
龍は仏教を守護する異教 8種の神・八部衆の一神に数えられ、法の雨(仏教の教え)
なお、ネットで調べたら、天井画で重文なのは、妙心寺法堂、相国寺法堂、大徳寺法堂とあり国宝はないようです。ちなみに、岩松院の葛飾北斎天井画は「小布施町宝」止まりです。

旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)

龍は仏教を守護する異教 8種の神・八部衆の一神に数えられ、法の雨(仏教の教え)
なお、ネットで調べたら、天井画で重文なのは、妙心寺法堂、相国寺法堂、大徳寺法堂とあり国宝はないようです。ちなみに、岩松院の葛飾北斎天井画は「小布施町宝」止まりです。
最近、TV放映の西部劇も再放映が多く、久しぶりに12月11日
映画は再起を果たした野球選手ビリー・ワイアット(マー
実はこの映画を観て、自分自身の遠い青春を思い出した。恋心とい
残念乍ら彼女はもういない。
(編集子)誰でもがどっかに持っている、幼い恋慕の記憶が、わが小泉さんの名文でつづられるとなんだかほんのりというか、嬉しいもんだ。今の小泉さんの表情がしっかりと分かる写真だ。セーブゲキがないとこういう名文が生まれるんなら、しばらく、金曜西部劇はなくてもいいかな。
スガチュー、こーゆーの、いかが。幼稚舎は共学じゃなかったんだっけ。
「コナン・ドイル伝」(副題:ホームズよりも事件を呼ぶ男。著者:篠田航一。発行:講談社現代新書/2025年)を読む。
著者は毎日新聞の甲府支局、東京社会部、ベルリン特派員、青森支局次長、カイロ特派員、ベルリン特派員、ロンドン特派員などを経て、現在は、2025年4月より外信部長。この様に、新聞記者を長年経験して来ただけに、その文章は極めて明解で分かり易い。新書であるならば、一般の読者を対象としているが故に、学者が書いた学術論文紛いの独りよがりの分かりにくい文章ではなく、当たり前のことなのだが、こうであらねばならない(学者でも、唯一の例外は、「知的生産の技術」などの著作がある生態学者の梅棹忠夫だが、ここでは名前を挙げるだけに止めておく)。
コナン・ドイル(以下、ドイル)と言えば、忽ち思い出されるのはシャーロック・ホームズだが、小生が初めて読んだのは、1951/52年、月曜書房から、延原謙が訳した「ホームズ全集」全13巻だ(これは、後に、新潮文庫に収められた)。その後、70年以上も、所謂、ホームズものは読んでいないが、今に至るも記憶に鮮明に残っているのは、短編では「赤毛組合」、長編では「バスカーヴィル家の犬」だ。「赤毛・・・」は、そのトリックが単純であるが故の見事さ(小生の記憶に間違いがなければ、アガサ・クリスティーは「バートラム・ホテルにて」(1965年)で、そのトリックを巧みに応用している)、「バスカー・・・」は、家族の皆が寝静まったところで読んだのだが、その犬の恐ろしさに今にもその犬が出て来るのではないかと、暫し、眠れなくなった。とにかく、全13巻の一冊一冊が出るたびに、それこそ、寝食を忘れ、ホームズの推理に胸躍らせて読み耽ったものだ。でも、今やホームズと言っても、英国BBCのテレビ・ドラマ「シャーロック」のベネディクト・カンバーバッチ演ずるホームズしか思い浮かべない人もいるだろう。
ここで余談。先日、山田風太郎の「明治十手架」(1988年)上下巻を読んだのだが、その下巻に「黄色い下宿人」(1953年)と言う短編が掲載されている。話し手はワトソン、主人公はホームズ、所謂、ホームズもののパスティーシュ(既存の物語をもとに、新しいストーリーを生みだすこと)だ。これが滅茶苦茶面白い。夏目漱石に「クレイグ先生」と言う短編があるが、そのクレイグ先生(ここでは博士)の隣家の大富豪が行方不明となり、その解決のためホームズがクレイグ宅を訪れる。そこに、黄色い下宿人が訪れ、ワトソンがホームズの解決案を「神の如き明察」と呼んで賞賛するのだが、直ちに黄色い下宿人がその間違いを指摘し、ホームズの鼻をまんまと明かす。そのホームズをも凌ぐ名探偵、黄色い下宿人が夏目漱石と言う痛快無比な物語だ。後書きで山田は、夏目の「文学論」序の中の、「倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり」を引用している。
