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今年の夏山記録  (39 三嶋睦夫)

今年の夏山の写真を何枚かお送りしますので、どうぞご覧下さい。天候不順の中で雨にも遭わず、幸運でした。いずれも “人生最後の〇〇山” です。

硫黄の爆裂火口壁
硫黄 赤岩の頭からの 赤岳・阿弥陀岳
一切経山頂からの五色沼。 左は家形山。
吾妻小富士。 一切経より
磐梯山 火口壁。遠くは秋元湖?。 弘法清水より
夕陽に染まる雲と五龍岳。  唐松岳山荘より
御来光
唐松岳と 不帰

残念だったのは、唐松岳山荘で ビールが品切れで無くて・・・・最悪でしたよ(こんなこと初めてです!)。なお唐松岳山荘は@14,000円でした。

いつまで歩けるかは神のみぞ知るの心境ですが、“もう一度行きたいあの山” を目指しています。

ヌーヴェルヴァーグ 概説  (普通部OB 舩津於菟彦)

(編集子)BS劇場で 勝手にしやがれ の放映があり、その登場の背景としていわゆるヌーヴェルヴァーグ映画についての議論が起きた。その定義づけとして博学船津の解説。長文にすぎるので(編集子の判断による)概要をお伝えする。作品の解説については別途エーガ愛好会でご紹介する。           (本文で船津がフランス語を ニューウエーブ Newwave  と気楽に書いているが、愛好会メンバーでは菅井康二と小生には、わが黄金時代のhpの痛恨の敗退を意味することになった大プロジェクトの名前であり、エーガどころでは済まない深い傷?を負わせた単語である。関係ないか)

 

アレは高校大学時代。
ブックバンドの代わりにVANのワイシャツの箱に教科書入れて、小脇に抱えて投稿しました。粋なつもり!面にはサルトル・ポバールの本を。

1950年代とは、冷戦構造の固定した時代として位置づけられる。旧枢軸国を含む西側諸国では、経済が急速に復興し、1920年代と同様の消費生活が行われるようになった。都市近郊には郊外住宅が発達した。政治的・文化的にはやや保守化し、一部の人権拡大の要求は軽視された。こうした保守的な傾向への反動として対抗文化としての若者文化が生まれ、1960年代の対抗文化の爆発的広がりに結びつく。また朝鮮戦争後の東西ブロックの緊張から、軍備拡張競争、宇宙開発競争、西側における赤狩り(マッカーシズム)が起こった。この緊張は政治的な保守化につながった。

ヌーヴェルヴァーグ(フランス語: Nouvelle Vague)は、1950年代末に始まったフランスにおける映画運動。ヌーベルバーグ、ヌーヴェル・ヴァーグとも表記され、「新しい波」(ニュー・ウェーブ)を意味する。
映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』の主宰者であったアンドレ・バザンの薫陶を受け、同誌で映画批評家として活躍していた若い作家たち(カイエ派もしくは右岸派)およびその作品を指す。具体的には、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォー、クロード・シャブロル、ジャック・リヴェット、エリック・ロメール、ピエール・カスト、ジャック・ドニオル=ヴァルクローズ、アレクサンドル・アストリュック、リュック・ムレ、ジャン・ドゥーシェなど。また、モンパルナス界隈で集っていたアラン・レネ、ジャック・ドゥミ、アニエス・ヴァルダ、クリス・マルケル、ジャン・ルーシュなど、主にドキュメンタリー(記録映画)を出自とする面々のことを左岸派と呼び、一般的にはこの両派を合わせてヌーヴェルヴァーグと総称することが多い。

