ヘアドライヤーにまつわる話

写真は何であるか。ヘアドライヤーである。形からして古いものである。正確に言うと1980年、松下電器から販売された製品。これが今なお、拙宅の洗面所においてある。その話である。

編集子は卒業と同時に 株式会社横河電機製作所(当時の社名)に入社した。日本経済が大飛躍を始めた時期、多くのいわゆる法文系の友人は金融・商社などへの就職がほとんどで、メーカーを目指す連中はビッグビジネス志向であり、横河のような地味なしかも技術系優先を標榜する会社を選択した小生は当時のトレンドからいえば変わり者だったのだろう。事実、高校時代の親友たちで工学部へ進んだ連中からは、なんだオマエ、横河にいくんならなんで小金井(工学部)へ来なかったんだ、とあきれられたものだった。しかし人間万事塞翁が馬、ではないが、入社面接でお会いした横河正三さんのお目に留まったのか、3年目に創立されたヒューレット・パッカードとの合弁会社(YHP)への移籍メンバーに加えていただき、思ってもみなかった外資系企業で社会人生活を全うすることになった……..とそれなりに覚悟を決め、管理職の末端に加えてもらって張り切っていたころ、創業の勤めを終えて横河電機社長に復帰されていた横河さんから、全く唐突に、それもなんと八王子工場の2階に通じる階段を案内役を兼ねて歩いているとき、”おい、ジャイ、お前、三鷹へ戻れ” と言われた。ボーゼンとしているぼくに、”今度、コンピュータで絵を描く仕事を始めることにした。そこへ行け” とこれまた何が何だかわからない命令だった(三鷹は横河電機本社の所在地)。

確かに他の(いわゆる法文系の)仲間に比べれば数年間、IBMマシンのプログラムを書かされていた経験はあるから、どうせなら多少はコンピュータを知っているやつがよかろう、という選択だったのは間違いないのだが、それにしてもまだCAD なんてものとは無縁だったし、おっかなびっくりの “帰籍” (創立時、横河からの人事異動は “移籍” 扱いだった)だった。このCADビジネスは日本経済の重厚長大路線にのってオートメーションでトップの地位を占めていた横河の第二ステージとして横河さんのスタッフが練り上げたものだったが、それまでの技術陣では畑違いの分野なので、とりあえずアメリカでのCAD専門会社との提携でスタートした。そのため、HPとの間での経験があるやつならいいだろう、という判断だったのだろうと想像する。

今は気安くCAD,などと呼ぶが、80年代、ビジネス自体はまだまだ黎明期にあって、プリント板の原画を描く、いわゆる2次元のものしか実用化されていなかった。横河電機ではこの分野にまだまだ未知数の3次元CAD,つまり現代のCADの領域をめざした野心的な計画がつくられていたのだ。しかし日本市場では何しろ未知数が多すぎ、とても従来のセールス戦略ではらちがあかない、とトップの大英断でシステム一式をユーザに無料で使ってもらおう、という策に出た。そのユーザが松下電器ラジオ事業部で、担当営業が小生だったのだ。今ではPC1個あれば足りるベーシックな機能を発揮させるのに実にHP製のミニコンが5台連結されている、という大物で、技術的問い合わせだの改善要領だのが飛び交い、小生にとってはサンスクリットのお経みたいな情報のやりとりをフォローするだけだったが、スリリングな1年だった。にもかかわらず、結果はペケ。同情してくれた松下の担当者Oさんに慰められながらシステムを引き取りに行った時のキモチは忘れられない。

話が長引いたが、この時、先方がだされた試験問題のひとつがこの写真にあるヘアドライヤーの機構設計で実用になるかどうか、という事だった。システムが戻ってきて、残念無念のキモチのなかで(ほかのシステムが使われたのか、それともまだCADの実用化は出来なかったのか、そのあたりは当然社外秘の事項だからわからないが)手にしたものがこの写真の製品なのだ。それはいまではいわばわが第二、第三の青春の思い出として、洗面台の奥に収まっている。

