コロナ対策-新局面を迎えます   (34 船曳孝彦)

世界の感染者数が1年1か月でついに1億人を突破しました。

一方、暮れ正月に激増した日本の第3波は、やっと峠を越えかけたかに見えます。再生産数を見ても1.0を下回っては来ていますが、減少速度は弱まっており、まだ安心できません。さらに、イギリス、南アフリカ、ブラジルで変異株が相次いで見つかっており、感染経路のつかめない、すなわち水際作戦をかいくぐり入ってきたVirusが、無症状で次なる感染者へと広がっている可能性が出てきました。この変異株Virusは感染力が強いので、再び大きな波が来る可能性があります。このVirusによる重症化率、致死率の上昇はないといわれてきたのに、最近上昇するという報告も散見します。もしそうなれば大事です。肝心なことは感染しないことで、一層の注意をしつつ様子を見るほかありません。

いよいよ医療従事者からワクチン接種が始まりました。これには安全性に関しての日本人データをとるという側面もあります。私は現役を外れたので、高齢者グループになるでしょう。日本人は世界でワクチンの重要性、有効性、安全性に最も疑問を持っている国(149か国中149位)のようです。今問題になっているGender-gap(127位)より下回ります。これは副作用を大々的に報じているメディアの影響でしょう。最も怖いADE(感染増強)は既に接種を受けた1.1億人でゼロであり、アナフィラキシーも0.0011%ですから飛行機に乗るより安全です。ワクチンには個人を守るという意味と、集団を守る(天然痘、ポリオなどで実証済み)という意味がありますので、順番が来たら受けましょう。

現在のワクチンが変異したVirusに効くのか、という問題はまだ完全には解決していませんが、弱まっても効果はあるようです。感染者が増えればVirusの次の変異チャンスも増えることになります。どれだけ変異株が混ざっているかを掴まなくてはVirusとの戦いに勝てません。それにはPCR検査⇒PCR精密検査⇒ゲノム検査と3段階進めないといけないのですが、厚労省は犬猿の仲の文科省傘下の先行している大学、研究所には協力要請しないという ‟お役所の壁” が立ちはだかっているようです。

ワクチンも現在認められている4種の外にまだまだ、4,50種のものが研究、開発中ですし、抗新型コロナ薬も研究開発されており、有望薬品もあるようです。

しかし、最も大切なことは、罹らないことで、是非これからも3密を避けることは続けてください。山歩きや、ゴルフなど感染の危険が少ない外出、大騒ぎをしない少人数での会食は、再開の目途が立ちそうな気がしますが、国から補助金が出て「さあ旅行しろ、会食してよろしい」というGo-Toトラベル、G0-Toイートは、歯止めを外してしまいますから、第4波を作成するようなものです。再開は2年間位凍結してほしいものです。オーストラリア、シンガポールなどに比べると、日本の取り組みとは本気度に大差があるようです。私たちも節度を持って、本気に感染防止に努めましょう。

 

ポーランド映画のはなし   (大学クラスメート 飯田武昭)


昨日の <http://kwv36gisan.jpkwv36gisan.jpを久しぶりに開いて読みました。
先ず、慣れ親しんだ高尾山への道中の描写が極めて細かいタッチで、描かれていて如何にも楽しそうでジャイらしい表現にうなる。

BSPの昨日の「哀愁」には間に合わなかったそうだが、このエーガはBSPでも何回か目。私の感想は高校時代に映画館で観た時ほどの感激は最近は感じません。
何故かというと主役のビビアン・リーの人生がちょっと暗すぎるので昨今の私には引っかかるためですが、恋愛映画の名作には違いないです。エーガのブログの先週分「心の旅路」の方の記述は良かったです。いずれも自分はBSPでは見ていませんがコレクションで持っています。

ところで、私の仲間でジャイのワンゲル程にはいかないが、「山歩き」を大いにしている略同年代の元富士銀行マンがいます。彼は多趣味で俳句、詩吟、グルメ等々もやっている男ですが、2間ほど前に彼から回ってきた話で、「にしきたのショパン」(にしきたとは「西宮北口」という阪急電車の神戸線にある駅名で、近年は芦屋とかと並んで住宅地として人気の地名)という映画が近々、公開されるらしい。