ヌーヴェルヴァーグの最初の作品は、最も狭義の概念、すなわちカイエ派(右岸派)の作家達を前提とするならば、ジャック・リヴェットの35mm短編『王手飛車取り』(1956年)だと言われる。
カイエ派(右岸派)にとって最初の35mm長編作品となったシャブロルの『美しきセルジュ』(1958年)が商業的にも成功したことにより、シャブロルの『いとこ同志』(1959年)、トリュフォーの『大人は判ってくれない』(1959年)、ロメールの『獅子座』(1959年)、リヴェットの『パリはわれらのもの』(1960年)といった今日においてヌーヴェルヴァーグの代表作と言われている作品が製作、公開された。『美しきセルジュ』がジャン・ヴィゴ賞を受賞したのを始め、『いとこ同志』がベルリン映画祭金熊賞(大賞)、『大人は判ってくれない』がカンヌ映画祭監督賞を受賞するなど、ヌーヴェルヴァーグの名を一挙に広めたが、ヌーヴェルヴァーグの評価をより確固たるものにしたのは、アナーキストとアナーキズムを主題としたゴダールの『勝手にしやがれ』(1959年)だった。
即興演出、同時録音、ロケ中心というヌーヴェルヴァーグの作品・作家に共通した手法が用いられると同時にジャンプカットを大々的に取り入れたこの作品は、その革新性によって激しい毀誉褒貶を受け、そのことがゴダールとヌーヴェルヴァーグの名を一層高らしめることに結びついた。

一方、左岸派の活動は、カイエ派(右岸派)よりも早くにスタートしていた。時期的にはアラン・レネが撮った中短編ドキュメンタリー作品である『ゲルニカ』(1950年)や『夜と霧』(1955年))が最も早く、その後、レネは劇映画『二十四時間の情事(ヒロシマ・モナムール)』(1959年)と『去年マリエンバートで』(1961年)を製作した。カイエ派、左岸派を含めた中で最初の長編劇映画はアニェス・ヴァルダの『ラ・ポワント・クールト』(1956年)だった。ジャック・ドゥミは『ローラ』(1960年)を公開した。これらが商業的な成功も収めたことから、1950年代末をヌーヴェルヴァーグの始まりとすることが多い。

トリュフォーやルイ・マルが過激な論陣を張った1967年のカンヌ映画祭における粉砕事件までを「ヌーヴェルヴァーグの時代」と捉えるのが妥当だと言えよう。この時点までは右岸派や左岸派の面々は多かれ少なかれ個人的な繋がりを持ち続け、運動としてのヌーヴェルヴァーグをかろうじて維持されていたが、この出来事をきっかけとしてゴダールとトリュフォーの反目に代表されるように関係が疎遠になり、蜜月関係と共同作業とを一つの特徴とするヌーヴェルヴァーグは終焉を迎えることとなった。ヌーヴェルヴァーグが興った1950年代から1960年代にかけては、フランスにおいては映画に限らず多くの文化領域で新たな動向が勃興しつつあった。それはサルトルを中心とした実存主義や現象学を一つの発端とするもので、文学におけるヌーヴォー・ロマンや文芸批評におけるヌーヴェル・クリティック、さらには実存主義を批判的に継承した構造主義など多方面に渡った現象であり、ヌーヴェルヴァーグもこれらの影響を様々に受けていると言われる。事実、ヌーヴォーロマンの旗手であったアラン・ロブ=グリエやマルグリット・デュラスは、原作の提供や脚本の執筆のみならず、自ら監督を務めることでヌーヴェルヴァーグに直接的に関与している。

日本におけるヌーヴェルバーグの影響としては、1960年代に松竹が、大島渚、吉田喜重、脚本家の石堂淑朗などによる作品の演出や作風が当時のフランスのヌーヴェルバーグと呼ばれた若手監督に似ていることに着目し、彼らの映画を「松竹ヌーヴェルバーグ」として売り出したことが挙げられる。

炭素文明論 その2      (会社時代友人 齋藤博)

前回は、ケシの果実から、アヘンが作られ、精製されてモルヒネ、そしてヘロインになるという経緯をまとめ、この炭素を骨格に持った物質が、世界に波乱を起こしていく歴史をまとめました。今回は、同じく炭素を骨格に持つ、糖の話です。糖は、実は人間の健康に重大な影響を及ぼす物質なのですが、それを知らずに世界は動いてきました。その歴史をたどってみます。

