扇沢ーKWV三田会22年度夏合宿の記憶

KWV三田会の夏合宿が3年ぶりに復活した。しかし今年は参加に躊躇があった。なんといっても3年間の自粛の間に体力気力の激減を感じていたし、自分の年齢と過去の経験を振り返ってみて、老害とまではいかなくても、若い連中に迷惑をかける前に潔く引退する時期になったのではないか、という気持ちが強かったからだ。このもやもやした気分に踏ん切りをつけてくれたのが、送られてきたコース案内の中に見つけたある地名だった。

扇沢。

白馬岳に端を発する後立山連峰は本州を二分するように南下した後、鹿島槍をすぎて西側に向きを変え、針の木岳からクランク状に再び南下する。この曲がり角に位置する爺岳から流れ出すのが扇沢という急流である。今は黒部ダムへのアプローチルートとして広く知られるようになった地名だが、僕には全く違った意味を持って記憶されているところなのだ。

慶応高校に進学した1951年、クラス担任が故片倉康寿教諭だった。片倉さんは日本アルピニズムの創立者の方々、三田さんとか槙さんとかの山歩きはこうだっただろう、と思わせる、クラシック・アルピニストというべき経験と風貌を持っておられたが、この1年の夏、年来の付き合いだったという地元の老ガイドとふたりでクラス仲間十数人を白馬へ連れて行ってくれた。信濃森上から栂池を越え大雪渓を下るという標準コースだったが、これに興味を覚えた8人ほどの仲間が片倉ファミリーとして2年の夏には白馬―針の木、3年次には剣立山から黒部へ降りて針ノ木、卒業の春にはまだ雪も深かった丹沢、と旅を重ねることになった。

その2年夏のプランのとき、今となってはなぜだったか記憶がないのだが、途中で下山を余儀なくされ、その時下ったのが扇沢、だった。沢下り、といっても岩好きの連中がイメージするようなものではなく、ただ急峻ででかい石がごろごろした、しかし最高に旨い水の流れ、と言った方が正解だったろうが、初心者のわれわれには、澤を下る、という言葉の響きが何か特別に聞こえたものだった。その興奮が終わった後、7月の容赦ない炎天下をただひたすら歩いた。バスがあったのかどうかも覚えていないが地図にある大谷原、という部落名に覚えがあったから、このあたりまでは歩いたのだろう。

こう書いてしまえば、山を歩いた人ならなんともつまらなく、アタリマエのことで、おそらく SO WHAT ? と思われるに違いないが、扇沢、という地名が特別に記憶されるには理由がある。そのことを書こうと思う。

2年の春、当時4年生の金井先輩に金峰山へ連れて行っていただいたことがある。いつでもダークグリーンのシャツに黒いベレーが実によく似合っていたロマンチスト金井さんの山歩き論というかセンスは僕のあこがれになった。金井さんが勧めてくれ、今では “北八ツ彷徨” と並んで僕の本棚で別格の雰囲気を持っている名著、加藤泰三 ”霧の山稜“ のある章に、 (一夜を過ごしたテントを撤収したら、小さなくぼみがあった。張るときには気がつかなかったくぼみだが、それは今は、僕に印象されたくぼみなのだ) という一節がある。数多くの木版画(加藤氏はその才を惜しまれつつ戦火に倒れた版画家だった)や、エスプリの利いた文章の中で、どういうものかこの一節が僕の記憶にある。つまり、扇沢、はあまたある無名の沢の一つに過ぎないが、”僕に印象された沢“、なのだ。

前にも書いたように、この沢そのものに何があるわけではない。まして、その地名を借りて、かつては大トンネル工事のための重量車両がうなりを上げた道路が作られ、その結果、名前が天下に出ただけで、この道路があの沢の流れにつけられたというわけではない。路線バスに乗っている間、必死になって窓の外を見ていて、ときどき、樹林の裂け目に白く砕ける流れがひらめいたり、ゴロゴロした石が散見されるたびに。(あ、あれがそうか)と勝手に決めつけて納得した。これが扇沢との再会、にすぎなかった。では、なぜ、この沢が 僕に印象された沢、なのか。

さきに書いた、片倉さんに連れて行ってもらった第一回のアルプス行は、だれにでもあるだろうある夏に起きた一つのエピソードにすぎなかったのだが、この第二回目の縦走行とはじめての沢下り、という体験は僕の心の中にはっきりと(登山)という概念を植え付けた。それは第三回目の立山―針の木の旅、特に黒部の急流をロープ頼りに必死で渡り、針の木の大雪渓を恐る恐る降りた、その経験で絶対的なものになり、大学進学と同時に(ワンダーフォーゲルという活動がある、ということは片倉さんから教えられていた)何の迷いもなくKWVへの入部を決めた。同じことがこの二つの旅を共にした3人のクラスメート、浅海昭、田中新弥、故飯田昌保に伝染したのだった。そして彼らと僕はあの ”扇沢下り“ という小さな偶然から、生涯の友として生きてきた。

間もなく完結する自分の人生航路を振り返ってみて、いくつかの偶然としか言えない事象がその後のコースを決定した、という事実に改めて驚かされる。その中でも自分の大学生活イコール社会生活のコースまで決めたのがKWVでの4年間であり、そのきっかけとなったのが片倉さんとの三つのアルプスの旅であったことをしみじみとありがたく思う。その中で、闇雲に歩いただけの “あの扇沢” は、まさに“僕に印象された沢” なのである。