとっては命を落とす山行との決別だったのかもしれない。だが、針ノ木の斜面のキツさと雪には、ちょっと俺はビビっていた。
どちらかが滑落して命を失ったら・・・・、こんな楽しい人生を享受できなかった、と考えると、未だに身震いするよ。また、何時か、酒でも飲んで話そう。

(37 杉本光祥)コロナ禍の中、相変わらずすごいですね、

このコースは銀行の山岳会で八方尾根から唐松経由で爺岳へとほぼ逆に行ったことがあり懐かしいです。

それにしても80歳で単独行とはそろそろ気を付けてくださいよ。私の友人でも自信過剰の遭難が出ています。自分ではまだ若いつもりでも臓器は老化しているのです。くれぐれもご自戒を、

 

エーガ愛好会(82) ショーン・コネリ―の西部劇   (34 小泉幾多郎)

この8月BSP放映の西部劇は全て昨年の再放映のみだが、BS-TBSで「シャラコ」の放映があり、これが初見のショーン・コネリー主演の唯一の西部劇。007第5作で日本ロケの「007は二度死ぬ」の翌年の作なのに見逃しているとは。大いなる期待をもって観たのだが、残念ながら裏切られたと言っていい。007のショーン・コネリーの西部男ぶりは、それなりに恰好良いところを見せて呉れた。相手役がブリジット・バルドーとは豪華だが、入浴場面とかあるものの、キュートな魅力は都会でないと余り感じなかった。

この二人の魅力よりも、大いに期待したのは、監督がエドワード・ドミトリクだったこと。過去西部劇では「折れた槍1954」「ワーロック1959」「アルバレスケリー1966」等、異色作で内容も素晴らしかったし、西部劇以外でも「ケイン
号の叛乱1954」「山1956」「愛情の花咲く樹1957」等々傑作が多いことから期待大だったのだが。出演者の関係からか、英国映画ということが災いか、先ずは、物語も脚本も陳腐過ぎるのではなかったか。名監督と言えども脚本がしっかりしてなければ、どうにもならない典型。英国の上流階級ご一行様が、趣味のハンティングのため、わざわざニューメキシコまでやって来るという筋立て。そのご一行が、伯爵ペーター・ファン・アイクと妻オナー・ブラックマンや侯爵ジャック・ホーキンスとその愛人バルドー等。やって来た地がインディアン居留地、しかもそれを斡旋したのが案内役のスティーブン・ボイドと脇役人も豪華な顔ぶれが揃う。

居留地での狩なんてインディアンが怒るの当たり前。バルドーが単身狩に出掛け、インディアンに遭遇したところをコネリーに助けられる。このコネリーが白人とインディアンとの混血なのだが、この敵対するインディアンとの関係がはっきりしないことが、最後のインディアンとの戦いにも表れる。しかも案内役のボイドは、馬車を持ち出し金目のものを奪い、他の案内人共々貴族を見捨てて遁走する無責任さ。残された貴族たちは、コネリーの案内で徒歩で逃げることになるが、山登り経験の貴族が、ロッククライミングの技術で活躍するという珍しい場面もある。しかし山へ落ち延びたところへ、インディアンに追いつかれ、最期は首長の息子ウッディ・ストロードとコネリーの一騎打ちに。黒人がインディアンに扮するなんて初めてでは?コネリーの勝利に首長が撤退を約束、コネリーとバルドーは結ばれ終演。全般的に盛り上がらず、西部劇らしい迫力が感じられないうちに終わった感じ。

モンタナの風に抱かれて   (普通部OB 鈴木康三郎)

映画「モンタナの風に抱かれて」は主演・監督ロバート・レッドフォードが監督・主演した。英文の題はHorse Whisperer。13歳の少女は乗馬中の事故で親友と片足を失い深く絶望する。N.Y.で雑誌編集長をする母は娘の回復には、事故で凶暴になってしまった愛馬の治療が必要だと思う。モンタナに馬の心を理解できるという“馬に囁く者”がいると聞き、遠くモンタナまでその男に会いに行く。大自然の中で自然と心を癒されていく馬と娘。母親も調教師の包容力と大自然の中、安らぎを感じいつしか恋に落ちて行くが最後には娘と馬と共にNYに帰って行く。

