”82年同期会―俺達のYHP”

1982年4月、YHP 入社の人たちの同期会があり,お招きにあずかった。光栄なことだ(もっとも ”来賓” でも会費をしっかり取るあたり、いかにも ”動物園”の異名をとった集団だと妙なところで感心)。1982年、といえば小生はその前2年間、親会社横河電機へ出向していて戻ったところ、”エッチピー” 文化、が微妙に変わり始めた時期だった。 人事の親玉だった故青井達也さんが、”ジャイよ、YHPも千人を超えた。これからは大きくかわるぜ” とつぶやかれた記憶がある。青井先輩が言っておられた意味が、古いものへの郷愁だったのか、新しいものへの期待だったのか、判然とはしなかったが。

Ever onward, guys !

1982年入社、大学高専高校あわせて371人の新卒が八王子にやってきた (誠に残念だがうち7人が鬼籍に)。人事担当増田君が ”先着順で採用したようなもんだ” と得意のブラックジョークをとばしたように、受け入れから配置、教育までそれまでの会社組織として未経験の体験だったろう。しかしこれが混乱ではなく、誰かが(今となっては不明だがたぶん故小林戴三君あたりだったか?)いみじくも ”動物園” 世代、と名付けたように、ありとあらゆる ”生き物” が 雑然たる中に暗黙の規律 を保っていたのがこの時入社した諸君だったと思っている。この会合はすでに何度か開かれているとのことだが、公式なOB会組織は別として、”同期” という感覚、おそらく軍隊をのぞけば世界広しと言えどもわが日本の中にしか存在しえない連帯感、がこのような人間集団を生み出したのだろう。

このすばらしい連帯感、これを会社、というメカニカルな組織の文化として作り上げた、そしてそれが日本ではなく個人第一のアメリカという風土の中に生まれた、今では現社員の間では死語になったようだが ”HP Way” のもとで芽生えたものであろう。われわれも”動物園”諸君もその中に育まれたことを幸せに思い、光栄だと思っている。

この ”HP Way” も皮肉なことにヒューレット・パッカードの繁栄の中で、いつしか消失してしまった。青井さんが見抜いておられたいわば歴史の必然だったのだろうか。HPのクラウンプリンスだったジョン・ヤング、そのあとを任されたリュー・プラットは ”HP Way” を常に語ったし、組織の巨大化に伴う無機化、官僚化をなんとしてでも防ごうと努力していたのを僕も何度も見ていた。それが会社の実態の変化(電子計測―プロの市場 から コンピューター 大衆の市場 への)とともに、皮肉に言えば会社実績の上昇とともに退場してしまった。それに拍車をかけたのが ”グローバリゼーション” という魔物だった。

いつのことだったか思い出せないが、ミスター・ヒューレットが ”地球上どこへ行っても電流は同じ方向に流れる” と言われたことがあった。ぼくはこれが”グローバリゼーション”の原点なのだと思っている。その後HPは独自の発想で完成した HPIB の技術を公開し、これが世界共通の基本技術として定着した。科学の世界におけるグローバリゼーションにはいささかの疑問も存在しないことのひとつの証左だろう。経理の世界では税務措置を大前提とした伝統的な会計システムに並行して通称”マネジメント” と略称された管理会計システムがジョン・ヤングのもとで導入され、経営の視覚を明瞭に、公正なものにした。ここまではグローバリズムの成功例としてだれもが認めることだっただろう。しかしその世界標化の流れが、”人間” ないし ”文化” をも包含する域までの話となっていったのが80年代後半から90年代へかけてのhpだった。谷勝人さんがアジアパシフィック本部へ栄転され、のちに社長となられた時期は歴史的に見るとこのような流れの中だったのだ。今度の会の冒頭、次代を振り返って甲谷さんが述べられた事実は当時中堅的な立場にあった82年同期生が真正面から取り組まれた課題であった。いろいろなエピソードを聞きながら当時を懐かしく思い出したことだった。

ただ、その後、人事を担当していた僕には、甲谷さんのご苦労には申し訳ない気持ちがあるが、この ”グローバリゼーション” 志向をすべて肯定し賛同する気持ちにはなれなかった、ということを告白する。一部の方々からは強烈な反対反抗を受けた、伝統的部課長制度の廃止とか、人事部諸君のご苦労の結果できあがった新・給与システムとか、労働組合との関係改善、といったあたりまでは、自分がやろうとしていることが ”グローバリゼーション下のYHP  にとって進むべき道だ”という信念があった。しかしアジアパシフィック本部(この地域性に着眼した管理体系はほかの企業でも同じようだが、僕はこの地域による位置づけをヨーロッパにおける場合と同様に考える、という発想自体が間違っていた、あるいはいる、と今でも信じている)の下部にYHPが位置付けられるようになり、その文化的要素まで世界標準にあわせて考えることが暗黙の要求になってからは、疑問煩悶が絶えず、自分の立ち位置の自己矛盾に悩む日が増えたものだった。このあたりはすでに老人の繰り言に過ぎないが。

そのような悩みに向き合う前、ビジネスコンピュータ部門で苦楽を共にした”いっぱち”の18人や、その後東京支社で ”東部には負けるな” と(今回、元気でいれば当然招かれていただろう片岡嗣雄、あのふくれ面が無性に懐かしい)疲れを知らぬ活躍をみせてくれた ”動物園” 世代の底力に助けられたのがぼくの営業時代だった。その懐かしい面々の還暦顔をまぶしく見た、楽しい時間だった。

”yhp82” スタッフのご厚情に改めて感謝する。