時代劇チャンネルを見て思うこと

テレビ放送の初期、ほぼ毎日何か連続ドラマを見るのが当たり前だった。拳銃無宿、ライフルマン、サンセット77、ララミー牧場にペイトンプレース、8時になればジャイアンツ戦、と夕食後の時間の使い方はテレビ次第だった期間があったが、昨今は全盛のバラエティ・お笑いものには全く無縁でニュースとミステリチャネルくらいしか見向きもしてこなかった。それを此処へ来てそのパターンを変えた。コロナ騒動の影響でテレビを見る時間が増えたのが直接の理由であるが、時代劇専門チャネル(502)で夕食前に放映される 大岡越前 と 遠山の金さん という2本を見ることにしたのである。

周知のように主人公二人とも実在の人物ではあるが、ふたつの作品は徹底した娯楽ドラマであって、史実に忠実であろうとする大河ドラマのように厳密な時代考証があるわけではないし、この二人が活躍した時代にはほぼ100年の違いがあるのだが、街並みのセットも登場人物の風体や振る舞いも全く違わない、時代劇東映 のスタジオ作品である。町奉行ともなれば街へ出るには駕籠を使うような待遇だったというが金さんは毎日遊び人暮らしだし、越前は深編笠こそかぶってはいるがひとりで居酒屋へ現れる始末、うるさいことを言えばきりがないのだが、そういうことよりも背景に描かれる江戸の街、江戸市井の人々の描写が実にいいのである。グーグルによれば、どういう理由だったのか知らないが遠山は北町奉行を2度、勤めている。もしかして一度退任後、超豪華接待で後任者が辞職してその後の整理のため…..等でもあったのかもしれない。大岡はドラマでは山口崇が扮する八代将軍吉宗の、遠山は家斉、家慶の治世の人物である。

金さん のほうは徹底して自ら修羅場に登場するマッチョの勧善懲悪、白洲では言い逃れをする犯人に最後に自らが肌脱ぎになって “てめえら、この桜に見覚えがねえってのか?” というセリフが出なければ終わらない、徹底したワンパターンものである。越前 のほうは題材が必ずしも勧善懲悪パターンだけではなく、人情ものもあれば当時の街中の人々に溶け込んだ話が結構たくさんあって、白洲でのいわゆる越前裁き、そのものがどうなるか、最後まで決着がわからないという仕掛けである。金さんの役は小生が見るようになってからでも、松方弘樹、杉良太郎、そのほかあり(まだ見る機会がないが、橋幸夫版もある)、いま再放送のシリーズでは高橋英樹と変わってきたが、なんといっても松方金さんが一番よかった。生まれつき持っていたのだろうが無頼性というか不良性というか、それがよかった。ほかの配役、特にいまの高橋英樹は上品すぎるというか甘すぎる感じがする。引き換え、越前の加藤剛は徹底して格式高いサムライを演じているが、夫人雪絵役の宇津宮雅代、こんな魅力ある女優がいたのかと今頃感激する。渋い大坂士郎にコメディ調で常連の高橋元太郎に松山英太郎、時々登場する片岡千恵蔵などなど、何 よりも脇役陣が楽しい。

ところで、ここでエーガ愛好会の話をするのが本稿の目的ではない。言いたいのは、この二つのドラマをみて感じる、史実でいえばほぼ百年続いているはずの、江戸 のすばらしさである。大岡の私邸の豪華さにくらべて町人の家なみや長屋の貧弱さ、多くのストーリーで悪役をつとめる豪商たちの生活、浪人たちの困窮、大岡夫人が口を開けば下働きの少女にさとす ”おなごは殿方のなさることに口を出すものではありませんよ“ というせりふ、すべて現代われわれが何かといえば話題にする階級社会だとか格差だとか男尊女卑だとか、それだけとりだせば(今の眼で見れば)問題だらけの社会のはずなのだが、そこに生きている人たちの生き生きとした振る舞いや人情の通い合いとか、そういうことがらのことである。