閑話休題。知る人ぞ知る、ドイルには全く別の面があった。それは、心霊現象を信じていたことだ。その切っ掛けは、第一次世界大戦後に、母と弟を亡くし、超常現象を信じることで、寂しい気持ちを紛らわせるためだった。
そこで、ここでは二つの典型的な挿話を挙げてみよう。一つは、1917年7月のイングランド中部、コティングリーの妖精事件だ。二人の少女がカメラを持ち、小川で数枚の写真を撮った。現像すると、そこには羽が生えた小さな妖精が写っていた。これは、66年後の1983年、二人は捏造(妖精の絵を模写して切り抜き、ピンで木の葉に固定して撮っただけの単純な代物だった)だったと告白している。ところが、当時、ドイルは本物の妖精だと主張した。もし妖精の写真が世間に受け入れられたら、霊の存在も信じて貰えると言う魂胆だったらしい(インチキと言えば、日本にも、2014年、小保内晴子のSTAP細胞事件があった)。
もう一つは、1926年12月のA.クリスティー失踪事件だ。失踪の原因は、クリスティー自身も何も語っていないし、今に至るも不明のままだ。ここでは、ドイルは心霊捜査の手法を用いた。クリスティーの手袋をその夫から借り、知人のサイコメトリー(ものに触れたり近付いたりすることで、その所有者に関する事実を読み取る行為)を得意とする霊媒師に渡すと、その霊媒師は立ちどころに「アガサ」と言う。そこで、ドイルはその霊媒師の能力を一層信じるようになる。加えて、「この人は死んでいない、次の水曜日に分かる」と言う。実際にクリスティーが見つかったのは12月14日の火曜日だが、それが水曜日の新聞に載ったことから、ドイルは予言が当たったと強弁した。その上、新聞に寄稿し「英国の警察は心霊捜査を導入すべきだ」とまで主張した。
でも、幸いなことに、著者も言っているように、「最後までホームズを心霊の世界に連れて行くことだけは踏みとどまった。おかげでホームズは、今も“理性の人”でいてくれている」。
(HPOB 菅井)最近、生成AIとの対話を楽しんでいます(
菅井:
一般的に米国人は「自由・権利」
ChatGPT:
結論から言えば 「はい、その通り」 です。
アメリカでは 「自由・権利」>「国家・治安」 という価値観が強く、
(44 安田)AI恐るべしの「目から鱗」の好例ですね。
(42 下村) AIの回答はすばらしいと思います。
(編集子)下村菅井両兄のご卓見、拝受。
ブラディドール、血塗れの人形、といえば穏やかではないが、だいぶ以前、話題にしたことのある北方謙三のシリーズ小説の題名である。初見はもう20年以上前のことだが、ときどき読み返すことが増えてきた。北方は西村京太郎同様、多作作家だが、西村が推理小説に限っているのに対し、歴史ものからサスペンスまで、幅広い領域の作品を世に問うている。もともとは純文学をこころざしていたというのだが、”逃れの街” ”弔鐘はるかなり” などで認められ、同じころデビューした大沢在昌とか逢坂剛、船戸与一などともにハードボイルド作家、という評価を受けている北方はほかにも三国志をはじめとする大型の歴史小説など、その多作ぶりには驚嘆させられる当代の人気作家になってしまった。
”ブラディドール” は北方をHB作家として認めさせるようになった初期の作品で、架空のN市(沼津がモデルだろうと推測されている)にある同名のバーを偶然に訪れることになる、過去を背負った男たちの、一話完結型のストーリー10冊からなるシリーズである(北方はほかにもシリーズものをいくつも書いていて、それぞれにファンはいるようだが、小生はまだ未読である)。
