外国語を学ぶということ 2

仕事を辞めてから何度か夫婦で海外旅行をする機会があった。アメリカには仕事の関係上行くことが数多くあったが、ほかの地域にはそれがほんの数回しかなかったので、やめてまもなく、まず、まだ半分現役で現地にいた大塚文雄をたずねてアイルランド全島をドライブした。アイルランドがEUに加盟する前のことだったが、これまでに経験したことのないほど、現地の人情に触れることの多い旅だった。ごひいき、ジョン・ウエインの西部劇には必ず善人役でアイルランド出身のわき役がいたが、まさにそんな雰囲気の、楽しい国だった。ダブリンで飛び込んだパブではアルコールのまわったアイルランド訛りに苦労したけれど、言葉について気を遣うことはなかった。

そのほかにもメキシコ、スイス、イタリア、スコットランドなどと、できるだけパック旅行を避けて気ままにいくことにしてきたが、一度大手の旅行会社が所有する船でライン河を下る、という旅にでかけたことがある。希望する日程では船が下りの旅を終えて上りになる順番だったので、ライン河遡上、ということになった。ただメインはあくまでドイツ。慶応高校は3年次に第二外国語の授業が必修で、一応ドイツ語を取ったし、多少の心得はあったものの、例によって即席のレッスンを何回かとって、船ならばクルーと知り合う機会もあるだろうし、多少は会話も試せるか、という希望を持って出かけた(旅客はすべて日本人)。

企画自体はよくできていて満足のいくものだったが,船上でドイツ語を試す、という機会は全くなかった。ドイツを旅行する旅なのに、ドイツ人は船長だけだったからである。コック、ウエイター、事務スタッフなど、会うクルーのほとんどが東欧諸国から来た人で、ルーマニアかとおもえばハンガリー、スロバキアなどなどで、共通語はブロークンな英語であった。

この旅で当たり前のことだが、ヨーロッパ、という人間の集合がここに確かにある、ということを改めて感じた。国境を越えて旅をし、仕事をし、生活することが至極日常な世界なのだということだ。ローマ帝国が建設されたころ、わが日本という国はまだ存在していない。そのころから絶えず離合集散と悲惨な戦争を繰り返してきた国々が今なお、自分たちの生存圏を守り、陸続きの国境がありながらなお母国語を守り続けている。そういう前提の中で異国に旅し、異国で生き、働くことが当然という環境がある。その中で共通の言語として英語が選択されている、というのはある意味不思議なことに思える。英国は欧州本土にはない。欧州本土の覇者は例えばフランスであり、ドイツであり、さかのぼればスカンディナヴィアの国々だったのに、なぜ、英語なのだろうか。

19世紀、陽の沈まない帝国、として英国があった。しかし同時に地球規模の帝国としてスペインがありポルトガルがありオランダがあった。その結果、世界の国々は英語圏、スペイン語圏、ポルトガル圏、というように色分けされているが、それらを越えて英語が世界語になった。これにはもちろん、第二次大戦後のアメリカが英語圏の国であり、そのプレゼンスがもたらした結果なのだということも大きな理由であるのは疑いがないけれども、それにしても、である。

世界で通用する ”ハム”語 による交流.交信後に交換するカードの一例

僕は中学のころからアマチュア無線に興味を持ち、細々ながら現在まで続けてきた。 ”King of hobby” と呼ばれるようにアマチュア無線の範囲は実に広いが、短波を使う部門では、電波の伝達の特性から、当然世界中の同好の士(ハム)との交信がメインとなる。戦前は通信機器自体の性能もあり、外国との交信はモールス符号によるものがほとんどだった。モールス符号、は文字通り符号であり言語ではない。しかしその基本さえ覚えてしまえば、世界中の相手と母国語には関係なく交信ができた。この世界ではモールス符号が世界語だったのだ(たとえば 数字の ”73” は、”またお会いしましょう、よろしく” を意味する)。

ところが第二次大戦後、電子技術の進歩のお陰でハムの通信機器も戦前とは比較にならないほど進歩し、通信の大半をモールス符号ではなく、通常の言語によるようになった。となると当然だがそれを何語でやるのか?という疑問が起きる。事実、10数年前くらいまでは、専門誌には フランス語やスペイン語での交信についての解説があり、簡単な情報交換はいくつかの主要言語でやろうではないか、という暗黙の了解があった。しかし現在ではこの種の記事はあまり目にしたことがない。ハムの交信は英語でやるのが常識になってしまったからだ。ここでまたアマノジャクが首をもたげてきた。英語でなく、相手の言葉でQSO(ハムの世界では交信のことをこう言う) をやってやろう! ということである。