その監督と撮影スタッフが、自分たちが一番影響された映画監督(ポーランド人だと言ってます)やポーランドについて対談をするのをZoom又はYoutubeで公開するからそのミーティングに参加しないか?という話です。(監督やスタッフは未だポーランドに行ったことがないと言ってます

私はポーランドにはそこそこ過去に関係と関心が深く、作曲家のショパンは勿論、ドイツのハンブルグに勤務していた時代に仕事でワルシャワ主力に古都トルン(ハンブルグ等と同じくハンザ同盟都市)や工業都市ウッジへ出張しました。
その頃も含めてポーランド人の巨匠アンジェイ・ワイダ監督の作品を多数見ています。

特に「灰とダイヤモンド」「地下水道」など抵抗(レジスタンス)3部作と呼ばれる物には学生時代に大変惹かれました。その後に児童文学作家コルチャック先生を描いた小説も数冊読んで大好きになりました。

特に「子供たちのための美しい国」という空想童話は本当に心温まる名作ですのでもし興味のある方はお読み頂ければと思います。

恵美さん、ブログ開設 !

本稿にもたびたび貴重な情報を提供してもらっている,編集子HP在社時代の友人、五十嵐恵美さんから下記の連絡があった。彼女はシリコンヴァレー在住だがクラシック音楽を趣味としていて、自身、アマチュア演奏グループのメンバーでもある。同好の士との交流を希望しているのでご紹介する。演奏家としての現状を教えてもらったので紹介しておく。

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https://www.emimusicfriends.com/

コロナ禍もカリフォルニアは感染者数、死亡率、共にピークを越えたとのことですが、夏に向かい(ワクチン接種の拡充と共に)状況が好転していけばよいと願っています.私も65歳以上のシニアの枠で、本日、第一回目のPfizerのワクチン接種を受けて来ました.第二接種は3週間後ですのでひとまず安心.

時間があるのに任せ、ブログを始めました.上記、お時間のあられます折に、ご覧ください.宜しかったら是非ご投稿お待ちしております.本サイトは、インターネット上にありますが、Googleその他のサーチ・エンジンには意図的にコネクトしていません.よってGoogleで、内容のサーチはできないと思います.友人、近しい知人という大変に限られたAudienceです.チャットも収集がつかなく場合もありますので、これも意図的に設けていません.

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昨年3月よりカリフォルニアで “Stay-at-Home” が始まり、友人と集まっての「生」のアンサンブルの練習ができなくなってしまった.苦策の末、JAMULUS(ジャムラス)というオープン・ソースのソフト・ウェアーを使いインターネット上でバーチュアルに弦楽アンサンブルを始めた.現在、バーチュアル弦楽四重奏のメンバー、私(ヴァイオリン)とチェリストはシリコン・バレー在住、もう一人のヴァイオリニストと、ヴィオリストはノース・キャロライナ在住.バーチュアルでなくては毎週のリハーサルは可能でない距離.昨年はベートーベン生誕250年ということもありベートーベンの弦楽四重奏曲を弾いている.最近、日本のヴァイオリニストとも弾き始め、何十年前にご一緒したフルート奏者ともチェロを含みトリオ・ソナタを弾いている.バーチュアルの世界だと確かに数はこなせる.

 

 

エーガ愛好会(50) 続・夕陽のガンマン-マカロニウエスタンの系譜  (34 小泉幾多郎)

マカロニウエスタンの巨匠セルジオ・レオーネが クリント・イーストウッドを主演にした所謂ドル箱三部作の最後の作品。「荒野の用心棒1964」が互いに相
争う二組の悪党どもの対立をイーストウッド演じる主人公が、けしかけながらも双方を壊滅状態に追い込む様を描き、「夕陽のガンマン1965」は二人の賞金稼ぎが、時に相争い、時に協力しながら、多額の懸賞金の付いた悪党どもとその親玉を追い詰めていく様子を描いてきた。

この続夕陽のガンマン」は、善玉クリント・イーストウッド、悪玉リー・ヴァン・クリーフ、卑劣漢イーライ・ウオラックが三者三様、互いの持ち味と個性を競い合い、隠された金貨を強奪せんと追いつ追われつを繰り返しながら、三つ巴の決死の争奪戦を繰り広げる。冒頭の三人の紹介シーンから、夫々の決闘シーンにストップモーションに被せて標語が文字に映し出されるかと思えば、銃と顔の超クローズアップや超ロングショットを繰り返す映像に、コヨーテの遠吠えを模したと言われるエンニオ・モリコーネの強烈な主題曲が心地よく鳴り響く。