僕らが教わってきた歴史によれば、このような春風駘蕩の世の中が外国列強からの脅迫により体制の変革を要求されて、いわゆる明治維新に至り、その結果、列強に伍することのできる近代国家ができたのだ、ということになっている。その感覚というか、司馬史観というのか、それをもっとも明確に書いたのが 坂の上の雲 で、白状すれば、僕は徹底した司馬ファンであり、江戸から東京への変革についてもこの小説の描いたものを信じる、といえば少し変だが、維新によってこの国はより素晴らしいものになったのだ、と思い込んでいた。しかしこの2本のテレビプログラムの背景をなす(どこまで考証されたものか、は別問題として) 江戸 の街を見て、昨今、いろんなシーンで議論される 日本は先進国ではなくなった(なりつつある)という議論を疑うようになった。別の言い方をすれば、”先進国“ とは何を言うのか、という疑問でもある。ヨーロッパの国々の成熟度(この定義そのものにも疑問はあるのだが)を示す、経済、社会、政治、いろいろな分野で彼らが作ってきたものをいうのか。つまり彼らの作ってきた民主主義国家が 進んでいて、日本は遅れている というというのか。

先般、本稿で少し書いたが、第二次大戦後の混乱は別として、国家として再建されて以後、日本の若者はひとりたりとも戦争で死んでいない。領土の争いとか資源の取り合いとか極めて明白な理由ならばまだ理解する余地はあるが、宗教の違いとか、人種問題だとか、イデオロギーだとか、はっきり言ってしまえば議論のしようのない問題に何か正解があるはずだ、といがみあい、その結果数多くの人命を失ってしまったのがすなわち先進国の現状だとすればこれはまた悲しいことではないか。民主主義の総本山だと思い込んできた米国では暴徒がこともあろうに光輝あるデモクラシーの殿堂たる議事堂を襲撃するなど、想像もつかないことが起きているのが ”先進国” の現状である。こういう悪にくらべればたかだか晩飯を一緒に食ったか食わなかったかなどでもめている国会の紛糾など、かわいいものだが、いずれにせよ国家のレベルで起きていることは 果たして民主主義が世界を救える解決なのか という根本的な問いのような気がする。こう言う問題を提起するについては、小生のささやかな主張だが、IT技術の無分別な発展拡大・自己増殖によって、多くの国(もちろん日本も含めて)の社会はすでに 大衆社会 という人類がかつて明白に意識したことのない, イデオロギーでは統治し得ない段階に来てしまっている、という意識がある。

越前や金さんが悪を懲らしめた時代、たしかに民主主義はなかったし女性の社会進出もなかった。困窮者も数多くいただろう。しかしここに描かれた江戸の庶民はそれなりに明快な正義が行われることを良しとし、自分たちの世界のなかで、云わば ”麒麟が来た“ 社会を作っていたのではないか。越前が活躍したのは “三代家光か八代吉宗か” といわれた、名君の代表である徳川吉宗の時代だが、究極的にはデモクラシーなどとは縁遠い独裁の政治であった。それでも江戸の街は栄え、多くの人々はそれなりのささやかな平和を満喫していたはずである。

二つの肩の凝らない時代劇を見ていて感じているのは、もしかして我々が目指すべきは 英君をいただく独裁政治なのではないのだろうか? という素朴な疑問である。デモクラシーの発祥の地とされているアテネだって経済や軍事は市民権を持たない奴隷によって支えられていたのだし、ローマ帝国もその形をひきついでいたはずだ。世界がひとしく民主主義によって動く時代になった、だから歴史は終わった、とフランシス・フクヤマが説いてからまだ日は浅いのだが、本当にそうか? と問いかける必要がでてきたような気がする。各位のご意見をぜひお寄せいただきたい。有り余る時間を熱した議論ですごすのはまことに結構な話だと思うのだが、いかが。