シリーズ第一作 さらば荒野 ではじまり ふたたびの荒野 で終わる10冊の第二作では刑務所あがりのバーテンが、三作めでは米国で成功しながら愛妻を殺され日本に戻ってきたホテルマンが、次には高名であるが過去のある画家が、というようにいろいろな男たちか各々違った理由でN市に流れ着き、それぞれ、北方の表現によれば (男の死に様、すなわち如何に生きるか)というテーマを意識させるストーリーを展開してゆく。一編ごとに難しい筋やなぞときがあるわけでもなく、文章にもたとえばHB論で語られる ”ヘミングウエイ流の” 工夫がみられるわけでもない作品だ。このシリーズを、なんで今頃、読み直す気を起こしたのか、自分でもわからない。ただ明らかに人生の黄昏を日々意識するようになって、 北方がこのシリーズのテーマだとしているという ”男の死に様すなわち生き方”、 聞きようによってはいやったらしく気障なテーマにぶつかってみようかと思いだした今、ヘミングウエイでもサルトルでもプル―ストでもない、世の中のインテリには鼻であしらわれるだろう街の文学が、もともと意地っ張りでなんか権威っぽいものには理由もなく反抗してきた僕には、より身近なものに感じられるようになってきた、ということなのだろうか。
この作品は北方にとっても大きなステップであったのだろうが、出版元の編集担当者との対談が一冊にまとめて刊行されていて、このシリーズのみならず、北方文学のファンにはまたとないガイドブックになっている。
このシリーズの愛読者として、一つやろうと思っているのが、”ブラディドールのある街の地図の作成” である。だいぶ前、スー・グラフトンに凝っていた時、主人公キンジー・ミルホーンが住んでいるサンタ・テレサの街の見取り図をこころみたことがある。大分進んだところで調べてみたら、すでにやり終えた女性がアメリカにいて、地図まで発表されていることがわかって落胆した。今回も同じようなことになるのかどうか、10冊を再読して、街の地理に関係ありそうな字句を抜き出して推理する。どこまで根気がつづくか、しばらく、お待ち願おう。
その鎌倉が何故「世界遺産」に登録されないのか。ネットによると
また、京都等の寺社の世界遺産の条件は①「国宝建造物」あるいh
なお、建造物ではありませんが、高徳院の「鎌倉の大仏」も国宝で
世界遺産登録は難しそうですが、山と海に囲まれ、歴史ある寺社仏

(普通部OB 田村)ご指摘通りの状態が鎌倉で、「武家の古都・鎌倉」を表題にして世
落選理由は「武家の古都」が実際にない、残ってないというのが、大きな理由と言われています。
どこを歩いても「武家の古都」を目にすることはなく、あるのは「
とはいえ、古い鎌倉大仏、八幡宮・寺院があり、山と谷戸の緑と海

(42 保屋野)私とシモさん、Dr河瀬も12/2に同期の「鎌倉アルプス紅葉狩
かって、去年の夏亡くなった萩原(ニンニン)に案内してもらって
また同時に去年の秋に相次いで亡くなった安川とペタも偲んで歩き
鎌倉宮に下って、バスで鎌倉駅→(江ノ電)稲村ケ崎→稲村ケ崎温
(44 安田)高校時代の友人3人と鎌倉を徒然なるままに散策し、1万5千歩
(普通部OB 船津)田村耕一郎さんと鎌倉漫遊しました。鏑木清方展・川喜多記念館・
(編集子)我が家の墓地は鎌倉霊園。そろそろ行かなくちゃならねえな。小町通に見つけたちっちゃなフランス料理か、八幡様のななめのうなぎ屋か。食い気のほうが先に出てくるのも困ったもんだ。
在日本中国大使館は12月2日、高市早苗首相が先月の党首討論で言及したサンフランシスコ平和条約について「不満かつ無効である」との主張をXに投稿した(朝日新聞、12月3日(水)、19時、配信)。