それ以来40年。さすがパナソニック、長持ちしてるなあ、と思われるならばそれは美しき誤解であって、小生、中学時代の坊主アタマから始まって今日まで、GIカットというのか何か知らないが、要は整髪料を必要とするヘアスタイルとはほぼ無縁で過ごしてきたから、当然、このドライヤの使用頻度も極端に少なかったので今まで無傷できている、というのが事実である。ついでに言えば、編集子の父親は40歳後半ですでに髪はほとんどなく、現在90歳を超えて矍鑠としている姉も、先立ってしまった兄も、白髪になるのは早かった。なぜか小生だけ、米寿に近い今日、鬘をしてるにちげえねえ、といわれながら毛髪は質量ともに衰えていない。これはひとえに母親(あさしひんぶん、とはいわなかったが典型的江戸っ子気質だった)のストイックな子育てで長髪を許してもらえなかった中高時代を、ポマード(これも死語か?)にマンボズボン(同世代以外にはわかるまい)にウキミをやつしていた仲間(典型なのがKWVOBにもいるが)に変人あつかいされながら過ごしてきた頭髪マネジメントの結果であろうか。

(菅原)本日、午後、散歩に出かけたが、久し振りに寒くて散歩どころではなかった。貴兄のブログ、「ヘアドライヤー・・・」について、とりとめのないことを二三。、

ヘアドライヤーってのは、男は使わないものと思っていたが。小生、持ったこともないし、使ったこともない。会社に入っても暫くは、GI刈り、スポーツ刈り、慎太郎刈り、だったから。そして、今や、髪の毛を洗うたびに毛が抜けて、念願の禿頭間近。

Computer Aided Design、Computer Aided Manufacturing。製造業の端くれを、売り子として担当していたから、この言葉、忘れたくても覚えてる。でも、分かった振りをして説明していたが、実際には、何をやってるのかさっぱり分からなかった。幸いにも、営業をやってて、小生(IBM)、ジャイ(HP)とは出会さなかった。もし、そうだったら、間違いなく、ジャイにコテンパンにやっつけられていた。くわばら、くわばら。

(編集子)当時、最近急逝してしまった後藤三郎が旭日の勢いだったIBMにいて、事実、小生が大手顧客のトップをhp本社に招待したところ、それを知ってこちらのスケジュールが終わった日(というか瞬間)に出口で待ち構えていてそのままIBMへ拉致?されたりした。もっとも客先が帰途についたあと、名門ハーフムーンベイでラウンドしたりしたものだ。18番に差しかかる丘から太平洋に沈む夕日を堪能したことだった。

22年12月 月いち高尾忘年山行   (47 関谷誠)

12月の「月いち高尾」を、12月14日(水)、実施。前月の「月いち高尾」からわずか2週間後のプランでしたが、何かと忙しい師走を考慮し、早めの忘年山行とした。前日の降雨が嘘のような、初冬の澄み切った青空の下、25名が「高尾山口」に集合した。

今回は3グループに分かれ、高尾山山頂を目指した。

1号路でのシニア―グループ(36/吉牟田、遠藤、鮫島)、リフト+4号路の女性グループ(36/高橋、38/町井、46/猪俣、エスコート役47/伊川)、それに稲荷山ルートグループ(37矢部、39/堀川、岡沢、三嶋、40/武鑓、藍原、41/久米コブキ、42/下村、43/猪俣、44/安田、46/村上、47/福本、48/佐藤、福良、51/斎藤、羽田野、友人/川名、47/関谷)の18人。

1号路のシニアーグループはナンカナイ会の健脚そろい、和気あいあいとコンクリート道の急登を制覇。女性グループは、ケーブルが1時間に1本しかなく、上りは景観が単調なリフトで山上駅へ、そこから4号路経由で山頂へ。

稲荷山グループは、壮観にも18人が一個大隊となって、時には、後ろから登ってくる若者に道を譲りながら、稲荷山展望台まで一気に登り、そこから高尾山山頂に直登、他グループ合流。

昼食、記念撮影後、数グループに分かれ、薬王院に参拝し、今年1年間の「月いち高尾」プランでの無事故と、それなりの良天候下でのプラン遂行に感謝するとともに、今年、不幸にも旅立たれたメンバー3名のご冥福を祈った。

