乱読報告ファイル (30) 死者の靴   (普通部OB 菅原勲)

久し振りに探偵小説を読んだ 。英国の探偵小説作家、レオ・ブルース(Leo Bruce)の「死者の靴」(Dead Man’s Shoes。1958年発行。翻訳者:小林晋。なお、この英語は慣用句で、死亡した人の財産、を意味するとのこと)。また、これは私家版であって市販はされていない。従って、探偵小説ではネタバレは厳禁だが、私家版で部数が極めて限られていること、これから読む人も先ずいないと思われることなどからも、異例だが、ネタバレして話しを進めることにする。

話しは、モロッコのタンジールから英国のロンドンに向かう、5人の乗客を乗せた貨物船から始まる。船長を含む船員、乗客の専らの噂は、この船には殺人者がいるのではないか。確かに、乗客の一人は粗野で、誰にでも喧嘩を吹っ掛ける嫌われ者だった(ウィルバリー・ラーキン)。ところが、ロンドン到着を前にして、「誰かが落ちたぞー」の掛け声と共に、何かが船から海上に落下する。船員が全客室を探したところ、その男だけが船にいない。しかも、残された客室のタイプライターに「これから自殺する」旨の紙片が残されている。殺人者は、本当に海の藻屑と消えたのか。

種明かしをすれば、それは二つある。一つは、ラーキンは死んでおらず、自分から掛け声をかけ、変装道具を錘と共に海に投げ捨て、寝台の上げ蓋の下に隠れた。もう一つは、ラーキンなどと言う男は全く存在せず、その実態は、殺された大富豪、グレゴリー・ウィリックの甥であるランス・ウィリックそのものなのだ。つまり、ランスは変装して別人のラーキンに成りすまし(眼鏡をかける、洋服に詰め物をして大きく見せる、踵の高い靴を履いて高く見せる、声を変えるなどなど)、叔父を殺した犯人なのだが、この一人二役で逃げ切れると踏んで長年に亘り、計画し、それを実行して来た。

訳者あとがきで、「実に大胆なトリックだが、それゆえにかなり見え見えの真相である」と述べているが、これは、大胆なトリックなどと言うより、先ず実現不可能なトリックと言った方が正確だろう。加えて、場合によって、本人と別人が行ったり来たりすることになるのだが、歌舞伎の早変わりではあるまいし、そんなに簡単に出来る代物ではない。その意味では、残念ながら、関係者全員を集めて、素人探偵である歴史教師キャロラス・ディーンによって犯人が明かされる最後の30頁前後で大変失望したと言わざるを得ないのが正直なところだ。具体的には、人は完璧な変装をすれば全くの別人になりすますことが出来るのかと言うことが焦点となる(シャーロック・ホームズは変装の名人だったそうだが)。これが、訳者が言っている大胆なトリックなのだが、これが実現できないとなると、それこそ九仞の功を一簣に虧くことになり、なーんだと言うことになる。小生の反応が正にそれだった。

これが本格探偵小説だと言っても、物好きなひと以外、そんなものを読む人はいなくなって、益々、本格探偵小説から遠ざかって行くのは間違いない。小生、こう言った変装で人を騙くらかす話を、勝手に変装奇譚と名付けており、全く馴染めない。

ブルースには、ビーフ巡査部長を主人公とした別のシリーズがあるが、その第一作に「三人の名探偵のための事件」(1936年)と言う傑作、と言うより怪作がある。A.クリスティーのE.ポワロ、D.セイヤーズのウィムジー卿、G.K.チェスタートンのブラウン神父と言った名探偵でさえ解決できなかった難事件を、ビーフ巡査部長が易々と解いてしまうと言う、正に人を食った話しだ。