箱根で覚えた乗馬の腕をモンタナの山の中で試す筆者

アメリカ人の友人がモンタナに大きな牧場を持っていて凄く良い友人がいるから是非行くと良いと紹介された。しかし牧場に行くには乗馬が出来なければつまらない。御殿場の乗馬倶楽部に入り馬も買い鞍なども揃えて富士山の麓を1年程走った。

モンタナの牧場はBosemanと云う西部劇に出てくるような街から45キロ程山奥に入ったところにある。飛行場には牧場主の奥さんパトレシアが迎えに来てくれた。牧場主のジョージは同年配で、1950年頃の良き時代の習慣を頑なに維持している。お爺さんが1897年にオハイオ州から西部に移り住んで牧場を始めた。3200エーカーと云う膨大な土地に自分が建てた数件のログハウス以外何もなく、食事も家族、ゲスト、カウボーイを含む使用人と一緒に同じテーブルで取り、食事の用意が出来るとカラーンと鐘を鳴らし皆が集まる。肉や卵や野菜など食事は全てこの牧場で取れる物で作り、皆で分けるのでとても美味しい。新聞・テレビはなく携帯電話も通じない。

毎日朝9時から12時まで、午後は2時半から5時まで馬に乗る。4代目で本格的はカウボーイのマイクが先導役となって、丘の上を目指して登る。色とりどりの花が咲く花畑を自分の好きなように走る醍醐味は他に例えようが程楽しい。時には朝食後自分でサンドイッチを作り9時過ぎに出発して夕方帰ることもあった。カウボーイ2人と小生だけで7時半かけ45㌔乗った。

ロッジを出て3時間半は歩を休めることなく動き、時々速足、駆け足を入れ昼食の場まで走り続けた。山や谷を越え、川を渡り、急な然も倒木のある坂道を登って行く。雪をかぶった山々が見える木陰で取る昼食は最高で正に絵の中にいるような気分になれた。下りは景色がきれいだが岩だらけの崖や絶壁の細い道を横切ると4本足だとこんな所でも歩けるのだと感じた。

見えるのはカナディアンロッキー。ここで二人に別れたら帰れなくなるので必死だつた。

この牧場にいる牛や馬を別の場所まで移動させる為手伝うこともあった。良く訓練させた犬にカウボーイが指示を与え目的地まで到着するとカウボーイになったような気になった。途中群れをなしたElk(ヘラジカ)、鹿、コヨーテ、熊などに会ったがMountain Lion(クーガ)や狼も見た。牧場主の奥さんパトレシアはBostonの近くから来た人で、前述の「モンタナの風に抱かれて」の母親役に似ていると思った。

カウボーイと云うと牛を追い仕事を終えると酒をあおり、喧嘩が絶えない荒くれ者を思い出すが、牧場主を夢見て西部に移る人達も多かった。1865年にCivil War(南北戦争)が終わった時、持ち主が分からない牛が増え過ぎ、1頭2~3ドルでしか売れなかったが、北部では30~40ドルで売れたので、牛を大量に移動させるのがカウボーイの仕事になった。テキサス州から鉄道がひかれたカンサスやミズーリなどに移動させた牛は1967年から1880年だけで550万頭に達したとい云われている。

(編集子)鈴木康三郎、幼稚舎時代からのあだ名はあの頃は現役の、今でいう有名タレント、エノケンに似ていたからだという。昭和29年卒普通部E組は5組編成の学年のなかでどうしたことか典型的体育会志向仲間が寄り集まり、運動会の棒倒しだの騎馬戦だのでは鉄壁のチームワークを誇ったクラス、当時結成されたラグビー部フィフティーンのうち11人がいた。エノは運動神経と判断力がものをいうフルバック、小生はガタイを買われ(当時すでに今と同じ体格だった)絵にかいたようなスクラム専門だった。エノはどこか大人びたところがあり、中学生ながら映画に強く、表には出ないがなにかといえば頼りにされる男だった。仕事を辞めてしばらくして馬を始めたという話を聞いていたがモンタナへ行く、その一念だったことがようやくわかった。そんな話もこちらから聞かなければ自慢話もしなかった、そういう男である。今は相模CCで(多分、という想像だが)エイジシュートを狙ってもくもくと練習しているはずだが。

