霧の山稜

今朝、起きてみたらあたり一面、深い霧だった。室温は23度。いつも朝食前に小淵沢駅近くまで新聞を買いに出るのだが、今日は逆方向へ大回りをして八ヶ岳周遊道路(通称ハチマキ道路)へ、途中から甲斐小泉駅へ降りる道へ出た。小海線の踏切まで2キロほどの道が深い森を抜けるこの道で、霧の空気を吸いたかったからだ。途中で車を止めて,車外に出る。すっかり濡れているのであまり深く入るのはやめたが、それでも森の中へ分け入ってみる。15年も前だろうか、渋の湯から森へ入ってみて方向がわからなくなり心細くなった時のことを思い出しながら、しんとした空気を満喫して帰ってきた。

僕にはいわゆるクライマーと呼ばれる人たちの気持ちがよくわかるわけではないが、そのグループの中で著名な芳野満彦の 山靴の音 という本は愛読書のひとつである。大半を占める登攀記録にはほとんど心を惹かれないが、自身で書いた挿絵や短い文章が好きなのである。その中にあるこの一節が特に好きだ。

 

標高3000メートルを超える冬山の霧と山麓の林の霧が同じ色なのかどうか、わからないが、なにか レントゲン色 という一句に心を惹かれる。

山の文学、と言っても芳野とは全く違った雰囲気で好きなのが 霧の山稜 という一冊。2年の夏、金峰からの縦走に連れて行っていただいた金井隆儒さんから勧められて帰京するとすぐに買った本である。今どきなかなかお目にかからない、どっしりとしてそれだけで雰囲気のある本だ。その中の 霧 という一節。

 

霧の中にサルオガセが揺れていた。

シラビソの梢が、無限に重なって続いていた。遠く近くぬれたしわぶきとつぶやきは 落ちる雫の音だった。

 

僕の愛読してやまない本の一冊が愛好者の多いと聞く山口耀久氏の 北八彷徨 である。同氏の人柄もあるのだろうが、彼の文章は多くの場合明るく、時としてユーモラスでもあるが、そのなかでやや違って感じられる 落葉松峠という一文がある。

……..小広い平地になってひらけたその峠は、風と雪と、乱れ飛ぶ落葉松の落ち葉の、すざまじい狂乱の舞台だった。風に吹き払われる金色の落葉松の葉が、舞い狂う雪と一緒に一面に空を飛び散っていた。

滅びるものは滅びなければならぬ! 一切の執着を絶て!

もはやそこに、悔いも迷いも、ためらいもなかった。すべてがただ急いでいた。一つの絢爛を完成して滅びの身支度を終えた自然が、一つの季節の移りをまっしぐらに急いでいた……..

山口氏がこの峠に上った時、どんな気持ちだったのか、2003年夏、畏友山川陽一の計らいで一夕をともにすることがあったので聞いてみたが、それとなくはぐらかされてしまった。それ以上聞くことも失礼と思ってやめてしまったが、なにか口にだすのをためらっておられたような印象が残っている。

だがこの時の同氏の感情と、今、その山麓の霧の中にたたずんでいる自分との間には、何か同じものがあるように思えるのだが。