物語りは、賞金稼ぎイーストウッドが賞金付きお尋ね者ウオラックとコンビを組み、賞金を受け取った上に絞首刑前に救い出し、更に賞金を稼いだりしながら、最後クリーフを含めた三人の決闘で決着するのだが、イーストウッドが事前に、ウオラックの拳銃の弾を抜くといったことで、クリーフをやつけるという善玉らしからぬ方策をとる等、善玉、悪玉、卑劣漢といえども、人間には様々な面があり、一概に決められないオチを付けて終わる。前二作での好評で自信を得た監督は、三つ巴の戦いを物語の根幹に据えながらも、巨匠を気取った大作路線を意識し過ぎたのか、西部劇では、戦争映画に堕さぬよう、戦争後として語られる南北戦争を登場させ、圧倒的な物量による戦闘シーンをスぺクタル風に再現するが、それを含め、全般的に冗長になり過ぎた感があることも否定できない。

イーストウッドは、この監督のドル箱3部作以降は、ハリウッドへ凱旋したが、「荒野の用心棒」では、無精ひげに葉巻とメキシコ風のマントで主役を全うしたものの、「夕陽のガンマン」では黒装束の凄腕ガンマンのクリーフに、「続夕陽のガンマン」では圧倒的なコメディタッチの存在感たるウオーラックに、主役の座から狂言回し的存在になったこともあり、巨匠を気取った大作路線を進むレーネと袂を分かったとも言われている。確かにその後ドン・シーゲル監督という、より簡潔で、無駄のない引き締まった演出法に傾斜している。しかし両者に大きく影響されたことは間違いない事実には違いない。その後、監督業も手掛けるようになり、1992年アカデミー作品賞、監督賞を受賞した「許されざる者」の巻末に「セルジオ・レオーネとドン・シーゲルにこの映画を捧ぐ」の字幕を出して敬意を表している。

(33 小川)
明快な解説で色々と参考になりました。
小生以前にもお話ししたように仕事の関係で60年代から壮年期にかけて余りエーガも山も楽しむことが出来なかっただけに、いつも皆さんの名解説のお蔭で大変楽しむことが出来て助かっております。

今回の三部作も最初から全部見ないと善玉・悪玉・卑劣漢の意味が分からなかったこと(西部劇のなかで南北戦争の戦場が出てきたのには驚きましたが)、イーストウッドがレオーネから離れていった背景等もお蔭で理解できました。ところで初歩的な質問ですが、西部劇がイタリアに渡りマカロニウエスタンとして登場してきた背景について教えて下さい。

「セルジオ・レオーネとドン・シーゲルにこの映画を捧ぐ」の字幕を出して敬意を表する1992年アカデミー作品賞、監督賞を受賞した「許されざる者」が愈々今週金曜日です。楽しみにしています。

(小泉) マカロニウエスタン登場の経緯ですが、そもそもの要因は、当時アメリカハリウッドスぺクタル映画全盛の巨大費用節約のため、高騰のアメリカか
ら安い人件費のイタリア、スペインにロケ地を求めていたプロダクションの倒産で、一挙に数百人のアメリカ人スタッフが現地で失業、そのうち帰国できない彼らが思案にくれているとき、そのロケ地が、アメリカ西南部やニュー・メキシコの地形に似ていることから、西部劇の発想が生まれ、イタリア映画界が協力し、スペインでロケ、イタリアで仕上げのマカロニウエスタンが始まり、「荒野の用心棒」で流行の渦中に入ったとのことです。

(小田)マカロニウエスタンは最近観ていないのですが、撮られるようになった理由、アメリカ等では、スパゲティ ウエスタンと言われていること等、楽しく読ませて頂きました。
私とヤッコが幹事をした50年近く昔?のBBQハイキングに、これまた違う慶応卒の同じ職場の方が、クリント イーストウッドと同じポンチョ姿でをきたこと、そしてこの方がビビアン リーをリリアン ビーと言い間違えたのも楽しい思い出です。

