”空母いぶき” を見て考えたこと

全くの偶然で、CSで放映されていた 空母いぶき という映画を見た。原作はマンガの世界では高い評価があったようだが、映画の世評はよろしくない。グーグルに拾ってある投稿もどれ一つ好意的なものはない。たしかにエーガ、という枠をはめてみると素人の小生にもなんだかなあ、という程度の作品だった。グーグルによれば、自衛隊が本作品の支援には消極的だった、とか、技術面での描写のずさんさ、解決の唐突さ(最後は五か国の潜水艦が突如援助にきて救われる)などという指摘があり、そのあたりには同意する。大分前に、”亡国のイージス” というのはもっと真剣に見たものだが。

作品の出来栄えについては小生も落第点をつけるが、その背景としてあらわれる、”平和国家“を標榜している我が国の政治判断の難しさ、例えば、戦闘はするが戦争はしない、といった禅問答みたいなやり取りとか、防衛出動をなぜださないのかという議論などは、自国が侵略されているという現実に際した、ほかの国ではまず起きえないだろうと感じたし、首相を演じた佐藤浩市の苦悩については同感するところがあった。特にラストで “この、なんでもない生活を守る、これが政治なんだよな” という佐藤の自嘲気味なセリフはむしろ賞賛したい気持になった。日本の政治、政治家のありよう、といったものの実像のようなセリフだったと思ったのだ。

所謂識者といわれる人々や海外事情に詳しいとされる人たちは、なにかと日本の政治や政策を海外諸国に比べれば、と批判するのが常である。その論調を聞いていると、そうか、俺達の日本ってそんな三流国なのか、というコンプレックスに陥ってしまう。本当に俺たちの、 “この、なんでもない生活” はそんな程度の価値しかないものなのか?

小生の読み違いというか記憶違いならお許しいただきたいが、ローマ文化についての泰斗、塩野七生さんの作品の解説に、ローマ皇帝の務めは市民にパンとサーカスを提供することだった、という一節があった。歴史だけをひろい読むする分には、やれシーザーだアントニウスだという事ばかり頭に残るが、ローマ帝国にあっても、第一のことがらは “この、なんでもない生活” を維持することだったはずだ。世界史にいう栄光のギリシャ・ローマは、片方では “この、何でもない生活“ を成り立たせるためには奴隷を必要とし、それを得るためには他国との残忍な戦争に勝たねばならなかった。その犠牲になった人々がどれだけいたか、歴史書にその記述はない。

わが日本はどうか。以前、本稿のどこかで触れた気がするが、ここで絶対的事実として、1945年以降今日まで80年にわたって、我が国はただ一人の若者も戦争では死なせていない、という事実を思い起こそう。ウヨクがどう言おうと、共産党がさかしらに論じようと、はたまた主婦連のおばさま方が声高にわめこうと、これはわが国の政治の結果である。およそ一国の政治はその結果によってのみ評価される。その間、ほかの国々(政治体制では違うとしても絶対主義の国も含めて)の、数多くの未来ある若者が戦地に散っていき、彼らの家族や友人や恋人たちの ”このなんでもない生活” は失われた。その理由や背景について今更議論をするのは避けるが、我が国が、何はともあれ、外敵に侵されず、若者を戦争という悲劇で死なせずに ”この何でもない生活“ をここまで保って来たのは、なんだかよくわからないこと、うんざりすることが数多くあるとは言え、わが国の政治の結果であることは厳然たる事実ではないのか。これが憲法九条があるためだ、という浮世ばなれした論議はもう通用しない。つまり、

”・・・人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した・・・・”

なる、我が憲法前文が高らかに謳った世界諸国の善意、なんてものが存在しないことはすでに事実が証明してきたからだ。それでも日本が外敵の侵入を受けていないのは、言うまでもないが米軍の保護があったからであって、夢想的な平和国家論ではない。米国にしてみれば、究極的には地政学上、自国防衛のための砦として日本列島と友好関係にあることは絶対的に必要だ。この事実を冷静に(むしろ冷酷にというべきか)判断し、かたや理想とする平和国家主義をかかげ、欧米諸国には理解できないであろう韓国や中国との歴史的関係、さらにはロシアの暴挙などの間をかいくぐりつつ、左翼勢力のためにするとしか思えない論調やいわゆるインテリ層の論議やマスコミの罵詈雑言にもかかわらず、ともかくも80年間の平和が保たれてきた。これを政治の結果と言わずに何と言えばよいのか。1945年生まれ、いわゆる終戦っ子と呼ばれた世代の人々は同時に ”戦争を知らない子供達” のままに成長していく。我が日本はそういう ”この何でもない生活” が保たれている国だということを改めて認識すべきなのではないだろうか。

僕は確信しているのだが、僕らがいなくなって何世紀か後、歴史書はこの、今僕らが息をしているこの時代を、日本の黄金時代とよぶだろう。領土は狭く,資源にとぼしく天災は絶えないこの列島国家に、“この、何でもない生活” を維持し続けた政治をその歴史書はなんと評価するだろうか。

”空母いぶき“ は映画としては落第ものだったが、それがきっかけで多少、物事を考える機会にはなった、というのが今年の小生の連休だった。

(HPOB 天堀)ボクは自分と自分の世代のことを「高度成長の食い逃げ」と思っています。「平和」についても しかりです。食い逃げの意味は 「ボクは大丈夫 次はアブナイ」という意味です。ロシアと中国 北朝鮮を三つ巴で隣国とする国は ニッポンだけですからね。