
1942年・第14回アカデミー賞で脚本賞を受賞。 作品賞など9部門にノミネートされながら其の他の賞は新聞王ハー ストのの妨害が在り取れなかったと言われている。「薔薇のつぼみ」 というのがネタバレ的にこのエイガのツボに成っているが、彼にとって「バラのつぼみ」とは、 手に入れることのできなかった「愛」なのだった。最後にかつて幼きケーンが遊んでいたそりがあり、誰も気にも留めないそのそりには「ROSEBUD( バラのつぼみ)」のロゴマークが印刷されていた。 城の煙突からは遺品を燃やす黒い煙がもくもくと天へ立ち昇り、 屋敷を囲むフェンスには「NO TRESPASSING (立入禁止)」の看板が掲げられていたラストシーンは印象的。

語り手それぞれの視点によってケーンの様々な人間性があぶり出さ れていき、黒澤明監督も『羅生門』(50)や『生きる』(52) などでこの手法を使っている。
また出演者の殆どが初めての出演というのも凄い。ジョゼフ・ コットンは演劇関係のジャーナリストとして働いていたが、 俳優になるためニューヨークに移り1930年にブロードウェイに デビューし、そこでオーソン・ウェルズと出会って、 1937年から彼の劇団に参加するようになった。翌年、 ウェルズの監督作品『市民ケーン』で映画デビュー。
このジャーナリストとして「ケーン」 が頭角を現すのはケーンの両親は小さな下宿屋を営んでいたが、 ある時宿泊費のかたに取った金鉱の権利書に大変な価値がある事が わかり、その名義人である母親は大金持ちとなった。 母親は反対する父親の声に耳を貸さずケーンをニューヨークの銀行 家サッチャーの元に預け、 彼に運用を任せた資産をケーンが25歳になった時に全て相続させ る事を決める。 雪の中そりで遊んでいた幼いケーンは自身をニューヨークへ連れ去 ろうとするサッチャーを持っていたそりで殴りながらも結局両親か ら無理やり離されニューヨークで育った。 25歳になり莫大な資産を相続したケーンはサッチャーに「 育ててくれと頼んだ覚えもない」と、 後見人でありながら冷たく彼を遠ざけ去り、 友人のバーンステインとリーランドを引き連れ、買収した新聞社「 インクワイラー」の経営に乗り出す。

知事選とスーザンの一件でもうニューヨークには居られないと感じ たケーンは、郊外に荘厳な大邸宅、通称「ザナドゥ城」 を建て移り住むが、ケーンと2人、 他には使用人しかいない孤独な生活にスーザンは次第に不満を募ら せる。そしてある日ケーンと口論となったスーザンは「 あなたの行いは全て自分の為」と言い残し、 行かないでくれと懇願する彼の元を去る。一人残されたケーンは彼女の部屋にある物全てを破壊していくが、 スノードームを見つけるとそれを握りしめ呆然とした表情で城のど こかへと消えた。そして時は流れ、 年老いたケーンは孤独な最期を遂げる。 トンプスンは最後にザナドゥ城まで取材にやってくるが結局誰も「 バラのつぼみ」の意味を知らず、その意味は謎のままに終わる。
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小生、普通部-中学校- の頃から新聞製作をして大学でも新聞研究所に所属していたので、マスコミ-新聞- は記者は多くの読者が後ろに控えている事を意識して取材し、 一人のために書く物では無いと事を嫌と言うほど教えられた。 しかし、新聞しか無い時にはその影響力は凄いモノで、 ついつい天下取ったと思ってしまうのかも知れない。 今日も知床観光船社長の記者会見で「天下を取った」 様な気分で質問している記者が目立つ。
日本の新聞も読売の正力、朝日の村山、産経の前田などが創業者として影響を与えてきた。なかでも時事新報は1882年( 明治15年)3月1日、福澤諭吉の手により創刊され、その後、 慶應義塾大学およびその出身者が全面協力して運営した戦前の五大新聞の一つである。創刊に当たって福沢は「 我が日本国の独立を重んじて、畢生の目的、唯国権の一点に在る」 と宣言した。 不偏不党とか皆平等とか言うがやはりそれなりの旗幟があって、アメリカではハッキリ支持政党などを謳って書いているが、 日本ではやや曖昧で、 もうすこしハッキリ旗幟を出しても良いのではと思う。
(保屋野)名作中の名作と云われる「市民ケーン」は昨年6月に、愛好会でも話題になりました。
その結果、斬新な映像については評価が高かった半面、総じて、意外にも「やや否定的」な感想が、私含め多数を占めました。
(安田)映画史上ベストとの評を知りつつ、前回に放映で初めて観ました。