成人式に思い出すことなど (普通部29卒 船津於菟彦)

今日は「成人式」で町には着飾ったお嬢様方が沢山歩いていて、全国で晴天の成人式は珍しいそうです。平成10年-1998年-に生まれか方々が今年成人式を迎えるわけです。大きな区切りがあるわけでは無いですが、やはり「大人」として自立していく区切りかと思います。

さて、わが人生を振り返ると昨年傘寿を迎え、「成人式」とやらは60年も前になるわけです。総てはおぼろ。朧。
「今どこと戦争しているんですか」-校長先生-「ハーィ鬼畜米英」と誇らしげに小学一年生の入学式はゲートル巻で戦闘帽姿でした。

時は移り1958年慶應義塾は創立100年を迎えました。高校では新聞会にはいり、写真を担当していました。脚立を新聞社のカメラマンよろしく持った1枚。カメラは多分プレスバンだったと思う。

外回りで臨席された天皇の車などを追って撮影。(偶然ネガが奇跡的にありました)

 


1960年はあの早慶六連戦があり、大熱戦。
昨年の早慶戦と同じ様な事でしたが、あの頃の六大学野球は今と比較したら遙かに人気があり、早慶戦などは入場券を確保するのがよういでは無い位の人気でした。早朝から普段開いていない信濃町駅の神宮外苑口が開き、そこから神宮まで急ぎ足で、行き早朝から試合の始まるまで応援合戦が続きました。新聞会にいた僕は週刊誌スタイルの早慶戦特集号という雑誌を作り、売り歩きました。
女性のチアーリーダーが登場したのもこの時でした。慶應は早慶戦で2勝して勝ち点を取れば優勝を果たす。一方早稲田が優勝するには連勝するか、2勝1敗で慶應と同勝ち点・同率となって優勝決定戦(勝ち点・勝率がリーグ戦全日程終了時にともに同じ場合は、規定により直接対決の成績などに関係なく1試合制の決定戦を行う。引き分けがあった場合は勝敗が決するまで再試合を繰り返す)に持ち込み、勝てば優勝と、慶應より厳しい条件となってしまいました。長く他校の後塵を拝してきた慶應にとっては8シーズンぶり優勝のチャンス。
慶應は投手に清沢忠彦、角谷隆、三浦清、丹羽弘と実力者を多数そろえ、打線も六大学最高打率を更新した榎本博明や、後にプロ入りする安藤統夫、大橋勲、渡海昇二ら強打者を擁していましたし、対する早稲田は安藤元博、金沢宏の両サブマリンが投の軸でしたが、前年春季リーグでベストナインに選出された金沢は、練習中に指を痛め登板に不安を残す。野手陣は木次文夫、近藤昭仁といった好打者が卒業し、野村徹、徳武定之を中心とした守りのチームとなった。戦力的には慶應優位と言われており、優勝争いで一歩リードしていることから、この早慶戦を慶應優勢と見る声が多かったようです。

試合は一日目1対2で慶應の負け。二日目4対1で慶應の勝ち。三日目0対3で慶應の負けで。優勝決定戦。四戦目は1対1で日へ没引き分け。照明設備が無かった。そして第五日目は一日おいて開催され、またまた引き分け0対0。
第六戦目 早稲田はこの試合も安藤元を先発させた。6戦中実に5度目の先発、もはや安藤元に命運を賭けた。慶應も頼みのエース角谷を立てて双方ともに気力の勝負となったが、先制したのは早稲田だった。慶應は5回裏に1死満塁とこの試合最大のチャンスを作る。併殺崩れの間に1点を挙げ、なおも安藤統が痛烈なライナーを放つがライトの真っ正面に飛んでしま医、万事休す。安藤元は連投の疲れも見せず、この後も慶應の追撃を抑えて15時10分、ついに6戦にわたる1対3で激闘に終止符が打たれ、早稲田が3季ぶり20回目の優勝を果たした。

優勝特集号の号外新聞を作るべく毎日のように写真を入れ替え、輪転機を廻すだけにしてありましたが、残念ながら幻の号外になってしまいました。

安保闘争もありましたね。銀座四丁目の地下鉄出入り口の屋根に登り、晴海通りの道路一杯に広がる仏蘭西式デモ等も撮影-。樺 美智子(かんば みちこ)さんが1960年6月15日安保闘争で死亡、連日国会周辺はデモ闘争が続きましたが、国会での撮影はやっていませんでした。

こんな青春が二十歳でした。総て「おぼろ」忘却の彼方へと。

因みに、新成人の人口は125万人との推計となり、新成人の数は去年2017年と比べると2万人の増加、昨年に続き9年連続で総人口に占める新成人の割合が1%を割り込むことも確認されています。