スキーだと? チキショーめ!

(小田) 明日から、スキーのお供で赤倉等に行きます。入社1年目の冬、赤倉で、Giさんにスキーの手解きを初心者チームで受けたような気がします。それからずっと初心者のままです。すみません。

(編集子)赤倉でのスキーには小生にとってはいろんな(甘酸っぱい、高校生の頃の)記憶があります。大学では親友づきあいを始めた仲間が燕温泉に良くいっていた名手で、その関係で燕と赤倉の間の林道に新設【1960年だったかな】された、燕ハイランドロッジの居候をしていたものです。なんせ、懐かしい。関見峠リフトからの長い緩斜面なんて、ほんとに懐かしい。ヒコなんかと一緒に滑らせたくないなあ。

(小川) スキーの話になったら黙っておられない、皆さんお目出とうございます。オミクロンの爆発的な感染者急増で市中は賑やかですが重症化は少ないとか、こうやって数年掛かってコロナはインフルエンザのように沈静化していく段階に入ったと思っています。皆さんは百戦錬磨、罹患しても大したことない、マスコミの過剰な情報に惑わされず、ウイズ・コロナの生活をご計画になったらと思っています。

スキーは昭和25年(1950年)中学3年冬、中・高校の恩師に案内されて、オヤジにイタヤの単板スキーを買って貰い、関温泉に連れて貰ったのが初体験、信越本線関山駅に早朝到着したときは凄い積雪にまず驚き、部落を出て関温泉まで続く元高田師団の練兵場後に出た途端、スキーを履かないと歩行できない状態で、おそらく3m近い積雪だったとは思いますが、スキーの扱い方も全く無知の状態で、何とか履いたものの全く一歩も前に歩けず、悪戦苦闘しながら4時間掛かって関温泉朝日屋旅館に到着したのが午後、途中まで旅館のオヤジが迎えに来てくれていましたが、旅館到着の頃にはスキーの初心者テクニックは既に身について居ました。この旅館の息子さんはオリンピックで活躍した久保選手の実家ということを後で知りましたが、兎に角旅館の二階から出入りする豪雪にビックリするばかり、ツララの太さ・長さにも驚くばかりでした。日本最古のスキー場ということですがリフトもなく数日教えて貰い、5日目ぐらいにオヤジが燕温泉から赤倉に連れて行ってやるということで何とか悪戦苦闘して付いて行きました。赤倉の上部から明るい展望を眺め、快適にゲレンデを滑り降りていき、リフトなんてものに初見参したのも思い出されます。帰りは夕闇のなか燕温泉の七曲りを雪明かりで輝く高田の街の灯りの美しさが強烈に印象に残っております。ボーゲンの繰り返しで何とか旅館に辿り着き小生のスキー初体験は強烈な思い出となって未だに残っております。

夏山は恩師のお蔭でアルプス銀座から槍ヶ岳、それに白馬大雪渓と、慶応入学式当日にはワンダーフォーゲル部入部を申請したのが我がKWV入部の経緯です。在学当時の山行は下宿生活の諸事情により非常に不本意でしたが、夏冬の合宿だけはすべて参加しております。 以上思い出すまま懐かしい思い出を記しましたが、何といっても食事事情の悪い1950年から1958年までの記録ですから悪しからず・・・。

(金藤)初めてのスキーで旅館まで4時間かけて到着!? 大変でしたね!残念ながら 赤倉でスキーをした事はありません。野沢温泉 志賀高原スキー場へ行っていましたが、最後の方には奥志賀高原でタラタラ・スキー、アフタースキー中心で終わりました。 保屋野さん、同じ会社勤務でしたら、華麗なるスキー教えていただけましたか?

(保屋野) 赤倉ですか・・オミクロンはまだ大丈夫えしょう。私も24日から尾瀬岩鞍に行く予定ですが、オミクロンによってはどうなりますか。やっこさん、なお、スキーの件、私は自分が楽しむのが精いっぱいで、教えるのが大の苦手です。もし、HPに入っていたら・・・奥志賀で一緒に滑った後「グラン・フェニックス」でコーヒーブレイクを楽しんだかもしれませんね。

(編集子)3シーズン前、涙を呑んでスキーを捨ててしまった身として、周りの連中のことだけがやけに気にかかるのであります。ワンゲル同期のスキーフリークもひとりまたひとり、スキーシーンからいなくなったが、この男だけは健在なのがなんとも癪に障る。

しかもトマム、なんてしゃれ込みやがって。ただ小生にスキーの履き方を赤倉で教えてくれたのはこの男だったのである。浅海昭、山でもしつこく強い。酒もつよく、女性には常に気を配るのでいつもうけがいい。あ、右端にいるほうです。

(編集子追記)我々がKWVに入部したあたりから、スキーシーンが変わったのではないかと思う。高校時代初めてスキーを経験し、1年のシーズンスポーツでは当然ながらスキーを選択。発哺でアルペンスキーの名手と言われた関さんから、“ア・ペル・ロタシオーン” なんてフレンチメソードの基本を教わり、うまくなったつもりで志賀から五色温泉まで夜行を乗り継いで合宿に参加したら、こんどはオーストリーメソードとやらに大変換をさせられた。その次のシーズンにはかの ”黒い稲妻” で大興奮して同期翠川のひきで燕温泉へ行き、同行した飯田昌保なんかとあらためて指導を受け、いっぱしのスキーヤーのつもりでいたものだ。当時我々が実際にお付き合いいただいた先輩の中では、フレンチメソードの体現者というか、上級者だけが会得していた くらげ の名手前田さん(33年卒)と、スピード感あふれる、完璧な滑りが神業に見えた尾崎さん(35年卒)の二人にはただただあこがれていたものだった。国体選手だった三枝先輩(32年卒)のスキーは残念ながら拝見したことがない。OBになってから数多くの後輩たちとお付き合いさせてもらった中では、基礎の出来具合が違うと感心させられた笹田君(50年卒)と、もうひとり、華麗な滑りという意味では第一と思うのが本稿でおなじみ保屋野君である。笹田君や44年の浅野君(44年卒)たちの豪快さもいいが、華麗な、という意味では彼のヴェーデルンは右に出るものがない、と思っている。ミッキーややっこに見せたいものだが(浅海と一緒で、どういうわけか女性軍に人気のあるのが気に入らないけれど)難しいだろうな。ミッキー、もちろんあなたさまのダンナも名手の一人と尊敬してますぜ。