”置き配” と タブレット

仕事を辞めて数年してから、一念発起してポケットブックを原文で読み始めた。その一つのきっかけがアマゾンの存在である。学生時代から社会人5年生くらいまでの間、年に数冊は原書を読むことにしていたが、その本はすべて丸善まで行かなければ買うことができなかったし、たまたま店にあった本を買ってくるだけだった。しかしアマゾンという仕掛けを知ってからはその便利さに完全にはまってしまって、月に一度くらいはポケットブックを届けてもらうようになり、最近は “置き配” という方法で本が届く。誠に便利であるし、配送業者にしてみれば時間と手間の削減、硬くいえば労働生産性の向上に効果があるのはよくわかる。

しかし考えてみるとこのような方法はその社会環境に左右される。言いかえれば、よく調べたわけではないが、世界広しといえども、”商品、家の前に置いておきましたよ“ で配達が済む国はわが国だけではないだろうか。届け物を玄関先においても盗難にあう心配をしないで済む国、工事現場に材料やら機械やらを置いて帰っても翌朝にはちゃんとある国、さらに最近夫婦して経験したのだが、どこへ置いてきたかも覚えていないスマホがきちんと戻ってくる国。犬を連れて散歩する人がシャベルに袋まで持って後始末をする国。欧州の先進文化圏にはほとんど行ったこともないので断言しないが、少なくとも米国には全く存在しない安心というものがこの国では至極当然のことになっている。そういう文化があるからこそ、”置き配“ による生産性の向上ができるわけだ。

”我が国の労働生産性は低すぎる“ ”先進国ではこんなことはない“ ”日本はだからダメなんだ“ 一連の識者と呼ばれる先生方は異口同音に発言される。労働生産性、とは要は付加価値、わかりやすくいえば売上金額をそれにかかわる人数で割った比率のことなのだから、その人数が減れば当然向上する。この手の議論には全く経験がないので判然としないのだが、生産性、を上げるために人手を減らす。そこまでは問題ない。しかしそこで ”減らされた“ 人の雇用はどうなるのか、その結果が引き起こす社会現象はどうなるのか、生産性とたとえば失業率とか犯罪発生率とかの関連、そのあたりについて、かの識者先生方のお考えはどうなのだろうか。

コロナ対策で始まった(と理解しているのだがどうもコロナが収まっても続くだろう)現象の一つに、レストランでのタブレット注文、というのがある。これも工数削減に確かに効果があるだろうことは素人目にも確かである。しかし、である。ま、仕事途中にかきこむランチならともかく、一息入れようかというつもりの場での一つの楽しみはやはり店の雰囲気であり、それが一番よくわかるのが店員さんの応対であり、何気ない会話であり、なじみになれば冗談の一つも交わす、というものなのではないか。それが無機質なタブレットに置き換わってしまう、この大げさに言えば喪失感(!)というか断絶というか、たまらなくつまらない。ここまでやるのなら、言ってみれば自動販売機の前にすわるのと同じではないか。

生産性の分母にあたる人数については、レストランの話はともかく、日本における雇用形態と関連があるのは当然で、アメリカ流の hire and fire が前提ではない。この日本的雇用形態についてもうんざりするほどの議論があるのは承知しているが、基本的に個人を尊重しながら社会の調和を考える日本文化は存在し続けるだろうししてほしい。”個人の自由“ を尊重するからマスクはしない、というような理屈ばかりの議論がまかり通る国では、結局, ”置き配“ は実現できないだろう。