(39 木谷英勝)ご無沙汰しています。
何時もCircle be unbrokenを楽しく拝読させて頂いています。
今回 鈴木康三郎さんが登場されたのでびっくりしました。
鈴木さんは私が入社した時は隣の部門におられ、私が1974年にニューヨークに転勤になった時は、既にNYで活躍されておられました。
当時はまだ半年間は家族を呼べない為、他の若手と共に鈴木家でご馳走になった事もあります。NYではゴルフが盛んで鈴木さんもプレイされており、お好きでお上手でした。2〜3年前までOB会でお会いしても、馬の話もモンタナへ行かれた話も全く出た事が有りません。
話は変わりますが、孫の一人がパロアルトで産まれました。従い、家内は兎も角私もかなり長い間滞在しました。761 Stone Lane という所で駅から歩ける距離でもあり近くを含み随分歩き回りました。

(編集子)さきほどの電話は大変びっくりしました。こういうことが起きると嬉しくなります。今後ともお付き合いください。普通部時代のクラス会もここ数年で主力がつぎつぎと旅立ってしまい、それに加えてコロナ自粛、エノにもしばらく会っていません。

エーガ愛好会(81)  高倉健!  (普通部OB 船津於菟彦)

先ずこの顔見て下さい!男・高倉健ここにあり。

酒気吞まない。煙草も止めた。
高倉の寡黙な立ち姿と目力が東映任侠路線でその威力を発揮した。スターであることを宿命づけられた高倉は以降、無口で禁欲的で任侠道を貫く男という像を壊さぬよう真の映画スターとしての生き方を貫いた。自らを厳しく律して酒を飲まず、筋力トレーニングを続けていた。
これ以降、仁侠映画を中心に活躍。耐えに耐えた末、最後は自ら死地に赴くやくざ役を好演し、ストイックなイメージを確立した。1964年から始まる『日本侠客伝シリーズ』、1965年から始まる『網走番外地』シリーズ、『昭和残侠伝シリーズ』などに主演し東映の看板スターとなる。
男・高倉健は1931年2月16日、福岡県中間市の裕福な一家に生まれる。父は旧日本海軍の軍人で、炭鉱夫の取りまとめ役などをしていた。母は教員だった。幼少期の高倉は、肺を病み、虚弱だった。終戦を迎えた中学生の時、アメリカ文化に触れ、中でもボクシングと英語に興味を持った。学校に掛け合ってボクシング部を作り、夢中になって打ち込み、戦績は6勝1敗だった。英語は小倉の米軍司令官の息子と友達になり、週末に遊びに行く中で覚え、高校時代にはESS部を創設して英語力に磨きをかけた。旧制東筑中学、福岡県立東筑高等学校全日制課程商業科を経て、貿易商を目指して明治大学商学部商学科へ進学。在学中は相撲部のマネージャーを1年間務めていた。英語の得意な男・高倉健。60年代半ばの東映による任侠映画ワンパターン量産体勢は高倉を疲弊させ、結果的に気持ちが入らない不本意な演技が見られるようになった。
1959年2月16日(高倉が28歳の誕生日の時に)、1956年の映画『恐怖の空中殺人』での共演が縁で江利チエミと結婚。3年後の1962年、江利は妊娠し子供を授かるが重度の妊娠中毒症を発症し、中絶を余儀なくされ子宝には恵まれなかった。江利の異父姉が様々なトラブルを起こし、結婚に悪影響を及ぼしたとされる。江利側からの申し入れで1971年9月3日に離婚した。離婚原因は江利チエミの親族にまつわるトラブルからである。
その後、高倉は女性との交際の噂はあったものの、再婚はしなかった。一方、離婚から11年後の1982年2月13日に、江利は脳卒中と吐瀉物誤嚥による窒息のため、45歳の若さで不慮の急死を遂げている。葬儀には姿を現さなかった高倉だが、江利の命日には毎年、墓参りは欠かさず、花を手向け、本名を記した線香を贈って居た。また、2009年11月、同年8月に亡くなった女優の大原麗子の墓参に訪れ掃除をし、30分以上語りかけていたことが2010年8月に報じられた。
礼儀正しい人物であり、すべての共演者に挨拶を忘れず、監督やプロデューサーをはじめ、若い新人俳優やスタッフにも必ず立ち上がり、丁寧にお辞儀して敬意を払う。映画俳優って一番大事なところは何かっていうと、その感受性の所だけなのかなって、それはもう自分の感性、感じられる心を大事にする。それしかない。
余計なテクニックを廃し、最小限の言葉で、演じる人物の心に込み上げるその瞬間の心情を表す台詞・動きを表現する芝居を真骨頂としており、基本的に本番は1テイクしか撮らせない。これについて「映画はその時によぎる本物の心情を表現するもの。同じ芝居を何度も演じる事は僕にはできない」と述べている。また「普段どんな生活をしているか、どんな人と出会ってきたか、何に感動し何に感謝しているか、そうした役者個人の生き方が芝居に出ると思っている」としており、肝に銘じているという。「俳優にとって大切なのは、造形と人生経験と本人の生き方。生き方が出るんでしょうね。テクニックではないですよね」とも言い切る。東京アメリカンクラブのメンバーである高倉は外国人の友人・知人が多い。千葉真一は高倉に誘われて同クラブへ行った時や、パンアメリカン航空のパーティーへ出席した時に、千葉のファンであるフライトアテンダントを高倉から紹介されたりなど、ハリウッド映画出演前から英語に堪能な高倉を目の当たりにしている。
2013年10月25日、政府は高倉を含む5人に文化勲章を授与することを決定。11月3日、皇居で親授式が行われた[。親授式後の記者会見で高倉は、「日本人に生まれて本当によかったと、今日思いました」と述べている。また、この受章については親授式前の10月にも、「今後も、この国に生まれて良かったと思える人物像を演じられるよう、人生を愛する心、感動する心を養い続けたいと思います。」とのコメントを発表している。

