ヌーヴェルヴァーグ 概説  (普通部OB 舩津於菟彦)

(編集子)BS劇場で 勝手にしやがれ の放映があり、その登場の背景としていわゆるヌーヴェルヴァーグ映画についての議論が起きた。その定義づけとして博学船津の解説。長文にすぎるので(編集子の判断による)概要をお伝えする。作品の解説については別途エーガ愛好会でご紹介する。           (本文で船津がフランス語を ニューウエーブ Newwave  と気楽に書いているが、愛好会メンバーでは菅井康二と小生には、わが黄金時代のhpの痛恨の敗退を意味することになった大プロジェクトの名前であり、エーガどころでは済まない深い傷?を負わせた単語である。関係ないか)

 

アレは高校大学時代。
ブックバンドの代わりにVANのワイシャツの箱に教科書入れて、小脇に抱えて投稿しました。粋なつもり!面にはサルトル・ポバールの本を。

1950年代とは、冷戦構造の固定した時代として位置づけられる。旧枢軸国を含む西側諸国では、経済が急速に復興し、1920年代と同様の消費生活が行われるようになった。都市近郊には郊外住宅が発達した。政治的・文化的にはやや保守化し、一部の人権拡大の要求は軽視された。こうした保守的な傾向への反動として対抗文化としての若者文化が生まれ、1960年代の対抗文化の爆発的広がりに結びつく。また朝鮮戦争後の東西ブロックの緊張から、軍備拡張競争、宇宙開発競争、西側における赤狩り(マッカーシズム)が起こった。この緊張は政治的な保守化につながった。

ヌーヴェルヴァーグ(フランス語: Nouvelle Vague)は、1950年代末に始まったフランスにおける映画運動。ヌーベルバーグ、ヌーヴェル・ヴァーグとも表記され、「新しい波」(ニュー・ウェーブ)を意味する。
映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』の主宰者であったアンドレ・バザンの薫陶を受け、同誌で映画批評家として活躍していた若い作家たち(カイエ派もしくは右岸派)およびその作品を指す。具体的には、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォー、クロード・シャブロル、ジャック・リヴェット、エリック・ロメール、ピエール・カスト、ジャック・ドニオル=ヴァルクローズ、アレクサンドル・アストリュック、リュック・ムレ、ジャン・ドゥーシェなど。また、モンパルナス界隈で集っていたアラン・レネ、ジャック・ドゥミ、アニエス・ヴァルダ、クリス・マルケル、ジャン・ルーシュなど、主にドキュメンタリー(記録映画)を出自とする面々のことを左岸派と呼び、一般的にはこの両派を合わせてヌーヴェルヴァーグと総称することが多い。

ヌーヴェルヴァーグの最初の作品は、最も狭義の概念、すなわちカイエ派(右岸派)の作家達を前提とするならば、ジャック・リヴェットの35mm短編『王手飛車取り』(1956年)だと言われる。
カイエ派(右岸派)にとって最初の35mm長編作品となったシャブロルの『美しきセルジュ』(1958年)が商業的にも成功したことにより、シャブロルの『いとこ同志』(1959年)、トリュフォーの『大人は判ってくれない』(1959年)、ロメールの『獅子座』(1959年)、リヴェットの『パリはわれらのもの』(1960年)といった今日においてヌーヴェルヴァーグの代表作と言われている作品が製作、公開された。『美しきセルジュ』がジャン・ヴィゴ賞を受賞したのを始め、『いとこ同志』がベルリン映画祭金熊賞(大賞)、『大人は判ってくれない』がカンヌ映画祭監督賞を受賞するなど、ヌーヴェルヴァーグの名を一挙に広めたが、ヌーヴェルヴァーグの評価をより確固たるものにしたのは、アナーキストとアナーキズムを主題としたゴダールの『勝手にしやがれ』(1959年)だった。
即興演出、同時録音、ロケ中心というヌーヴェルヴァーグの作品・作家に共通した手法が用いられると同時にジャンプカットを大々的に取り入れたこの作品は、その革新性によって激しい毀誉褒貶を受け、そのことがゴダールとヌーヴェルヴァーグの名を一層高らしめることに結びついた。

一方、左岸派の活動は、カイエ派(右岸派)よりも早くにスタートしていた。時期的にはアラン・レネが撮った中短編ドキュメンタリー作品である『ゲルニカ』(1950年)や『夜と霧』(1955年))が最も早く、その後、レネは劇映画『二十四時間の情事(ヒロシマ・モナムール)』(1959年)と『去年マリエンバートで』(1961年)を製作した。カイエ派、左岸派を含めた中で最初の長編劇映画はアニェス・ヴァルダの『ラ・ポワント・クールト』(1956年)だった。ジャック・ドゥミは『ローラ』(1960年)を公開した。これらが商業的な成功も収めたことから、1950年代末をヌーヴェルヴァーグの始まりとすることが多い。

トリュフォーやルイ・マルが過激な論陣を張った1967年のカンヌ映画祭における粉砕事件までを「ヌーヴェルヴァーグの時代」と捉えるのが妥当だと言えよう。この時点までは右岸派や左岸派の面々は多かれ少なかれ個人的な繋がりを持ち続け、運動としてのヌーヴェルヴァーグをかろうじて維持されていたが、この出来事をきっかけとしてゴダールとトリュフォーの反目に代表されるように関係が疎遠になり、蜜月関係と共同作業とを一つの特徴とするヌーヴェルヴァーグは終焉を迎えることとなった。ヌーヴェルヴァーグが興った1950年代から1960年代にかけては、フランスにおいては映画に限らず多くの文化領域で新たな動向が勃興しつつあった。それはサルトルを中心とした実存主義や現象学を一つの発端とするもので、文学におけるヌーヴォー・ロマンや文芸批評におけるヌーヴェル・クリティック、さらには実存主義を批判的に継承した構造主義など多方面に渡った現象であり、ヌーヴェルヴァーグもこれらの影響を様々に受けていると言われる。事実、ヌーヴォーロマンの旗手であったアラン・ロブ=グリエやマルグリット・デュラスは、原作の提供や脚本の執筆のみならず、自ら監督を務めることでヌーヴェルヴァーグに直接的に関与している。

日本におけるヌーヴェルバーグの影響としては、1960年代に松竹が、大島渚、吉田喜重、脚本家の石堂淑朗などによる作品の演出や作風が当時のフランスのヌーヴェルバーグと呼ばれた若手監督に似ていることに着目し、彼らの映画を「松竹ヌーヴェルバーグ」として売り出したことが挙げられる。