砂糖の起源は、ニューギニアあたりが原産とされるサトウキビだとされています。紀元前8000年位には、栽培されていたと言われていますが、それがどのように食されていたのかは、よくわかっていません。そのサトウキビがインドに渡って砂糖として生産されたのが、紀元前2000年あたりだそうです。

紀元前334年から始まったギリシャのアレクサンドロス(アレキサンダー)大王の東征部隊が砂糖に出会い、西方に持ち帰ります。砂糖に出会うまで、ローマ帝国では蜂蜜が一般的な甘味料でした。やがて西暦613年頃から100年ほどでイスラム世界がイベリア半島まで急速に拡がり、それと共に砂糖はヨーロッパだけでなくアフリカまで隈なく広まったということです。

イスラム世界では、イブン・スィーナーという哲学者が、砂糖は万能薬だと断言し、医師たちはペストから生理不順に至るまで、砂糖を治療薬として用いたそうです。栄養状態の悪い時代に、高カロリーで至福の甘さの砂糖を服用すれば、元気が出るのは当たり前のことだったと想像できますね。
11世紀のキリスト教世界でも、トマス・アクィナスと言う神学者が、砂糖は薬だと断言し、キリスト教の断食の日に砂糖を食べることへのお墨付きを与え、それが砂糖の普及を支えたと言うことです。

こうして、砂糖の需要が高まってゆくなかで、新大陸が発見され、すぐに新大陸でのサトウキビ栽培がはじまったそうです。16世紀のアメリカには黒人奴隷による製糖所が4、50箇所もできたそうです。ヨーロッパからは武器や繊維製品がアフリカに送られ、その武器で集められた奴隷がアメリカ大陸に送られ、生産された砂糖がヨーロッパに送られる。いわゆる、砂糖・銃・奴隷の三角貿易はこの頃から始まったとされています。

やがて砂糖・紅茶大好きなイギリスでは、砂糖商人が莫大な利益を上げ、蓄えられた富は産業革命の原資となり、イギリスが世界を制する原動力になっていったそうです。テート・ギャラリーは、砂糖商人のヘンリー・テートのコレクションを基礎にしているそうで、砂糖が生む富の凄まじさを今に伝えていると著者は述べています。

砂糖を飽食した者たちは、サトウキビを刈って精製してその重労働に耐えながら砂糖を作った黒人奴隷とは、違った形で苦しめられてゆくのです。それは、糖分の摂りすぎによる糖尿病です。炭素文明論には、糖尿病のことも書かれているのですが、古い事も含まれているので、ここまでにしておきす。

中秋の名月      (34 小泉幾多郎)

わがマンションから眺めた中秋の名月。シャープには撮れてませんが、1枚目18時29分のあと、2枚目18時40分、 左下に新幹線が通過しました。

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(編集子)8月末にPCに異常が起きた。ACアダプタを使用しているのに、バッテリの充電不足なのでACアダプタを使え、というメッセージが出てきてしまう。何かいやな予感がして例によってPCデポに持ち込んで相談したら、何のことはなくアダプタのプラグを受けるジャックが壊れているけだが、これはメーカーでないと治せませんとのこと、やむを得ずメーカーに依頼してもらったのだが、なんと修理代の見積もりができるまで10日かかり、OKしてからさらに2週間かかってしまった。その間、メールだけはアイフォンで応答してきたがなんとも不便を感じていた矢先、ブログをご覧いただいていた一部の方から、何かあったのかとお問い合わせをいただいたりしてしまった。ここのところ、同期生の何人かが相次いで不帰の客となっていて、(?)と思われたのかもしれない。

このままだと弔電が来るかもの知れないと焦っていたら、今朝、連絡があって早速取り返してきた。ご迷惑をおかけした段、お詫び申し上げる。このひと月の間、数々のご投稿をいただいたので、その中から取り急ぎ、ご紹介をさせていただくことにしたい。とりあえず、遅ればせながら秋の季節感を。

なお、ご心配をおかけしたが編集子本人は心身(身のほうは多少怪しくなってきたが)ともに元気で、依然減らない体重だけが悩みであります。