2014年11月10日午前3時49分、悪性リンパ腫のため東京都内の病院で死去。5年ほど前に前立腺癌で手術を受けて寛解したものの、その定期検査で悪性リンパ腫が発見されて療養していた。「入院中の姿を見せたくない」と親しい関係者だけにしか知らせておらず、容体が急変して意識不明になったのは亡くなる数日前で安らかな笑顔で旅立っていた。満83歳没。高倉の遺志により近親者によって密葬が執り行われた。終わった同月18日に高倉プロモーションから「往く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし」の言葉が添えられたFAXでその死が発表された。

最後まで「本番は1テイクしか撮らせない」男・高倉健。

高倉健の映画一覧

エーガ愛好会 (80)  くだらないエーガって楽しいぜ  (普通部OB 菅原勲)

昼飯後、余程のことがない限り(例えば、「緋牡丹博徒」)、爆睡してNHKは見ておりません(金藤さん、ご免なさい)。ですから、以下の映画は、夕食後、CATVで見たものばかりです。

一つ目は、「96時間」(2008年)。元CIAの工作員である、リーアム・ニーソンが、誘拐された娘を96時間以内、即ち、4日以内に取り戻す話しです。ニーソンが強い、強い、また、強い。悪い奴に雇われた良い奴(?)を次から次に殺しまくり、娘を助け出します。あの「シンドラーのリスト」のシンドラーってこんなことまでやる奴だったのか。

二つ目は、「夢のチョコレート工場」の続編「チャーリーとチョコレート工場」(2005年)。工場長のジョニー・デップが、例によって、我儘勝手な子供を、彼らを甘やかしていた親ともども、色々な仕掛けのある工場に招待し、懲らしめるお話しです。秀逸なのは、噛むと食事のコースが味わえるガムです。ひときわ我儘な女の子が、スープ、主菜、と来て、デザートはブルーベリー。ところが、それを味わった途端、女の子は、ブルーベリーとなって、ゴミ捨て場に落ち込みます。

三つ目は、「ミッション・インポッシブル」の第6作、「ミッション・インポッシブル/フォールアウト」(2018年)。至極、複雑な話しですが、要は、トム・クルーズが、原爆のよる爆破を1秒前に阻止するお話しです。ここでも、クルーズは不死身。最後は、カシミールにある絶壁で格闘し、滑り落ちて、垂直な壁にしがみつき、五輪のスポーツ・クライミングの金メダリストにも真似の出来ない離れ業を演じて世界を救う。なお、「96時間」も「ミッション・・・」も主な舞台は、皆様のお好きなパリです。ニーソンは走って走って、また、走って、セーヌ河を行くボートに乗り移ったり(ここで娘を取り戻します)、クルーズもパリの町を駆け抜けます。何故か、小生の中では、両方がゴッチャになっています。

見る人が見れば、クダラナイ、バカバカしい、碌でもない映画です。でも、だからこそ無条件で面白い。世に言う傑作、名作ばかりが映画だとは思いません。大いに楽しみました。