(菅原)小泉 先輩、悪ノリして申し訳ありませんが、米ではスパゲッティ、日本ではマカロニ、と聞いていますが、イタリアではどっちなんでしょうか。まさかペンネなんてことは無いでしょうが。

(ウイキペディア)マカロニ・ウエスタンとは、1960年代前半からイタリアの映画製作者が主にスペインの荒野で撮影した西部劇の総称です。ただし、これは日本だけでの呼び方で、イギリスやアメリカではスパゲッティ・ウエスタン、あるいはヨーロッパ製ウエスタン、イタリア本国では単純に「ウエスタン・アル・イタリアーナ」(=イタリア製西部劇)などと呼ばれています。

こんな日もありけり

(これって、不要不急だよなあ)と思いつつ2週間前にこっそり高尾へ行ってきたが、その後当局からおとがめもないし、まあ、いいか。今回は最短でどれくらいかければ山頂を往復できるか、やってみようと思い立った。久しぶりに6時ち

駅前工事の看板

ょうどに目が覚めたら快晴、7時22分につつじヶ丘駅発、鈍行高尾山行に乗る。平日の朝とて、乗客は終点で6人ほど。さすがに駅前広場にほとんど人影なし。目下、駅前の案内川の工事中。

ケーブルの始発が9時、と聞いていたが8時45分発、というのに間にあった。1号路を行くか、とも思ったが目的を思い出し、そのまま乗車する。ここも閑散、乗客もまばら。スキーもそうだったが、あまり空いていると寂しくなるから不思議なものだ。

ケーブルからは一直線、浄心門からさきは女坂を経由、薬王院わきの例のバイパス道から3号6号のジャンクションへ出る。現在琵琶滝ルートは工事中。

工事中の表示

 

山頂到着、9時43分。先週の休日に来た保屋野君は実に1000人、と言っていたが、この時点で山頂にいたのは小生を含め26人。本日は快晴ゆえ、富士山がまぶしい。

手袋を忘れてきてしまい手が冷たいのですぐに辞去、山頂滞在時間6分。そのまま、薬王院裏へ出る最短ルートを辿り、10時30分のケーブルに乗車、清滝駅10時37分。鈍行新宿行きを北野で準特にのりかえ、つつじが丘駅を通過、仙川へ出て、ここ10年、あまり熱心ではないが一応年会費だけは取られているジムで風呂、サウナ。出てきたら12時10分、そのまま帰ればBS3チャネルの 哀愁 に間に合うタイミングだったが仙川駅前ののんびりした昼前の空気に誘われて則、断念。之もお気に入りのフレッシュネスバーガーの屋外テーブルを一つ独占、チーズバーガーに生ビール、フライドポテトしめて1100円。目の前で買い物をしている母親を待っている子供ふたりが無邪気に遊んでいるのを眺めながら、平和そのものの時間が過ぎた。

帰宅、昼寝、目が覚めたら4時半、5時、ここのところはまっているオールドフィルム、大岡越前 の勧善懲悪江戸っ子堅気のお定まりを鑑賞。之から日課のジン・トニック。いやあ、結構でありました。

結論:自宅―山頂往復は4時間弱で可能。月一高尾のレギュラー、遠藤やら深谷やら岡やら、遠路からのご参加、ご苦労様に存じ上げます。

 

 

 

 

”麒麟は来なかったか” で思ったこと (44 安田耕太郎)

麒麟が歴史大河物語の題名にもなった「麒麟がくる」であるが、テレビ放映は観ていない。主人公の明智光秀についてはこれまでの大河ドラマでも観ていたし、書物も読み馴染みがあり、もはや興味があまり湧かなかったからである。4人の先輩方々の投稿記事を拝読して悔やんだが後の祭。光秀が治めた比叡山麓・琵琶湖岸の坂本(竜馬の祖先の出身地といわれる>>坂本性の由来)、丹波の福知山などでの評判はすこぶる良かったことが知られている。ドラマでは謀反の動機をどうのように描いたのか知らないが、信長(享年49)より10歳近く年上と伝えられ、老齢からして天下を獲るのが目的であったとは到底考えにくい。