下山後、高尾駅から徒歩15分の、カフェレストラン「TOUMAI」に参集。登山グループ(内2名不参加)に加え34/船曳ドテ夫妻、34/椎名、36/中司、岡、47/平井が駆け付け、29名での忘年会を開始、36/翠川さん、後藤さん、37/菅谷さんのご冥福を祈り、黙祷、ドテ先生の追悼のお言葉、献杯。「月いち高尾」の山仲間を偲んだ。あっという間に2時間が経ち、明るい、希望に満ちた2023年を願い、一本締めで締めくくった。2023年もよろしくお願いいたします。

(46村上)昨日は、大変お世話になりました。
山行、偲ぶ会、忘年会と「新たな出会い」の一日でしたが、この一年、大変お世話になりました。来年も、良い年であることを願っております。

尚、ヤマレコに「昨日の登山記録」を公開いたしました。
https://www.yamareco.com/

ヤマレコのメンバーでなくても 1 山行記録 2 高尾山で検索し、画面の下へ、スクロールすれば 3 記録分類  高尾山 メンバー rnmmby      期日:12月14日 でご覧になれます。

(福本)昨日の山行、偲ぶ会&忘年会、大変お世話になりました。また、沢山の写真、山渓の情報も送って頂きありがとうございました。

偲ぶ会も兼ねてでしたが、盛会とはこのようなことを言うのではと思うぐらいすばらしい企画した。私にとって深く記憶に残る一日になると思います。新年が皆様にとってまた佳い年になりますよう、祈っております。

(斎藤)本日の「月いち高尾」お疲れさまでした。私が撮影した写真をお送りします。来年もよろしくお願いしたします。

(下村)初冬の好天の中、快適なトレッキングを楽しむことができました。
偲ぶ会、忘年会も盛り上がって、2022年のよい締めくくりになりました。
来年もまたよろしくお願いいたします。

 

(船曳)月一高尾 プランとしては参加できませんでしたが、忘年会に出席出来て大変喜んでいます。オジイ、サブ、ミドリを偲ぶ会も兼ね、参加できたのも嬉しかったです。
実はまだまだ闘病の最中で、主治医からは『自宅でよいから入院中と思って療養しなさい』と言われていまして、大量の薬を服用中ですが、高尾まで出かけても、帰ってからも、体調は良好で、OKです。

こうして10年以上年齢差のある友人と歓談できることは、替えがたい宝と思っています。おまけにOBでない家内迄分け隔てなく仲間に入れて頂き、家内も大感謝です。コロナはまだ油断できませんが、高尾ハイキングには全く問題ありません。皆様、悪病と賢く付き合って、来年もお楽しみください。

(久米)久し振りの「月一高尾」天候好し、メンバー良し、コース良し、体力OKで楽しく一日を過ごすことができました。大変お世話になりました。
忘年会も偲ぶ会も素敵な会場で亡くなれた方々に思いをはせることができました。但し来年は忘年会だけにしたいものです。

11月の旅枕  (39 堀川義夫)

元々、11月は毎年、夏の疲れが出て体調を崩すことが多かったので事前に日程など調整していましたが、その通りになってしまいました。今回は山より身体の癒しの為にふらっと伊那谷方面の旅に出ました。初日は、茅野でレンタカーを借り、日本一星空が美しいと言われる恵那山の麓の阿智村にある月川温泉泊。

星空を期待しましたが、生憎、薄雲に覆われちらほらしか星は見えませんでした。前回は5月に恵那山に行った時にも神坂峠の萬岳荘でテントを張り。一杯やりながら星空を期待しましたが、見ることが出来ませんでしたので、これで2連敗です。再挑戦の楽しみが出来ました。(WEBから引用した阿智村の星空)

翌日はこの地方を40年前に家族旅行で来た「天竜ライン下り」とその時に泊まった大鹿村の「右馬允」(うまのじょう)と言う懐かしい民宿にやっと再訪することが出来ました。

天竜ライン下り 昔は急流下りで有名だった(?)のではと思うのですが、ダムが出来たりして急流は無くどちらかと言えばのんびり川下りの感です。高速道路を通すための新しい橋も出来ていて、道路の下が遊歩道になっていました。乗船して、大昔はさぞや可愛かったであろうガイドさんの案内で、名残の紅葉が川面に映る紅葉を楽しみ、船頭さんが網打ちをして魚を取ったり、客を飽きさせない工夫をしていました。到着して降りたところからバスで元に戻るときは、俳優峰竜太の生家の前を通ったりしました。

