モンタナの風に抱かれて   (普通部OB 鈴木康三郎)

映画「モンタナの風に抱かれて」は主演・監督ロバート・レッドフォードが監督・主演した。英文の題はHorse Whisperer。13歳の少女は乗馬中の事故で親友と片足を失い深く絶望する。N.Y.で雑誌編集長をする母は娘の回復には、事故で凶暴になってしまった愛馬の治療が必要だと思う。モンタナに馬の心を理解できるという“馬に囁く者”がいると聞き、遠くモンタナまでその男に会いに行く。大自然の中で自然と心を癒されていく馬と娘。母親も調教師の包容力と大自然の中、安らぎを感じいつしか恋に落ちて行くが最後には娘と馬と共にNYに帰って行く。

箱根で覚えた乗馬の腕をモンタナの山の中で試す筆者

アメリカ人の友人がモンタナに大きな牧場を持っていて凄く良い友人がいるから是非行くと良いと紹介された。しかし牧場に行くには乗馬が出来なければつまらない。御殿場の乗馬倶楽部に入り馬も買い鞍なども揃えて富士山の麓を1年程走った。

モンタナの牧場はBosemanと云う西部劇に出てくるような街から45キロ程山奥に入ったところにある。飛行場には牧場主の奥さんパトレシアが迎えに来てくれた。牧場主のジョージは同年配で、1950年頃の良き時代の習慣を頑なに維持している。お爺さんが1897年にオハイオ州から西部に移り住んで牧場を始めた。3200エーカーと云う膨大な土地に自分が建てた数件のログハウス以外何もなく、食事も家族、ゲスト、カウボーイを含む使用人と一緒に同じテーブルで取り、食事の用意が出来るとカラーンと鐘を鳴らし皆が集まる。肉や卵や野菜など食事は全てこの牧場で取れる物で作り、皆で分けるのでとても美味しい。新聞・テレビはなく携帯電話も通じない。

毎日朝9時から12時まで、午後は2時半から5時まで馬に乗る。4代目で本格的はカウボーイのマイクが先導役となって、丘の上を目指して登る。色とりどりの花が咲く花畑を自分の好きなように走る醍醐味は他に例えようが程楽しい。時には朝食後自分でサンドイッチを作り9時過ぎに出発して夕方帰ることもあった。カウボーイ2人と小生だけで7時半かけ45㌔乗った。

ロッジを出て3時間半は歩を休めることなく動き、時々速足、駆け足を入れ昼食の場まで走り続けた。山や谷を越え、川を渡り、急な然も倒木のある坂道を登って行く。雪をかぶった山々が見える木陰で取る昼食は最高で正に絵の中にいるような気分になれた。下りは景色がきれいだが岩だらけの崖や絶壁の細い道を横切ると4本足だとこんな所でも歩けるのだと感じた。

見えるのはカナディアンロッキー。ここで二人に別れたら帰れなくなるので必死だつた。

この牧場にいる牛や馬を別の場所まで移動させる為手伝うこともあった。良く訓練させた犬にカウボーイが指示を与え目的地まで到着するとカウボーイになったような気になった。途中群れをなしたElk(ヘラジカ)、鹿、コヨーテ、熊などに会ったがMountain Lion(クーガ)や狼も見た。牧場主の奥さんパトレシアはBostonの近くから来た人で、前述の「モンタナの風に抱かれて」の母親役に似ていると思った。

カウボーイと云うと牛を追い仕事を終えると酒をあおり、喧嘩が絶えない荒くれ者を思い出すが、牧場主を夢見て西部に移る人達も多かった。1865年にCivil War(南北戦争)が終わった時、持ち主が分からない牛が増え過ぎ、1頭2~3ドルでしか売れなかったが、北部では30~40ドルで売れたので、牛を大量に移動させるのがカウボーイの仕事になった。テキサス州から鉄道がひかれたカンサスやミズーリなどに移動させた牛は1967年から1880年だけで550万頭に達したとい云われている。

(編集子)鈴木康三郎、幼稚舎時代からのあだ名はあの頃は現役の、今でいう有名タレント、エノケンに似ていたからだという。昭和29年卒普通部E組は5組編成の学年のなかでどうしたことか典型的体育会志向仲間が寄り集まり、運動会の棒倒しだの騎馬戦だのでは鉄壁のチームワークを誇ったクラス、当時結成されたラグビー部フィフティーンのうち11人がいた。エノは運動神経と判断力がものをいうフルバック、小生はガタイを買われ(当時すでに今と同じ体格だった)絵にかいたようなスクラム専門だった。エノはどこか大人びたところがあり、中学生ながら映画に強く、表には出ないがなにかといえば頼りにされる男だった。仕事を辞めてしばらくして馬を始めたという話を聞いていたがモンタナへ行く、その一念だったことがようやくわかった。そんな話もこちらから聞かなければ自慢話もしなかった、そういう男である。今は相模CCで(多分、という想像だが)エイジシュートを狙ってもくもくと練習しているはずだが。

(39 木谷英勝)ご無沙汰しています。
何時もCircle be unbrokenを楽しく拝読させて頂いています。
今回 鈴木康三郎さんが登場されたのでびっくりしました。
鈴木さんは私が入社した時は隣の部門におられ、私が1974年にニューヨークに転勤になった時は、既にNYで活躍されておられました。
当時はまだ半年間は家族を呼べない為、他の若手と共に鈴木家でご馳走になった事もあります。NYではゴルフが盛んで鈴木さんもプレイされており、お好きでお上手でした。2〜3年前までOB会でお会いしても、馬の話もモンタナへ行かれた話も全く出た事が有りません。
話は変わりますが、孫の一人がパロアルトで産まれました。従い、家内は兎も角私もかなり長い間滞在しました。761 Stone Lane という所で駅から歩ける距離でもあり近くを含み随分歩き回りました。

(編集子)さきほどの電話は大変びっくりしました。こういうことが起きると嬉しくなります。今後ともお付き合いください。普通部時代のクラス会もここ数年で主力がつぎつぎと旅立ってしまい、それに加えてコロナ自粛、エノにもしばらく会っていません。