日本歴史上の最大の謎の一つが本能寺の変であろうし、キリシタンとなり関ケ原前夜自決した細川ガラシャの父親としても光秀はよく知られた存在だ。 主演長谷川博巳の光秀演技に “絶賛の嵐” と新聞で読む。詳細は見ていないわけだが、泰平の世をもたらす、或いは泰平の世に現れる動物が麒麟だとすれば、光秀は信長が構想し、秀吉が築城し、家康が入城したといわれる戦国時代英傑3人の必然の歴史的筋道の最初のプロセスを壊し、行程を先に一歩進め二人目の秀吉にバトンを繋いだ歴史的役割を果たしたのは間違いない。その意味では麒麟に値する存在でもあったのだろう。

歴史には “if” はないが、信長が暗殺されず天下統一していれば日本のその後はどうなっていただろうか?衆目の一致する、300年近い世界でも稀有な戦争なしの徳川泰平の世と、高い識字率に裏付けられた爛熟した町人文化が産まれたかは分からない。はたまた、鎖国>>開国>>明治維新>>文明開花・富国強兵>>日清・日露戦争>>第二次世界大戦敗戦>>経済発展>>現在の低迷・沈滞の流れはどうなったのであろうか?

いずれにしても、光秀と同時代に生きた家康によって始まった江戸時代が、現在の日本と日本人の文化・価値観を形成するほどの影響を与えたのは間違いない。麒麟到来の端緒を開いた一人として光秀の役割も決して小さくはない。

余談だが、正月にNHK番組「ヒューマン・ヒストリー」を観た。女優鈴木京香と結婚が噂される、光秀を好演した長谷川博巳がゲストであった。長谷川家は先祖が1300年前に鳥取の大山の麓にある大山寺の開祖とも伝えられ、また有名な名湯島根県・玉造温泉の重要な役職を歴任し、温泉旅館の経営にも携わった由緒ある家であるとのこと。大山登頂後、大山寺は下山途中に立ち寄った古刹であるし、玉造温泉も素晴らしい湯を満喫した思い出もあり、やはり長谷川博巳の「麒麟がくる」を観るべきであったと後悔至極であった。

米国におけるワクチン接種の現状   (普通部OB 田村耕一郎)

(編集子)普通部時代の親友田村のところに送られた、彼の在米の友人からのワクチン接種の現状についてのリポートを転載させていただく。なお執筆者ご本人からあくまで参考情報として、と限定されているので、一部のご紹介のみににとどめる。ちょうど今(15日13時半)テレビ6チャネルで関係した情報を報道しているが、接種開始を直前にしてご参考資料としてお送りする。
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ニューヨーク市内では昨年の12月15日から、新型コロナウイルスワクチンの接種が開始となりました。使えるワクチンは、当初はまだファイザー製のものだけ。医療従事者から接種が始まりましたが、まず初めは、いわゆるER(救急初療室)で勤務をする医療者、続いてICU(集中治療室)で勤務をする医療者が接種対象でした。接種が開始してまだ1週間。早く接種を受けたいと、ワクチンの接種会場には接種を待つ医療者で長蛇の列ができていました。

受け付けを済ませた後、問診票が渡され、ワクチンの有効性と副反応についての説明を読みました。ワクチン接種自体はものの数秒で終わってしまいました。左の腕を露出して、消毒。消毒が済むと、とても細い針で筋肉注射が行われました。「筋肉注射」というと、深く針を刺されてしまう、怖いイメージがあるかもしれません。しかし、実は痛みが比較的少ないことが知られています。
私のワクチンを接種してくださったのは薬剤師さんでした。こちらアメリカでは、医師や看護師に加えて、薬剤師さんやトレーニングを受けた薬学生も注射ができるようになっています。医師は主に、監視役やアレルギーが起こったときの緊急対応の役割を担っていて、前線で活躍するのは薬剤師さんなのです。日本では、注射をするのは医師、看護師に限られるため、ここは日本とは異なるところでしょう。

接種が終わった後は、約15分の経過観察がありました。ここでアレルギー反応がないかの確認が行われます。今回のワクチンでは、0.001%程度の確率で重度のアレルギーが 報告されており、そのほとんどが接種後15分から30分以内に生じていることがわかっています。また、重度のアレルギーが仮に起こった場合、すぐに治療を始めれば大事に至らずに済むこともわかっています。そういった背景があり、15分から30分の経過観察が行われているのです。実際に、このような対策がとられることで、今のところアレルギーを起こして命を落としてしまったという方は報告されていません。