親父の33回忌 親父が逝って32年(1990年没)、11月23日に33回忌を迎えました。堀川家のルーツは和歌山県の湯浅と言う所です。有田ミカン、そして醤油の発祥地として有名です。大阪で妻をめとり、二人の子(兄と私)を成し、兄の家族が現在19名、私の家族が11名となっています。親父から見れば一族郎党33名と言うことになります。兄の2人の娘、我が家は2人とも娘で皆他家に嫁いでいますので兄の長男のだけが堀川家を苗字として継承するだけで他はいません。昔のように「家」を重んじる時代であれば私は養子を迎えるなどしなければならなかったでしょう。私にとっては良き時代になったと思っています。この写真は書いてあるサインの日付から51歳の時のものと思われます。若禿ですが、なかなか、良い男ぶりだったと思います。

行く秋を楽しむ11月30日に月いち高尾で高尾山へ。ちょっと、天気が心配でしたが温かい天気で、楽しいワンデリングが出来ました。

紅葉がしっかり残っていてうれしかったこと、体調が少し持ち直すことが出来たのは、何よりでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エーガ愛好会(181) 大砂塵

(安田)「大砂塵」確か1〜2年前に放映された記憶が。今回2度目を観ました。「シェーン」に少し似通った感じもするストーリーはさておき、何と言っても主題曲「Johnny Guitar」に尽きます。「八十日間世界一周」「シェーン」と併せヴィクター・ヤングのベスト3です。真打ちペギー・リーの歌う「Johnny Guitar」はエンディング近くのみで、あとは哀愁を帯びたギター演奏が主でした。

主役のジョーン・クロフォードとスターリング・ヘイドンは初めて観ました。クロフォードはこんな東部的或いはヨーロッパ的雰囲気の大人の女性が西部にいるのか?、と思わされました。ヘイドンは、ロック・ハドソンを少し細身にした長身で甘いマスク。もっと主役を張る映画出演があって然るべきかとも思った。グレン・フォード主演の「去りゆく人」や「地上より永遠に」「ヴェラクルス」「ワイルド・バンチ」でお馴染みの愛嬌ある大きな目がクリッとした顔のどこか憎めないアーネスト・ボーグナインとジョン・フォード ファミリーの一員で見慣れたウオード・ボンドの登場で、ほっとさせられました。
背中にギターを担ぎ馬に乗って登場したジョニー・ギターを、小林旭の「渡り鳥シリーズ」はパクったとどこかで読みました。なるほど〜。
女同士の凄まじい決闘にはこんな西部劇があったのかとビックリ仰天。
真っ白なドレスをエレガントに着てピアノを弾きながら「Johnny Guitar」を歌うクロフォードの場面はこの映画の白眉。全員真っ黒な服に身を包んだ男たちが押し寄せ、処刑しようとするシーンの純白と漆黒の色彩コントラストの妙が素晴らしい。更にクロフードは鮮やかな原色・真紅のシャツを着る場面など、殺伐とした砂漠に近い西部の荒野にあって主役のオンナ感がより際立ってとても良い演出だと思いました。
(菅井)「大砂塵」「ジョニー・ギター」は教養の範囲として名前だけは知っていましたが、恥ずかしながら映画は初めて見ました。
日本語字幕の翻訳の上手さも手伝ってか名科白の連発にはびっくり仰天、唖然としながら見入ってしまいました。
あまりに類型的あるいはあざといと感じ向きがあるかもしれませんがジョーン・クロフォードの「決まった!」名女優ぶりには感動すら覚えました。

(小田)「大砂塵」はビィエナの大きな瞳と「ジョニー ギター」を白いドレスでピアノで弾く姿が印象に残っています。

(菅原)アーネスト・ボーグナインは悪役から、「マーティ」(1955年)でアカデミー賞をとってから良い子に変わっちゃいました。いささか残念。ジョーン・クロフォードは、確か「失われた心」(1947年。日本公開1950年)を親父と見たとき、迫真の演技に吃驚し、「スゲーナー」と言ったら、親父が軽蔑のまなざしで「アー言うのをスゲーって言うのか」の一言に忽ち沈黙。その後、ジョーン・クロフォードは、それこそ「クサイ演技」をしていたことに気付かされました。まー、いずれにせよ、みんな大昔の話し。

