エーガ愛好会(83)  風立ちぬ     (普通部OB 船津於菟彦)

民放テレビで2013年に製作された映画「風立ちぬ」をやって居たので再見した。NHKと違ってコマーシャルの多いのには辟易。

堀辰雄の「風立ちぬ」を軸に日本海軍のエース戦闘機、通称零戦を開発した堀越次郎を絡ませ、更にイタリア人ジャンニ・カプローニを舞台廻し役に登場させている。この男は1908年に航空機メーカー「カプローニ社」を創業し、第一次世界大戦中は連合国向けに、第二次世界大戦中は枢軸国向けに爆撃機や輸送機を生産した。第二次世界大戦で使用された爆撃機「カプローニ Ca.309」は、別名ジブリ(Ghibli)といい、なんとスタジオジブリの名の由来となっている、宮崎駿お気に入り。そこへ堀辰雄の夫人矢野綾子が堀辰雄の小説『菜穂子』の薄明の美人を下敷きに登場する。

飛行機に憧れている少年・堀越二郎は、夢に現れた飛行機の設計家・カプローニ伯爵に励まされ、自分も飛行機の設計家になることを志す。青年になった二郎は東京帝国大学で飛行機の設計学を学び、関東大震災が発生した際に乗車していた汽車の中で偶然出逢った少女・里見菜穂子と、彼女の女中である絹を助ける。世間は世界恐慌による大不景気へと突入していた。東京帝国大学を卒業した二郎は飛行機開発会社「三菱」に就職する。”英才”と会社から評価される二郎は上司たちからも目をかけられ、企業の命運を左右する一プロジェクトの頓挫やドイツへの企業留学など仕事に打ち込んだ。
その結果、入社から5年経って大日本帝国海軍の戦闘機開発プロジェクトの先任チーフに大抜擢されるが、完成した飛行機は空中分解する事故を起こしてしまう。飛行機開発において初の挫折を経験し意気消沈した二郎は、避暑地のホテルで休養を取り、そこで思いかけずに菜穂子と再会する。元気を取り戻した二郎は、菜穂子との仲を急速に深めて結婚を申し込む。菜穂子は自分が結核であることを告白したが、二郎は病気が治るまで待つことを約束して、二人は婚約する。
しかし、菜穂子の病状は良くなるどころか悪化の一途を辿る。菜穂子は二郎とともに生き続けることを願い、人里離れた病院に入院する。二郎は菜穂子に付き添って看病したかったが、飛行機の開発を捨てるわけにはいかず、そのまま菜穂子と結婚して毎日を大切に生きることを決意する。
二人の決意を知った二郎の上司・黒川の自宅にある離れに間借りして、二人は結婚生活を送りはじめる。しかし、菜穂子は日増しに弱っていく。飛行機が完成して試験飛行が行われる日の朝、菜穂子は二郎を見送ると、置き手紙を残して密やかに二郎の元を去り、サナトリウムに戻る。
ふたたび夢に現れたカプローニ伯爵は、二郎が作った飛行機を褒め称えるが、二郎は自分の飛行機が一機も戻ることはなかったと打ちひしがれる。しかし、同じ夢の中で再会した菜穂子から「生きて」と語りかけられる。

堀辰雄 1904年(明治37年)12月28日、東京府東京市麹町区麹町平河町5丁目2番地(現:東京都千代田区平河町2丁目13番)にて出生。東京府第三中学校(現:東京都立両国高等学校・附属中学校)へ進み、4年修了で、1921年(大正10年)4月に第一高等学校理科乙類(ドイツ語)へ入学。同期には、小林秀雄、深田久弥、笠原健治郎らが居た。三中の校長の広瀬雄から室生犀星を紹介され、8月に室生と共に初めて軽井沢へ行く。しかし9月1日の関東大震災で隅田川に避難し、辰雄は九死に一生を得たものの、母親は水死。50歳であった。辰雄は避難先の南葛飾郡四ツ木村(現:葛飾区)に養父と仮寓。10月、罹災後、室生が故郷の金沢へ引きあげる直前に、芥川龍之介を紹介された。震災で隅田川を泳ぎ、母を数日間探し回った辰雄は身体の疲労と母の死のショックの影響で、冬には肋膜炎に罹り休学。この運命的な波乱の年の一連の経験が、その後の堀辰雄の文学を形作った。
9月、北多摩郡砧村大字喜多見成城(現:世田谷区成城)在住の綾子と婚約する。モーリアック体験を経て、10月に長野県北佐久郡西長倉村大字追分(現:北佐久郡軽井沢町大字追分。堀は終生この地を「信濃追分」と呼んでいた)の油屋旅館で「物語の女」を書き上げ、続編の構想も練るが停滞する。綾子もまた肺を病んでいたために、翌年1935年(昭和10年)7月に八ヶ岳山麓の富士見高原療養所に2人で入院するが、病状が悪化した綾子は12月6日に死去。この体験が、堀の代表作として知られる『風立ちぬ』の題材となり、1936年(昭和11年)から1937年(昭和12年)にわたって執筆された。この『風立ちぬ』では、ポール・ヴァレリーの「海辺の墓地」を引用している。 1953年5月48歳没。
堀越二郎 1903年6月22日 – 1982年1月11日)は、日本の航空技術者。位階は従四位。勲等は勲三等。学位は工学博士(東京大学・1965年)。1937年より十二試艦上戦闘機の設計を行う。”ZERO” と呼ばれ米軍にも恐れられた、かの零式艦上戦闘機, ”零戦” である。死亡記事はニューヨーク・タイムズ等世界の新聞に載った。
海軍からのあまりに高い性能要求に悩み、会議において堀越は「格闘性能、航続力、速度の内で優先すべきものを1つ挙げてほしい」と要求するが、源田実の 「どれも基準を満たしてもらわなければ困るが、あえて挙げるなら格闘性能、そのための他の若干の犠牲は仕方ない」という意見と、柴田武雄の「攻撃機隊掩護のため航続力と敵を逃がさない速力の2つを重視し、格闘性能は搭乗員の腕で補う」という意見が対立し、両方正論で並行したため、堀越は自分が両方の期待に応えようと決めた。こんな二人を絡めて宮崎駿は堀越二郎の半生を描いている。本人は佐々木須磨子と見合い結婚。後に6人の子宝に恵まれる。
ぐしゃぐしゃになった零戦を見つめる二郎と、数多くの飛行機が空高く飛び立っていくシーン。そして二郎が「一機も戻ってこなかった」と話したこと。この一言に、二郎のさまざまなな想いが込められていると感じられるラストシーンには、正直感動した。
宮崎監督は「原発が爆発したあとに轟々と吹く風と木がうわーって揺れている様子を見て、『風立ちぬ』というのはこういうことなんだと思った」と語っている。さわやかな風が吹いているのではなく、轟々と吹く。そんな恐ろしい風の中ならば、必死で「生きようとしなければならない」。
つまり二郎にとって夢に現れるカプローニは、メフィストフェレスのように彼の「美しい飛行機を作りたいという」この世での望みを叶える代わりに、作った飛行機で多くの犠牲者を出すという「魂を売り渡す」ような結果を導いた人物ということになるだろうか。
幻想的に時にマンガに、全体には美しい映画をつくろうと思う(2011.1.10
宮崎 駿)。零戦を賛美するわけでも無く、声高に戦争反対を言う訳では無いと宮崎駿は語っている。
(編集子)メフィストフェレス、という解釈に妙に納得した。堀越二郎の伝記はだいぶ以前に読んだが、このような見方にはならなかった。