重いアレルギーが起こってしまうのは怖いと感じられるかもしれませんが、私たちが普段病院で用いている抗菌薬のペニシリンは約5000人に1人の割合、0.02%の割合でそのような重度のアレルギーが起こると されています。それと比べると割合は非常に低いことがわかります。私自身はというと、アレルギー反応などなく、経過観察は15分で終了となりました。

それから接種当日は、まったく無症状で経過をしました。本当に痛みも違和感も何も感じませんでした。なお、接種当日は、一般のワクチンと同様に、激しい運動や飲酒などは控えていただいたほうがいいと思いますが、それを除いては、普通の日常生活を送っていただいて構わないと思います。私自身、接種後は普通に仕事をしていました。

接種翌日の朝起きると…左の肩に肩こりのような違和感があることに気がつきました。これは、動かさなければわからないぐらいのものでしたが、2日ほど続きました。3週間後の2回目接種の際は、これよりも少し強いはっきりとした痛みが出ました。しかし、ともに2日ほどで終わり、3日目には消えていました。

これまで報告されている  研究の結果を見てみると、副反応は私のように注射部位に痛みが出る人が最多ですが、同僚のように発熱などの症状も報告されています。報告された副反応の種類と頻度は、だるさ・倦怠感(51~59%)、頭痛(39~52%)、筋肉痛(29~37%)、関節痛(19~22%)、発熱(11~16%)です。

また、基本的に2回目のほうが1回目よりも頻度が多く報告されています。このため、1回目で問題なかったという方でも2回目に副反応が出ないか慎重に観察していただくことが大切です。加えて、高齢者の方は若者に比べて、こうした副反応が少ないことがわかっています。しかしながら、高齢者で持病がある方の場合には、高い熱が1日出るだけでもご飯が取れなくなってしまったり持病が悪化したりすることもあるかもしれません。

すでに自分のワクチン接種からは50日以上が経過しました。50日が経過した今も、大きな副反応なく経過をしています。何より、このワクチンの一番の魅力は誰もが想像をしなかったほどの高い有効性です。その安心感は、もう一層の頑丈なマスクを与えてもらっているような、とても大きなものです。もちろん、まだマスクも、手洗いも続けなくてはいけませんが、それでもなお、ここまで1年間少なからず抱えてきた不安を大きく取り除いてくれるものでした。
また、このワクチンには、重症化を防ぎ、命を守る効果も期待され、有効性が少なくとも半年ほどは持続しそうだというところまでわかってきています。

日本でワクチンを待つ皆様、もちろん、さまざまな価値観を持つ人がいる中で、私は皆さんに接種をしろと言うようなつもりはありません。ただ、各報道などでリスクばかりが取り上げられやすく、どこか膨張してしまっていることには注意を払う必要があると思います。また、ワクチンを受けることには、自分自身を守るというほか、これまで日常生活の中で感染リスクを共有してきた自分の身の回りの大切な人、両親や上司、友人を守るという意義もあります。この1年、つねに消えない不安と誰もが戦い続けてきたと思います

ワクチンはその不安や苦しみを緩和できるよう、世界中の研究者が協力して作り上げてきた叡智の結晶です。感染リスクを共有して生活をする中、ワクチンの輪を広げ、皆で皆を助け合う。そんな気持ちでぜひワクチンの接種を前向きに考えていただければと思いますし、何より最後は誰もが納得できる形で決断をしていただければそれが一番だと思っています。

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筆者は米国内科専門医、慶應義塾大学医学部を卒業後、日本全国各地の病院の総合内科・診療科で勤務。2015年からは米国ニューヨークのマウントサイナイ大学関連病院の内科で勤務し、米国内科専門医を取得。現在はマウントサイナイ大学病院老年医学・緩和医療科に所属。国内では全国の総合内科医の教育団体JHospitalist Network世話人、米国内科学会日本支部の委員等として、国外ではカンボジアでAPSARA総合診療医学会の常務理事として活動を行っている。

富士山、燃える !