俳句って何だろうか   (普通部OB 舩津於菟彦)

テレビで夏井いつき先生は「プレバト!!」の中で2013年11月に開始した芸能人の「俳句の才能査定ランキング」で俳句を査定しており、俳句ブームをけん引している俳句がやや復活してきている感じがします。

俳句って何だろうか?
定義 連歌の上の句である「5・7・5」で作られた定型詩で、十七語、十七音とも呼ばれます。日本の四季のいずれかの季節が感じられるように「季語」と言われるものを入れること、また数少ない言葉でより趣やいきの良さを感じさせるように「や」「かな」「けり」といった「切れ字」といわれる言葉を入れて作るものが決まりとなっています。
一つは俳句の元となる「形式」が生まれたのが室町から鎌倉時代だということです。「連歌」から始まっています。もう一つの歴史は「俳句」という呼び名が生まれたのは明治時代だということです。連歌の上の句の部分だけを切り取ったものが江戸時代に「俳諧」として広まり、それを明治時代の正岡子規が「俳句」という呼び名でさらに新しい文芸として発展させていったのです。「俳諧」の陳腐さを嫌い、写生・写実を根本にした新しい詩風へと変革したものを「俳句」と提唱します。
俳人として有名なのは江戸時代の松尾芭蕉(まつお ばしょう)、与謝蕪村(よさ ぶそん)、小林一茶(こばやし いっさ)、加賀千代女(かがの ちよじょ)ら。大正・明治時代には正岡子規(まさおか しき)、高浜虚子(たかはま きょし)、中村汀女(なかむら ていじょ)、種田山頭火(たねだ さんとうか)らがいます。

松尾芭蕉
『 古池や 蛙(かわず)飛び込む 水の音 』
与謝蕪村
『 春の海 ひねもすのたり のたりかな 』
小林一茶
『 やせがえる 負けるな一茶 これにあり 』
『 雪とけて 村いっぱいの 子どもかな 』
正岡子規
『 柿くえば 鐘がなるなり 法隆寺 』
高浜虚子
『 遠山に 日のあたりたる 枯野かな 』
加賀千代女
『 朝顔に つるべ取られて もらひ水 』
中村汀女
『 咳の子の なぞなぞあそび きりもなや 』

季語が俳句の季語か季題という論争も在りそもそも季語が必要ないという人もいるようです。NHKのBS放送でも、「季語」という金子兜太と「季題」という稲畑汀子とがしばしば激論を交している。もともと季語・季題という言葉は江戸時代にはなかった。芭蕉の言葉にも「季節の一つも探り出したらんは 後世によき賜と也」(『去来抄』)とあり、この「季節」とは季語・季題のこと。その他芭蕉はすべて「季」(季の詞)といっている。大胆に要約すれば季の題を詠むとする立場が「季題」、それでは季題趣味に陥るとするのが「季語」派です。

友人が続けてこんな事を言っています:
そういえば昔「俳句第二芸術論争」というのがありましたね。
私も俳句ほど選者によって評価の異なる芸術はないと思っています。小説でも絵画でも音楽でも同じような気候風土、歴史的・文化的背景を共有している人(民族)の間では、鑑賞する人によって評価にそう大きな差は出ないでしょうが、俳句のような17音の作品の巧拙を評価することは非常に難しいと思います。事実、夏井先生も生徒の作品を評価するに当たって、「先生によってはこの言葉を嫌う先生もいらっしゃいますが、云々・・・」と、評価者によって尺度が異なることを認めていらっしゃいますね。

そう言う事で俳句には沢山の「派」が出来て、自分の嗜好に合った派に属するようになるのでその派は更に伸びていきますね。これは他の藝術でも同じだとは思います。あの「印象派」が認められない中から生まれたり。特に俳句は短い中で色々な「景色」を述べなければ成らないので難しい世界ですね。

コチトラ廃人ですがパートナーは長年俳句の世界で過ごして来て、今もいくつかの句会に飛び回っています。先の平林寺での俳句と写真を

僧房の庭一枚の敷く紅葉     

倒影の紅葉なほ炎ゆ池ほとり

濃紅葉や紺大空に瑕瑾なし

 

