エーガ愛好会 (130)  夕陽に向かって走れ   (34 小泉幾多郎)

赤狩り旋風の犠牲者エイブラハム・ポランスキーがニューシネマの台頭と共に、20年振りに監督復帰を果たした作品。脚本は相当数書いたが、監督はこの作品を含め生涯3本のみ。如何に赤狩り旋風が、有能な才能を無駄にしてしまったかの見本。

インディアンの青年ウイリー・ボーイ(ロバート・ブレイク)が、結婚を反対されたため、恋人ローラ(キャスリン・ロス)の父親を誤って殺してしまう。恋人を連れて逃亡するが、やがて追手の銃に倒れると言う実話をもとにしたドラマ。この絶望的な逃避行を続けるインディアンこそ当時のボロンスキー自身が被害者意識として表したのではなかろうか。

赤狩りにより、20年間ハリウッドを追放されていた監督の思いはボーイそのもので、自分は愛する人と一緒にいたいのに、インディアンというだけで差別視され、正当防衛も事故にも拘わらず殺人犯という汚名を着せられ逃げざるを得なくなる。待っているのは絶望だけ、ボーイの怒りと悲しみ絶望はまさに監督のそれ
を表している。そのことから、内容は白人とインディアン、昼と夜、移動と潜伏、地形の高低差などといった対立構造に象徴される差別的な視線で描かれていく中でも、走り、追うという追跡の徹底的単純化が独自性を生み出している。

追う方の主人公保安官補クリストファー・クーパー(ロバート・レッドフォード)は、インディアン青年ボーイにどことなく親しみを抱いており、スッキリしない人物だけに演じる方も容易でなかったのではと同情してしまう。まずは保護区監察官で女医エリザベス(スーザン・クラーク)と懇ろになる打算的性格、このエリザベスもインディアンにウイスキーを売っている者を糾弾したかと思えば、逆にインディアンに同情的な言動を吐く。クーパーは更に、町を訪れた大統領の警備の任にも携わる出世意欲もあるかと思えば、どこか斜めに見る反骨精神もあるという人物。最後は、ボーイのために自殺を選んだのか花嫁姿のローラの死体を発見、岩山へ追い詰めてクーパーの弾丸がボーイを倒す。しかしボーイの銃には弾が入っていなかったことを知ったクーパーは、二人の無益な逃亡と何の意味もなく散って行った命を思い胸に重い痛みを感じ、せめてもの慰めに火葬にすべく火を焚くのだった。火葬はクーパーなりのインディアン対する弔い方だが、手柄を立てることが目的のため死体を持ち帰りたい保安官(チャールズ・マックグロー)という権力に対する反発を強烈に表現したとも言える。

全般的に、ニューシネマとは言え、有機的な動きや堂々とした風格も感じられ、西部劇らしい叙情や登場人物の深い心理描写、監督の主張したいテーマが作品の中に溶け込んでいるので、悲劇的結末ではあるが、それなりに満足感は感じられた。撮影が「明日に向って撃て」他3本でアカデミー撮影賞のコンラッド・L・ホールで、夜霧の中、ボーイとローラが息を殺して追手をやり過ごすシーンやらクーパーが痕跡を追っているシーンの背景の岩山で対立する二人等全てが二つのもので表現されている気がしてならなかった。

音楽はデイブ・グルーシンで。従来型の西部劇のテイストは皆無、ジャズや現代音楽的な味付けで、メロデイ感覚のない抑制の効いた音で占められていた。

(ウイキペディアから転載) 赤狩り

ローゼンバーグ事件に代表される共産主義者による深刻な諜報活動に加え、1946年からの東欧における、また1949年中国大陸における国共内戦の末の共産主義政権の成立、1948年から1949年にかけてのベルリン封鎖、および1950年から1953年朝鮮戦争におけるソビエト連邦中華人民共和国からの圧迫により高まった緊張に対して増大する懸念に合わせたものである。この場合の「」は共産党およびその支持者を指す。日本語の名称である赤狩りに対応する英語の名称Red Scareは”共産主義の恐怖”の意味であり、増大していた共産主義者の活動に対する強い懸念を示している。1953年より上院政府活動委員会常設調査小委員会の委員長を務め、下院の下院非米活動委員会とともに率先して「赤狩り」を進めた共和党右派のジョセフ・マッカーシー上院議員の名を取って名づけられた。マッカーシーに協力した代表的な政治家は、リチャード・ニクソンロナルド・レーガンである。

(ウイキペディアから転載) ニューシネマ

アメリカン・ニュー・シネマともよばれる。1960年代後半に生まれたアメリカ映画の新しい潮流で、アーサー・ペン監督の『俺(おれ)たちに明日はない』(1967)がその先駆けとされる。続いてジョン・シュレジンジャー監督の『真夜中のカーボーイ』(1969)、デニス・ホッパーDenis Hopper(1936―2010)監督のイージー・ライダー(1969)などが生まれるに及んで、アメリカ映画の新しいジャンルとして認知される。最大の特徴は、反体制的なあるいは体制から脱落した人物が主人公になっていることで、そこから現実批判が提起される。俺たちに明日はないは、1920年代末の大恐慌時代に実在した若い男女の犯罪行を描いたもので、体制のからはみ出した若者像を鮮烈にとらえていた。『真夜中のカーボーイ』が描くのは、ニューヨークの廃屋に住む2人の若者のみじめな日常である。そして『イージー・ライダー』は、ヒッピーのような生き方をしている若者2人が、マリファナを密売した金を持って、オートバイでアメリカ西部から南部ニューオーリンズに向かう。主人公が2人で、それも男2人であることが多いのも、ニュー・シネマの特徴で、男女の愛よりも男同士の友情重点が置かれる物語が多かった。ニュー・シネマは、定型の枠に閉じ込められて生命力を失ったハリウッド映画に対する批判として生まれたとされ、その新鮮な表現が社会に衝撃を与えた。しかし、現実批判のリアリズム描写に傾きすぎて、アメリカ映画の基本的性格であった娯楽性に欠け、映画に夢と憩いを求める観客からしだいに見放されるようになる。時代的に見ると、ヒッピー文化、ベトナム反戦運動といった風潮の反映として生まれたのがニュー・シネマであり、大きな反響を呼んだ。アメリカ社会が保守化するとともに自然消滅したが、世界の映画に与えた刺激は大きかった。

(編集子)ニューシネマに分類されている作品もいくつか見たが、”バニシングポイント” の印象は強烈だった。