雲で富士山が燃えているように見えます。1月末に多摩川の土手から撮りました
(私のカメラは 普通のデジカメです)。
(編集子)ご本人の希望により匿名で掲載。

春の息吹をたずねて  (34 小泉幾多郎)

 コロナ禍で外出しない日が続いたので、久しぶりに外出、大倉山の梅がどの程度か散策。梅の種別により硬い蕾もあったが、平均7割程度か。梅は例年通り咲いているが、毎年20日前後の観梅会は中止とのこと。昨年は、高尾山麓の梅郷を歩いたのを思い出したが、高尾は昨年から梅まつりは中止だった。早く気兼ねなく花を愛でる日が来てほしい。

また小生、特に七福神「七難即滅、七福即生」の説を信ずるわけではないが、散策による健康増進を主眼に、毎年正月になると、どこかの七福神を巡るようになり、もう何年続けているだろう。名の知れた七福神は巡ったこともあり、最近は、川崎、鶴見、恵比寿天・大黒天・弁財天横浜(港北)、瀬谷と近場になり、今

年は寄る年波もあり、何処へ?と思案するうちコロナを理由に躊躇し機会を逸してしまった。1箇所七福神なるものを見付け、1箇所でお参りできる野毛七福神(成田山横浜別院)で、お茶を濁すことになった。

成田山横浜別院

 

 

 

エーガ愛好会 (49) 心の旅路 (41 相川正汎)

 

「心の旅路」は昨年6月頃に 既にこの会で推薦いただいていました。コールマン髯のコールマンと 魅力的なグリア・ガースンの共演、 古さを感じさせず、楽しめました。

戦争のケガによる記憶喪失という暗いイメージが 町にでるや恋にめぐまれ、 交通事故で再度記憶喪失しても、社長や国会議員を務めるという 明るい展開に、少しびっくりしました。ヒッチコック作品では謎解きの種がどこででてくるか目が離せませんが、こちらは安心して見られました。インフルエンザの場面がありますが、この頃はやったスペイン風邪。 戦場で感染拡大したため第一次大戦の終結を早めたともいわれています。 コロナ拡大の今どきとつながります。

コールマンが颯爽とトレンチコートを着ていました。バーバリー社が撥水のギャバジンのレインコートを開発し一次大戦では軍用として重宝した歴史も反映しています。 格好良かったが重かったですね。

原作のジェームス・ヒルトンは 「失われた地平線」 Lost Horizonの著作もあります。中国南西部とチベットの国境地帯に飛行機が不時着、そこがシャングリラShangri―Laという理想郷だったというお話。シャングリラは果たしてどこにあったのか。中国は雲南州の小村を2001年に「香格里拉」と改称し、観光開発しました。そこから車で1日走ると梅里雪山の麓に。商魂たくましいですね。

(44 安田)「心の旅路」のグリア・ガースンは素敵ですが、同じ年1942年制作の「ミニヴァー夫人」の彼女も魅力的です。アカデミー主演女優を獲得しました。コブキさんのお薦めで観て大満足。BSPで放映されれば良いのにと思います。

それにしても1942年といえばイギリス・ロンドンはドイツからV2ロケットの攻撃に晒されて、チャーチル以下防空壕に避難していた頃。よくもまあ〜立派な映画を創るものだと感心します。芸術は力なり!です。「カサブランカ」も1942年制作です。

(相川)シャングリラの話は一度書いたかと思いますが、一昨年秋に四川省に旅したときに そこにも雲南省とは別に同名の町がありびっくりしました。

6000m級の白い山が3つあり、かっては馬でしか行けない秘境といわれてましたが、道も整備され中国人観光客でにぎわっていました。中国は人数が多いので世界遺産とか観光地となると人が殺到してしまいます。この時はミニヤコンカも眺められました。

ところで私は1942年6月の生まれです。この時のミッドウェイ海戦から日本軍は劣勢となりました。 アメリカやイギリスは余裕があったのですね。

(編集子)満州から母と姉と3人で引き揚げてきて、半年遅れて父と兄が帰国、東京へ出てきたのが1946年。小生はまだ小学生、姉や兄が カサブランカ や 心の旅路 などと話題にしていたのをかすかに記憶している。”風と共に”が作られたのも同じころだったのではなかったか?