(編集子)スガチュー、いいこと言うね。こういう小生もCATVの3つか4つのチャネルを駆け回って ”くだらない” と卑下することは不要と思うが、まあ名作傑作というにははばかられるカツゲキものを愛好している。

何度か触れたが、”時代劇専門チャネル” に復活した、いわば二大江戸町奉行すなわち ”遠山の金さん”(松方弘樹ほか)および ”大岡越前”(加藤剛)をほぼ欠かさず見ている。”金さん” は目下放映時間がニューズ番組とぶつかるので、少し頻度は落ちたが、”大岡” は午後5時放映、と理想的なので、ジントニックとつまみの沢庵3キレをもってテレビの前に座るのがここ半年くらいの日課である。ほかにもこれまた無敵荒唐無稽ヒーローの典型、スティーブン・セガールのシリーズとか、時々出てくる準(?)正当もののトム・クルーズ、最近売り出し中のジェイムズ・バトラーのものなんかである。いくつかのチャネルではなつかしいセーブゲキも時々出てくる。昨日なんとなく合わせたチャネルで リオグランデの砦 をやっていたので、キャストで今まで知らなかったのを確認したり、サンズオブパイオニアーズのコーラスに集中したり、再発見がいろいろあって楽しかった。

”大岡”シリーズはいやはや大部なもので、発足当時の加藤剛と第12部(!)あたりの加藤とは別人といえるくらい変わっている。シリーズキャラクタも入れ替わるけれども高橋元太郎と松山英太郎だけは出ずっぱりで、昔をしのぶには結構な時間である。”金さん” はストーリーの必然的展開として 最後に奉行がもろ肌脱ぎ ”この桜吹雪、知らねえたあ言わせねえ。てめえらま、だシラ切ろうってのか!” と言わなければならないので、落ちは絶対に勧善懲悪の断罪なのだが、”大岡” のほうは例えば有名な 三方一損損 のような人情ものもあったりするし、その白洲では推理小説でよくつかわれるトリックが解明されたりと、変化に富む。ただ最初の15分程見ればほぼストーリーの組み立てはばれてしまい、小生はこれをパターンAからパターンCと分類していて、最後にやっぱしそうだろ、越前!と納得するのが楽しい。

ま、船津のつぶやきではないが…….もっとも奴はカツゲキなんかみないだろうが…….エーガっていいなあ。

 

 

“モン族” ― 映画 グラン・トリーノ のこと

今朝の読売新聞8面、”アジア系米国人” 特集記事にベトナム戦争の時期、ラオスからアメリカへ難民としてわたってきた “モン族” のことが書かれている。この人たちのことを知った(はじめてその前を聞いた)のは、クリント・イーストウッドの映画 グラン・トリーノ である。頑固で孤独で子供たちからも疎まれる老人が心を開いたのが隣家にすむモン族の家族だった。その家の姉兄を人種差別から守り自立させようとする老人の、人生最後の善行を描いた映画である。

アメリカ車全盛の50-60年代、かの フォード・マスタング とそれに対抗してGMが投入したシボレー・カマロが若者の心を虜にしていた。まだアメリカンモーターズという会社があったころで、このメーカーが出したジャヴェリンだとか流線形が美しかったダッジチャージャーなんかが街を席巻していた時期、小生はカリフォルニア駐在で一度でいいからあんなのに乗ってみたい、と指をくわえていた。グラン・トリーノはまだ姿を現していなかったように思う。だが、人種問題などが我々局外者には無縁だったという限定詞付きではあるが、今思えば、よきなつかしき、アメリカ、があった時代だった。

映画は人種差別や家族崩壊などが日常化していた時代の、いわばおとぎ話に近いストーリーであるが、昨今の新聞記事あるいは旧聞にはなるがトランプ騒動で顕在化した白人至上主義の残滓、さらに最近激化の一途をたどる中国人排斥,片や動機さえ特定できない市民間の銃撃など、昨今のアメリカ社会の在り方には暗澹たるものがある。一方、全米人口に占める白人種の比率はすでに逆転し主力はヒスパニックと黒人にうつりつつある。かててくわえてアフガンの傀儡政権がもろくも馬脚を現した現時点ではさらにアラブ対キリスト教国間の対立が激化する恐れが高いようだ。このような危機に対する政治の力はいかにも無力であるように思える。

世界の各地で、グラン・トリーノが示した寛容と決意が生まれていくことを望むや切、である。