キルギスの小母さんのひとこと

12月19日付読売新聞の11面のある記事が目に留まった。

キルギス強権へ回帰 という記事で、ソ連解体後の中央アジア各国の間で民主主義を標榜してきたキルギスに強権政治が復活しつつある、という内容である。中央アジア、という領域は日本人にはあまりなじみのない地域で、我々が知っているのはせいぜいモンゴルくらいであろう。キルギスという国は旧ソ連の延長体制が継続している領域で、独自の民主主義的知見によって運営されてきた国だそうだが、昨今は同国の政治体制に変化が生まれ、強権主義的国家に変貌するのではないか、という解説である。中国の動静もふくめて、民主主義というイデオロギーそのものが問われ始めている気がする。しかしこの種の議論そのものには小生にとってはすでに不毛としか思えないのであまり興味がない。

この記事で興味を持ったのは、 “強権か民主的かは私にはわからない。生活を改善してくれる指導者が必要だ” と言い切った一主婦の発言である。この発言には千金の重みがある。一般の国民にとっては、日々の生活をまともに送れる社会ができるのであれば、それがどんなイデオロギーであろうが関係ない、というのが偽りのない真実なのだと思うからだ。

塩野七生のライフワーク、ローマの歴史を少しかじったことがある。その中で、ローマの皇帝にとっての政治とは、国民にパンを与え、娯楽としてサーカスを提供することだった、という(表現は違っているかもしれない)一節を覚えている。歴史書には今の西欧の民主主義の源はといえばギリシャローマの時代、と書いてあるが、その社会のインフラは実は奴隷が支えていたという事実は無視されているのがふつうである。それにもかかわらずこの時代が西欧文化の根源としてある種の理想形態として論議されるのは、実は民主主義か否かなどという議論ではなく、”とにかくパンに事欠かず、サーカスを楽しめれば幸せだ“ということだったのではないか。その陰で奴隷たちがどういう生活を送っていたかなどということは考えずに。

先週は太平洋戦争(学会ではこの戦争の正式な呼称が決まっていないというのだが)終結80年、ということで回顧や秘話といった報道が沢山あったし、このブログにも畏友船津の一文をご紹介した。いろいろな主張があり、それぞれの戦後があるのは十分承知で、ぼくはこの80年の日本の政治はまさに歴史に残る成功例なのだ、と言ってみたいのである。その心が、上にひいたキルギスの一主婦の至言なのだ。

経済の専門家は日本経済の脆弱を憂い、市民団体や一部自称インテリは憲法9条が平和をもたらしたのだという頑迷な迷信におちいり、右翼の人は日本人の劣化をなげき、かたやいろいろな自己憐憫の果てに殺人や放火を平然とおこなう輩がいる、この日本の80年の政治を、歴史に残る善政だ、と勇気をもって小生は主張する。その理由はただひとつ、1945年8月15日以降、80年の長いあいだ、我が国はただひとりの若者も戦争で死なせていないからだ。日本だけだ、とまで言い切る勇気はないが、このような国がいくつあるか。こんな例は江戸時代の我が国を覗けば稀有の歴史的事実なのだ。キルギスの主婦が喝破したような、そういう社会が今、ここにあるのだ、とは思えないか。

しかしながら今日まで、日本の政治が優れている、と論じた例はまず存在しない。労働生産性が低いとか、平和ボケだとか、確かに現象として存在することはもちろん認めるし、現在が理想状況なのだ、などというつもりはもちろん、ない。ないけれどもあえてふたたび勇気をもって言い切ってしまえば、今日の日本がそれなりの平和を謳歌できる最大の理由は米国の軍事力に支えられているのであって、拝米主義と言われようが沖縄の基地問題があろうが感情論がなんとわめこうと、ある意味ではまことに冷酷な事実なのではないのか。そして何と言われようと、現実は現実である。憲法論議が盛んだが、現憲法では国を支えきれないという単純な事実はなにも憲法学者でなくても、我々にも読めるその前文を一読すればわかることだ。そしてアテネの民主主義が実は奴隷労働によって支えられていた、という史実を思い出してしまうのだ。

しかし国民の多くが、日本の政治の貧困をなげく、最大の理由は見識ある人々を含めて多くの日本人が、一様に極めて薄い間隙からのぞいた他国のいわばいいとこだけを見て、それと日本の現実と比較した結果、だから日本はだめなんだ、という自虐的妄想に落ちいっているからなのではないか。

マスコミの報道は連日のように、政治家や資産家連中の腐敗や騒動やに満ち満ちているが、ほかの国の裏面は特別の機会でもなければ、あるいは情報通、と自称する人々のツイッターでもあさらなければわからない、つまり他人の芝が青いか黒いかも知らずに自分だけで落ち込んでいるのではないか。

面白いのはこの読売記事のタイトルが民主主義、という言葉に対して強権、と言っていることだ。中国はその強権政治の見本みたいなものだが、なお、共産主義、という看板を下ろしていない。小生の共産主義についての知識は共産党宣言を読んだ程度でお話にならないが、それでも、今の中国の在り方がマルクスレニンの主張とはかけ離れたものであることだけはわかる。此処でももう、イデオロギーで政治を論じることの無意味さを改めて感じる。キルギスの主婦の一言が今の世界のすべてで問われるべきことなのではないだろうか。