“翻訳” の限界について

”英語教育“ についての紙上討論会の過程で翻訳、ということを話題にした。そのこともあって、決心をしてだいぶ以前に購入したまま積ん読になっていた、大佛次郎 帰郷 の英訳版を読むことにした。原作は高校時代に読み、その後、少なくとも2度は読んでいるので、部分的には原作の文章を覚えていたところもあり、はじめてのポケットブックを読むよりははるかに少ない時間で読了できた。

翻訳者の ブリュースター・ホロヴィッツ という人はニューヨーク大学で古典と東洋言語を専攻したあと、米国陸軍の言語研究プログラムで日本語を学んだらしい。 紹介文によるとextraordinary talents for capturing the overtones and implications of the Japanese language (日本語の持つ含意や言外の意味に特に詳しい)と書かれている。この翻訳は1954年(昭和29年、いみじくも小生が高校生になった年)に出されているので、米国人の日本についての感覚は今とはだいぶ違っただろうし、もし日本人が翻訳していたらどういうものになったか、興味が尽きない。現在では日本人でも留学とか業務の都合とかで外国生活経験の豊富な人たちが数多くいるので、こういう人が翻訳に当たったら、もっと違う感覚だったかもしれない。戦後まもなくのこともあるし、翻訳者が日本の現地での生活経験が多くないと思われるのは地名を英訳していることでもわかる(桜木町は Cherry Tree ,清水寺は Clean Water Temple という具合)。戦後間もなく、日本の実情がどの程度分かっていたのかも分からないし、プロの翻訳そのものをとにかくいうのは素人には不可能だ。いずれにせよ、当時の日本人に深い感銘を与えた作品が海外に紹介されたのは喜ばしいことだ。翻訳書の解説を読むと、日本の文学、というもの、そのものがまだ、希少なものだったことがよくわかり、現在の文学界の状況と比べて感慨ぶかい。ただ、何とか読み終えてみて、上記の解説にある (日本語の持つ含意や言外の意味に特に詳しい) という解説には疑問を持った。同時に翻訳、ということの難しさを改めて感じた。そのことを書く。

作品の内容はこうだ。帝国海軍の資金を横領したという疑いで国外追放された主人公が終戦を迎えて帰国する。幼くして別れたきりの娘に一目会うことができないか、というのが 帰郷 した目的であるが、海軍ではすでに海外で客死したと公表して自分の墓まであり、妻は再婚してしまっていて、尋ねることもできない。この事情を知って、一度は主人公を裏切るのだが、陰で彼の思いを遂げさせようと努力する女性がいる。かたや戦争の意味を理解せず見かけの自由にあこがれ、戦後の動乱期の混乱を縫って、裕福な彼女を利用することだけを考える大学生が彼女の歓心を買おうとつきまとう。戦後まもなくよくいたタイプの、米国崇拝、思い上がりの典型として描かれる人物だが、彼は彼女を 小母様 とよび、馬鹿丁寧な(男性的ではない)言葉遣いを連発する。サブキャラクタとして描かれる硬骨の画家も、この大学生に付きまとわれて迷惑し、ある時ついに爆発して大学生に詰め寄る部分がある。僕が違和感を持った個所を引用する。

・・・・“小父さまも古風な方なんですね”

”古風?“

と言いながら、画家はまるで別のことを、猛り立った様子で言い出した。

“そう、なれなれしく俺を小父さまと言うのは、よしてくれ。それだけは絶対によしてくれ”

この部分をホロヴィッツ氏はこう訳している。

・・・・”You’re a bit old-fashioned too, are’nt you, old man?”

“Old-fashoned ?”   But it was’nt that broke Onozaki’s self-control. He was enraged.

“Stop calling me ‘old man’ You don’t know me that well. Don’t do it again, ever.”

この翻訳そのものに問題があるというのではもちろんないが、僕はホロヴィッツ氏が ”小父様“ を old man と字面通りに訳していることにひっかかった。

Old man が年配の男性一般をさすのだから、”小父様“ がそれにあたると同氏が判断されたのだろうということは理解できる。ただ映画などで聞く old man は日本語で言えば、親父、とか、よびかけで おっさん、というような感触がして、嫌味な大学生がなれなれしく使う敬語の乱用で 小父様 という語調とはかけはなれている。僕が好きな西部劇映画のひとつ ”誇り高き男“ で、主人公の保安官ロバート・ライアンに父親を殺された恨みを持つジェフリー・ハンターはそれを隠してライアンの助手になり、機会をとらえてライアンに銃を向ける。そして正確なセリフはおぼえていないのだが “俺のおやじが世話になったそうだな” といい、ここで事実を理解したライアンが、そうか、お前がアンダースンの息子か“ という場面がある。この時、ハンターは自分の親父、を my old man といい、ライアンは ….so yo’re Anderson’s boy” と答える。

この場面でハンターが歯ぎしりしながら言った my old man 、というセリフで、この単語はまさに男が自分の親父、という意味で使う場面なんだな、と思ったものだ(そう言えば、”荒野の決闘“ のラストシーンでフォンダが ”国の父“ という意味で、old man と言っていたような気がするがこれはDVD で確かめておこう)。

何が言いたいか、と言うと、この 帰郷 の一場面での翻訳で、”小父様“ を old man と訳した、ここだけは ”日本語の含意や言外の意味を知っている“ 人のミスだと思うのだ。つまり画家は古い、年寄りだ、と言われたことに腹を立てる以前に、この生意気な大学生の女性的な言い方を嫌悪していたからなのだ、ということは、普通の日本人には明白だから、ここでは大学生が意識的に使っている 小父様 という単語を 親父さん だの おっさん などの単語に置き換えることはしないだろう(そうはいっても、適切な表現を知っているわけではないのだが)。たぶん、ホロヴィッツ氏は公式?な日本語には堪能だったとしても、敬語の使い方、男性風の挙措発言が女性風とどうちがうか、まではご存じなかったのだろう(無理はないと思うが)と思う。米国人が英文を読んでも、至極当然な会話、と受け取るだろうが、その裏にある大学生の軽薄さとそういうものを嫌悪する、日本人の典型のような画家の心情を読み取ることは出来まい。

僕は以前から思っているのだが、かのノーベル賞にある”文学賞“、というカテゴリーの選考者はどうやって他国の文学作品を評価できるのだろうか。技術の分野ならば、絶対に誤解誤用のないような世界標準が決まっているのだから、貢献の度合いをただしく評価することができるだろう。しかし翻訳ひとつでその効果が左右される文学という分野で、たとえばノルウエイのひとが川端の 雪国 がもつ微妙な、日本人が(多分、だけが)持つ感覚や 反応を理解できるのだろうか。そう考えてみて、論理の大変な飛躍かも知れないが、この英訳本との遭遇は翻訳というものの持つ重みを改めて感じさせてくれた。英語教育論戦で書いたのだが、このギャップを埋められるのはやはり bilingual なひとなのだろうか。それとも bicultural の人なのだろうか。幸い、今回の論戦の火付け役の下村君が提示したような、ビジネスの場ならば、技術関連には及ばないが用語や統計についての客観的な叙述とか議論は可能だとは思うのだが。