乱読報告ファイル (50) ウクライナ戦争と中国経済について

今全世界で議論が沸騰しているトピックについての論文を2冊、読んでみた。”ウクライナ戦争”の著者は小泉悠氏、最近のテレビでおなじみの顔である。

小泉氏はロシアの軍事・安全保障の専門家であるので、発生以来のロシア側の動きを追った著書で、発生以来の各ステージでのロシア側要人の動きや戦闘について、日本での報道だけでは理解できない角度からの解説が豊富であるが、この書物の狙いは、ソ連の解体と冷戦の終結によって、国家間の大規模の戦争はもはや起き得ず、戦争があるとすればそれは国家対非国家主体(例えばテロ組織)との間の ”非対称戦争”か、非軍事手段を駆使する”戦争に見えない戦争”になるし、原子力空母や高性能戦闘機などよりも対テロ戦争のための特殊部隊に重点が置かれるだろう、というのが軍事専門家や軍の指導層の認識であった、という認識から始まる。しかし22年に始まったロシアのウクライナ侵略はこうした予測からは大きく逸脱した、第二次大戦後にはあまり起きていない, ”従来型” の大規模戦争であって、プーチンが動員した第一次だけでも30万人という、第二次大戦以来の規模だというのだ。本書があげている専門機関の調査研究によると、22年2月から9月に世界で発生した戦闘は1万8千回余りだが、その約6分の1がウクライナで発生したのだという。正直言えば、日本から離れた地域での紛争でもあり、この戦争がそんな規模のものだという事は考えたことがなかった。

著者は専門の軍事知識を駆使して、開戦以来本書上梓までの間の戦闘について解説しているのだが、我々にとってもっとも興味があるのは、(なぜこのような戦争が起きたのか)ということだろう。この点について小泉はEU加盟国のいわば東進によってロシアの安全が脅かされているとか、ウクライナがネオ・ナチ思想に毒されているとか、あるいは核兵器を生産しているとかいったプーチンの主張には客観的な根拠もなく、最後には民族主義的な、”プーチンの野望” とでもいうものでないと説明できないという。この点について、筆者はもしロシアがEUの侵略を恐れるなら、ウクライナよりも長い国境線で接しているフィンランドや北欧諸国との関係のほうがウクライナよりも脅威になるはずなのに、なぜウクライナなのか、という点から、プーチンが21年に”ロシア人ウクライナ人の歴史的一体性について” という論文を発表したことについて述べ、歴史的事実としてとしてロシア、ウクライナ、ベラルーシが民族的・言語的に共通点をもつことをその背景として述べている。

これからこの戦争がどう展開するのかは我々には分からないが、その性質について、この戦争が先に述べた、いわば ”新しい戦争” ではなく、火力によって領土を奪いあう、従来型の戦争であって、ただ使用される武器が大きく変わったにすぎない、という筆者の見解に従えば、まだまだ両国間の消耗戦は続くのだろう、という暗い予想しか思い浮かばない。

かたや中国経済の現況について、ある意味ではマスコミの散発的な報道をまとめて解説してくれるのが石平(せき へい)氏の やっぱり中国経済大崩壊! という一冊である。先回本稿で同じような煽情的なタイトルに引っかかって読んだ     ロシア敗れたり という駄作について書いたばかりで、今回も同じようなことになるか、という不安もあったが、本国で民主化運動にくわわり、かの天安門事件をきっかけに来日、日本に帰化したという背景を持つ人だけに、中国が現在陥っている経済の負のスパイラルについて軽妙に解説してくれている。大筋は日本のマスコミが報道している事柄を裏書きするものなので詳述はしないが、ここでも我々が持つ素朴な疑問、すなわち共産主義をとなえる国の実情はどんなものなのかと、スターリン―毛沢東路線を引き継いだ習近平の政治の結果についての評価は一読に値する、入門的な解説である。

ここでも、今日に至る中国経済の激動についての解説はわかりやすいが敢えて言えば目新しいものではない。それよりも同氏が喝破した(習近平は経済問題に不干渉である)という点は新しい視点だった。ウクライナと違って目と鼻の先で起きていることだが、この2冊を読んで改めて感じるのは独裁制国家のもたらす怖さである。この二つの大国の国民は、ロシアと中国という地政学的に異なる環境にありながら、情報をありのまま受け取ることが出来ないでいる。僕ら世代まではその現実の一部を知っているわけだが第二次大戦下の日本も同じだったのだ。

此処までは、いい。しかし、”だから民主主義が正しい” という結論に至ることにならないのが現実だろう。その最大のキーが情報・報道の問題だというのがまさに皮肉な事実だ。現在話題になっている政治の腐敗、なんてものはどっちになってもあり得ることだとあきらめることはできる。しかし統制なく拡大する情報の氾濫、とくに昨今、ますます精緻なものになりつつあるハッキングとか生成AIとかいう技術面での反社会行動が可能な、”報道の自由” がそもそもの発端である現在、我々は本当に正しい歴史を作り出していけるのだろうか。どうも小生の持論の、”高潔な指導者による独裁” のほうが好ましく思えるようになってきたのだが。