エーガ愛好会 (162) 無法松の一生   (普通部OB 舩津於菟彦)

見ました!久し振りに日本映画のモノクロながら素晴らしい映像美の映画を拝見しました。影とか人力車の車輪の影とか色々な撮り方で映画にリズムを付けて居る。その後の宮川和夫の映像美が頷けます。
筋は至って簡単ですが解り易く、日本人の心にジーンと来ますね。名作です。
1943年(昭和18年)製作 大スター、「阪妻(バンツマ)」こと阪東妻三郎主演、伊丹万作が脚色、伊丹の盟友・稲垣浩が監督した人力車夫の一代記。戦時中に公開されて大ヒットした日本映画史上屈指の名篇で、後に『羅生門』『雨月物語』などの傑作を手掛ける名カメラマン、宮川一夫が挑んだオーヴァーラップ撮影は、今観ても画期的。この宮川一夫の映像美は素晴らしい!斬新な手法で映画の中に引き込まれるような映像美を作りだしている。
日露戦争が終わったばかりの九州・小倉。喧嘩っ早いが根は一本気な富島松五郎(阪東妻三郎)は、仲間から〈無法松〉と呼ばれる名物車夫だった。ある日、怪我をした陸軍大尉・吉岡の息子、敏雄(沢村アキオ/長門裕之)を助けた松五郎は、吉岡家に出入りするようになる。その後、大尉が急逝してからというもの、松五郎は、吉岡家の未亡人よし子(園井恵子)と敏雄に対して献身的に尽くし始める。美しい未亡人への恋心を胸の内に秘めながら―。
最後は山車に乗って撥を取り太鼓を打つ。流れ打ち、勇み駒、暴れ打ち。長い間聞くことのできなかった本場の祇園太鼓を叩き、町中にその音が響いた。
それから数日後、松五郎は吉岡家を訪ね、夫人に対する思慕を打ち明けようとするが、「ワシの心は汚い」と一言言って、彼女のもとを去った。その後、松五郎は酒に溺れ、遂に雪の中で倒れて死んだ。彼の遺品の中には、夫人と敏雄名義の預金通帳と、吉岡家からもらった祝儀が手を付けずに残してあった。
余談 吉岡夫人を演じたのは園井恵子。1913年(大正2年)岩手県生まれ。1930年に宝塚少女歌劇に入団。幅広い役柄を演じ、1938年からは映画にも出演。1942年、宝塚退団後は新劇女優に転向。本作への出演は、候補になっていた女優が妊娠したためのピンチヒッターだったが、映画の大ヒットによりその名は一躍全国に知れ渡った。1945年8月6日、当時所属していた移動劇団「桜隊」の活動拠点だった広島市で原子爆弾投下に遭い、同月21日に32才で死去した。
戦前は内務省に戦後はGHQに一部カットされたため稲垣は完全版を撮るために1958年(昭和33年)にリメイク版を製作し、人気絶頂の三船敏郎を主演にカラー、スコープサイズで自らリメイク。オリジナル版は検閲によっていくつかの場面がカットされてしまったが、このリメイクはヴェネツィア映画祭・金獅子賞を受賞。監督は無念を晴らした。

(保屋野)オリジナルは観てませんが、リメイク版はビデオで何回も観ています。何といっても「デコちゃん」が出ているので。

リメイク版も、ベネチアの金獅子賞をとっている名作ですが、後年、高峰秀子は「オリジナルには適わない」と云ったそうです。

楚々としたデコちゃんはもちろん魅力的でしたが、やはり、三船敏郎の「祇園太鼓」を打つシーンが圧巻でした。(最後の縁側シーンで花火を見るデコちゃん・・・美しすぎます・・・)

(安田)映画の舞台となった小倉は僕の出身地。幼少の頃から夏祭りの「祇園太鼓」には馴染んでいた。地元の地名、若松 城野 堺町 古船場町eytc、三船敏郎の祇園太鼓の独特のリズムがある流れ打ち・暴れ打ち・勇み駒など、全てが懐かしかった。唯一違和感があったのは、無理もないが小倉方言にはや程遠い喋り口だったこと。

小倉祇園祭は400年の歴史を持つ小倉城内に鎮座する八坂神社の例大祭。キリシタン・細川ガラシャとして知られる明智光秀の娘・玉子の夫は丹後の国(兵庫県)出身の戦国武将・細川忠興。東軍・徳川家康方についた彼は関ヶ原の戦いの功により、40万石の大名に任ぜられ、慶長7年(1602年)に大規模な小倉城の築城を始め、元和3(1617)年に、城下町としての繁栄のために祇園社を創建して領内の総鎮守とし、祇園祭が始まった。山車に据え付けられた太鼓の音が無数に重なる勇壮な祭り行事。その激しい独特の音は、天下泰平・護国豊穣+安全・商売繁盛・悪疫退散を願っている。

前置きが長くなったが映画のことである。阪妻ヴァージョンは未観。三船敏郎・デコちゃんヴァージョンを観ている。船津さんの名解説で腹一杯なので加えることはないが、恋愛沙汰には不器用な役者三船敏郎の健気ではにかんだ、未亡人への思慕の感情を押し殺した松五郎の演技に“三船敏郎”ここにありを魅せられた。
未亡人の一人息子・敏雄の通った旧制小倉中学は僕の出身校小倉高校の前身。彼が被っていた制帽を僕も被っていたなと60年前を思い出した。

若い時の苦労がコンプレックスとなり、弱い自分を強がる仕草で克服しようとした松五郎の生き様と自分も幼少期に戻りたい願望が敏雄への対応、良子未亡人への優しさに表れていると感じた。
未亡人が訪ねてきた時、若い女性の載ったポスターを二つ折にして隠すしぐさに彼の彼女への思慕の本心が垣間見えた。祇園太鼓を打ち終え、彼女を独り訪ねた折、庭先で「奥さん、今日は本当にお美しい!」、嗚咽するように「俺の心は汚い」と言い放って去って行くシーンに、彼女との永遠の別れを覚悟した孤独な男の姿があった。最後に人力車の車輪が止まるエンディングに彼の(死)が象徴されていた。白眉の三船敏郎の祇園太鼓打ちシーンをもっと長く見たかった。

当時34歳の高峰秀子の凜とした清楚で品のある美しさ、と「羅生門」「7人の侍」を経た男盛りの38歳三船敏郎、共に見応えがあった。阪妻と、原爆で2年後に早世した園井恵子ヴァージョン(1943年版)を観てみたい。