サンフランシスコ平和条約とは、太平洋戦争後に連合国諸国(米国など)と日本の間に締結された平和条約で、1951年9月8日に署名され、1952年4月28日に発効した。ただし、ソ連(米国が日本に駐留することになることを理由に調印しなかった)、中華民国、中華人民共和国(この両国は招待すらされなかった)は、この平和条約には参加していない。
先ず、この平和条約に参加、調印すらしていない中華人民共和国が、「不満かつ無効である」と述べても、当事者でもない国が第三者同士の締結した条約は無効であると文句を述べたところで、この条約は聊かも揺るぐ筈がない。正に、犬の遠吠えだ。
そこで、中華人民共和国のこの投稿が正しかったと仮定してみよう。すると、その最大の問題は、この条約では「台湾、澎湖島の権利、権限及び請求権の放棄」を謳っていることだ。ただし、帰属先には言及していない。従って、「不満かつ無効である」と主張するならば、日本が台湾を放棄することに反対していることになる。つまり台湾は依然として日本の領土と言うことになるわけだ。こんな自分に不利になることを、わざわざ中華人民共和国は望んでいるのか。
と言うわけで、ボンクラの小生には、何故、中華人民共和国がこんなバカバカシイことを大使館を通じて公にしたのか全く理解できない。この行為を自爆行為と嘲る人もいる。日本
から慣例の遺憾砲が飛んで来ないことから、焦りまくって、支離滅裂になってしまったのか。
ここでもう一つ問題にしたいのは、所謂、オールド・メディア(小生は、オブソリート・メディアと呼んでいるが)、例えば、日経ではこの問題には殆ど触れていないことだ。これで世の中の動きが的確に分かるのだろうか。確かに、ネットの情報が玉石混交であるのは間違いない。しかし、少なくとも小生にとっては、今や、ネットはなくてはならぬ媒体であり、貴重な情報源となっている。
(44 安田)まさに溜飲が下がる思いがします。いつもながらの小気味の良い、
日本国との平和条約(にっぽんこくとのへいわじょうやく、英語: Treaty of Peace with Japan、昭和27年条約第5号)は、1951年9月8日に第二次世界大戦・太平洋戦争後に関連して連合国諸国と日本との間に締結された平和条約。通称はサンフランシスコ平和条約。サンフランシスコの英語の頭文字(San Francisco)を取ってSF条約とも呼ばれる)。
この条約を批准した連合国は日本国の主権を承認[注釈 2]。国際法上、この条約により日本と多くの連合国との間の「戦争状態」が終結した。なお、ソビエト連邦は会議に出席したが、連合国軍による占領終了後におけるアメリカ軍の駐留継続に反対する姿勢から条約に署名しなかった。旧イギリス領のインドとビルマは欠席した。旧オランダ領のインドネシアは条約に署名したが、議会の批准は実施しなかった。その後、日本はインドネシア、中華民国(台湾)、インド、ビルマとの間で個々に平和条約を締結したが、ソビエト連邦(およびその国際的地位を継承したロシア連邦)との平和条約は締結されていない。
本条約はアメリカ合衆国のカリフォルニア州サンフランシスコ市において署名されたことから、サンフランシスコ平和条約、サンフランシスコ講和条約ともいう。1951年(昭和26年)9月8日に署名され、同日に日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約も署名された。11月18日、第12回国会で承認された後[2]、翌年の1952年(昭和27年)4月28日に公布・発効された。
みんなから送られてくる素晴らしい景観とその写真。つい最近のメー
こちとらは、外に出るのも億劫になる歳と共に、外出の機会が、ぐ
(HPOB 金藤)大倉山公園の紅葉みごとですね。遠くに行かなくても楽しめるなんて、羨ましく思います!