“エーガ愛好会” (41) 真昼の決闘 (34 小泉幾多郎)

マカロニウエスタンでクリント・イーストウッドとともに、主役を演じたあのリー・ヴァン・クリーフのクローズアップ、丘の上で誰かを待つ風情。やがて、仲間と思われる騎乗の男が近づくと続いて第三の男が合流する。その間太鼓の音を伴奏に、テックス・リッターの唄う主題歌が始まり、字幕が現われる。三人勢揃いし、小さなのどかな町へ乗り入れると鐘の鳴る教会に差し掛かり、其処では、ゲーリー・クーパーとグレイス・ケリーの結婚式が行われている。教会を通過し、保安官事務所の前では、気がはやる様をたしなめる場面があったりしながら、町はずれの駅ハドリービルへ。丁度5年前保安官クーパーが捕えて監獄に送ったフランク・ミラー(アイアン・マクドナルド扮)が釈放され、正午着の列車でやって来るという電報を受け取ったところ。その駅員が、クリーフ演じるコルビーのほか、ベン(シェブ・ウーリィ)とピアース(ボブ・ウイルク)に挨拶し名前を呼び、3人のならず者を紹介するまで、緊張感溢れる出だしだ。

クーパーが囚人釈放の電文を見たのが10時40分、それから何回か時計のカットが出てくるが、それから12時過ぎまで出来事を約1時間に収め,ドラマの映写時間と現実の時間経過を一致させている。結婚式を終えたばかりのクーパーは町長(トーマス・ミッチェル)に、このまま新婚旅行に行くよう勧められ、一旦馬車に乗ったが、どのみち無法者たちから逃れることは出来ないと悟ったクーパーは引き返す。町民は帰ってきた保安官クーパーに冷たい。裁判した判事(オットー・オクリュガー)は逃げ出し、親友(ヘンリー・モーガン)は居留守を使い、教会の日曜礼拝の人たちに援助を乞う。議論になるものの、町長の一言、帰ってこなければ、こんな騒ぎにならなかった、と言われ、教会に失望し、前任の保安官(ロン・チャニー)にはもう身体もきかぬと言われ、一人戦う決心をする。

町が再び無法者の天下になれば、のどかな街並みも消えてしまうのではないか、町民はなぜ戦おうとしないのか、相手は4人命知らずとはいえ大勢で対抗すれば何とかなるのでは?酒場にも臨時保安官募集に行くが、酒場に集まるような連中は、釈放されたミラーに好意を持つ連中も多い様子で冷笑されたるだけ。保安官補(ロイド・ブリッジス)の嫉妬深く、自信過剰な性格の若者との関係や酒場を経営している女将(ケティ・フラッド)の描き方も凝っている。彼女現在は保安官補の恋人だが、過去クーパーに心を寄せながらも思いかなわずミラーの情婦にもなったという過去を持ち、妻のケリーがクーパーと別れ列車に乗ろうとすることに腹を立てながらも、戒める言葉を吐くところや最後の感慨無量の表情等名演技だった。

最後の決闘のシーン、列車の汽笛と共に列車がやって来る。妻のケリーと酒場を売って町を去る決心をした女将が列車に乗るところへ、3人の無法者に迎えられたフランクが降り立ち、上着を脱ぎシャツ姿に拳銃が渡される。クーパーが町のがらんとした往来をゆっくり歩き、4人は並んで威勢よく入ってくる。突然一人が婦人服屋に戻り、ガラスを割り婦人帽をとる。物音にクーパーが気付き、身を隠す。この婦人帽をとる理由が意味不明。1対4だから当然正面からの堂々たる向かい合っての射ち合いは望むべくもなくお互い身を隠しながらの作戦を考えての射ち合いなのに、わざと音を立てるなんて?その本人が最初の犠牲者。その音を聞いた妻ケリーは我慢できず列車を降りて町へ走る。場面は馬小屋へ、2階に上がったクーパーがクリーフを射つ。馬小屋に火がつけられ、クーパーは馬数頭と共に脱出する。夫クーパーの危機を見た妻はクエーカー教徒の身を忘れ窓越しに後ろから射ってしまう。その音でフランクがケリーを盾にしたが、彼女が抵抗する隙にクーパーが射ち、すべての無法者が倒される。クーパーを讃えようと集まった町民を背に保安官の星章を投げ捨てクーパーはケリーと共に去って行く。
人間を人間らしく、西部男の弱い面も表現した写実的な演出、ゲーリー・クーパーもシリアスな従来にない味を出していた。ケリー、フラッド二人の女優は勿論、4人の無法者の寡黙な演技、町長のトーマス・ミッチェル以下それぞれの町民たちの演技も細かい神経が行き届いていたように思う。今回見直して矢張り、従来にない西部劇の映画的表現であり、西部劇に新しい光を投げかけた最初の作品と言っても過言ではないと再認識した。

(編集子)グレイス・ケリーの西部劇初登場であり、小泉長老のご指摘にもあるがケティ・フラドの重厚な演技が素晴らしかった。クーパーが遺書を書くシーンも印象的だったが、もう一つ、この映画の素晴らしさはテックス・リッターの野太い声で歌われる主題歌だった。当時中学で英語を習い始めたばかりで、この歌詞を必死になって読み解いたりした記憶が懐かしい。

映画のタイトルについて、日本語訳の乏しさ、芸の無さについては幾度も書いたが、たまたま開いた google  に原題の high noon をどう訳すか、という英語の練習問題が乗っていた。それで思い出したが、グレゴリー・ペックが主演した頭上の敵機 の原題は Twelve O’clock High である。航空機や艦船のように常に方向が変わり目的物との位置関係が定まらない環境では、東西南北という指標が使えにくい.そのため、自分の進行方向を常に時計の12時を指す、ときめてあって、たとえば左真横は9時の方向、というように使う。これだけだと水平方向しか表せないので、上空ならば high という補足をする。Twelve O’clock High は12時の方向(進行方向)の上方,ということになるので 頭上の敵機、という表題はまさに正しい。同様に 眼下の敵 が Enemy Below なのもその通りだが、攻撃を避けるために高速で動く対象だから方向までは特定できない、という意味なのだろう。そこで high noon とはなにか。太陽が真上にある。すなわち真昼。たしかにこの後は戦いなのだが、決闘、という平凡な名詞が気に入らん。対決、なんかじゃダメだったか?

だが、今みたいにコロナという敵が上下左右前後内外に潜んでいるときはどういうのだろうか? Enemy everywhere ?  Enemy allover ?