エーガ愛好会(227)   限りなき追跡    (34 小泉幾多郎)

 西部劇の巨匠ラオール・ウオルシュが監督、ロック・ハドソンとドナ・リードを主演に、逃げる強盗団のボスとそれを追いかける男の追跡劇を描いた西部劇。開幕の駅馬車の疾走から、中盤でも何となくモノを投げつけるシーンが多く、壺や椅子やナイフを投げるオンパレード、最後の山岳での決闘シーンでも、追っかけやら、落馬シーン、投げる木材等が正面から撮って画面に向って飛んでくる、等々。立体映画方式かと思いきや、現実に立体映画だったのだが、日本公開は、通常上映されたとのこと。

言われてみれば、1953年は立体映画花盛りの年だった。日本公開最初の立体映画は?はっきりした記憶にないが、西部劇「タイコンデロガの砦ウイリアム・キャッスル監督、ジョージ・モンゴメリー主演」ではないか。次に「フェザー河の襲撃ゴードン・ダグラス監督、ガイ・マディソン主演」「ホンドー ジョン・ファロー監督、ジョン・ウエイン主演」その間に「肉の蝋人形アンドレ・ド・トス監督ヴィンセント・プライス主演」「ダイヤルMを廻せアルフレッド・ヒッチコック監督、レイ・ミランド主演」「雨に濡れた欲情カティス・バーンハート監督、リタ・ヘイワース主演」と上演された。しかし偏光眼鏡の煩わしさ等からシネマスコープ等に押され急激に廃れてしまった。この立体映画を監督したラオール・ウオルシュとアンドレ・ド・トス両監督とも片目で現実に立体では見えない筈。片目で立体映画を監督するとは、信じられない。2009年「アバター ジェームス・キャメロン監督」が立体映画で公開され、続編も作られるとのこと。どうなることやら。

南北戦争後婚約者ジェニファー・バラード(ドナ・リード)の元に帰還したベン・ウオーレン(ロック・ハドソン)。ところが駅馬車での道中、フランク・スレイトン(フィル・ケリー)とその部下ジェス・パージェス(レオ・ゴードン)に襲われ、ベンは重傷、婚約者ジェニファーは拉致されてしまう。その後一命をとりとめたベンは、フランクと仲間割れしたジェスとフランクに妻を殺されたインディアンのヨアン(パット・ホーガン)を仲間に引き入れ、ベンは最後にフランクを倒す。ベンとジェニファーは新生活を目指しカリフォルニアへ出発する。

 

(編集子)”ホンド―” も ”ダイヤルMを廻せ” も ”立体映画” だったとは驚いた。 ”シネマスコープ” を始めてみたのは “聖衣” だったと覚えているが、この2本が新方式(当時の)とは知らなかった。最近のメディア技術による立体映画類には全く興味がないから知らなくても驚かないが。ドナ・リードも人気があった知性的な感じのする女優の一人だが、小生の記憶ではやはり ”地上より永遠に” だし、ロック・ハドソンはやはりセーブゲキ向きではなかった気がする。ことのついでに、今はもう死語かもしれないがシネマスコープについてのグーグルの解説は以下の通り。

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1950年代前半の映画業界はテレビ業界の躍進に強い危機感を抱いていた。アナモルフィックレンズの技術自体は1920年代にフランスのアンリ・クレティアン英語版によって発明されていたが、1953年(昭和28年)にはカナダのボシュロム社と20世紀フォックス社によって改良された[2]。それまでの一般的な画面アスペクト比である横縦比1.37:1(スタンダードサイズ)の2倍近い横幅があった。ワイドスクリーン技術にはパラマウント社のビスタビジョンシネラマなどもあるが、シネマスコープとは20世紀フォックス社の商標名である[1]

ハリウッドによる初のシネマスコープ作品は1953年(昭和28年)9月公開の『聖衣』であり[1]、1954年(昭和29年)にはボシュロム社がアカデミー賞でオスカー像を授与されている。1957年(昭和32年)には東映による日本初のシネマスコープ映画『鳳城の花嫁』が公開され[3]、同様のシネマスコープ作品群には「東映スコープ」という呼称が付けられた。一方、映画をテレビ放映する際、テロップが表示される場面では可読性の観点から画面を圧縮するため、オープニングやエンディングなどが本編よりも縦長に表示されることがあった[4]

後の技術革新によってシネマスコープ撮影技術は廃れたが、2.35:1という画面アスペクト比は残った。ただし、今日のもっとも一般的な画面アスペクト比は横縦比1.66:1のビスタサイズである。