山本健吉さんが「俳句とは何か」と問われたときに、「俳句は滑稽なり、俳句は挨拶なり、俳句は即興なり」と答えております。語り出すと小林秀雄とか吉本隆明とかランボーなど持ち出さないと語れないかも知れませんね。

エーガ愛好会 (180)ルイス·ウェイン 生涯愛した妻と猫  HPOB 小田篤子

夏目漱石にも影響を与えた英国人画家ルイス·ウェイン(1860-1939)の生涯、主演は《シャーロック》《ミス ·マープル》《イミテーション· ゲーム》他出演の《ベネディクト・カンバーバッチ》…ということで、犬派の方ですが観てきました。

ルイスは上流階級に生まれ、父の死後は挿絵画家として5人の妹と母の家計を養っていました。身分違いの妹達の家庭教師と家族の反対を押しきり結婚しますが、半年後、妻(エミリー)は末期癌を告げられます。
その日、庭に来た迷い猫を飼い、妻を慰めるため、擬人化された可愛い猫の絵を描くようになり、大人気となります。
しかし、その後は経済的、精神的に恵まれない生活を送りますが、優しい友人らに助けられて過ごします。
カンバーバッチは《シャーロック》のイメージが強く、考え方が普通の人と違うような天才の役が合いますね。妻とふたりで最期の時を過ごす森のシーンがとても綺麗でした。久しぶりにパンフレット(写真添付)を買いましたが、昔と違い洒落たデザインです。コレクション展も銀座の画廊で開かれるようです。

北京の今 (普通部OB 田村耕一郎)

中国の現状に精通している友人からの情報を転載します。メディア報道とあわせてご参考まで。

極端なゼロコロナ政策の是正などを求めて、中国各地で若者たちが白紙を掲げるデモなどが相次ぎ、一部では習近平政権打倒も叫ばれた。言論統制が厳しい中国で、若者たちはなぜ今立ち上がったのか?そして、天安門事件のリーダーが語った今回のデモの”特徴”とは…

■「誰が与えた権力なんだ!」PCR検査のテントを破壊 SNS投稿で強まる「ゼロコロナ政策」への反発

SNSに投稿された防護服を着た警察官に住民たちが物を投げつけている動画。中国南部・広州市の11月28日の映像だ。住民はPCR検査を行うテントも破壊していた。北京市内の団地では、感染者が出ていない棟も封鎖されたことに住民らが反発。一斉に外に出て、ゲートを壊すなどした。

こうした市民の不満は、厳しいゼロコロナ政策に向けられたものだ。 別の動画では感染者が中にいるのか、扉を板で封じ釘を打ち付ける姿が撮影されている。 浙江省 防護服を着た職員 「マスクをつけろ!」 隔離するためか、嫌がる男性を強引に連れていこうとする映像も。 男性の家族 「そんなに乱暴しないで!話す時間もないのですか?」 デモのきっかけになったのが11月24日、新疆ウイグル自治区 ウルムチで起きた火災だった。高層住宅から逃げ遅れた10人が死亡したという。 ロックダウンのために、消火と救助活動が遅れたという批判がネット上に相次いだ。 だがそれらの投稿は当局によって次々と削除された。こうした政府の強硬な姿勢に不満が噴出。若者たちを中心となって声を上げ、怒りの矛先はゼロコロナ政策から政権そのものへと変化していく。 上海市のデモ隊 「共産党退陣しろ!習近平退陣しろ!」 厳しい言論統制が敷かれている中国で習近平国家主席を名指しし、公然と批判するのは極めて異例だ。 習近平氏の母校、精華大学でも…。 精華大学のデモ隊 「表現の自由!民主!法治!」 「逮捕されるのを恐れて、声を上げないでいると国民に失望される」 上海では火事の犠牲者を追悼するためか、花を持つ男性が警察に連れていかれる。 四川省のデモ隊 「自由でなければ、死んだ方がいい!」

■「白紙運動」抗議デモで掲げられたA4の真っ白な紙 そこに若者たちが込めた意味は…

抗議デモは、中国各地に拡大。そして今回のデモの特徴が「白紙運動」だ。 A4サイズの真っ白い紙を掲げ「言いたいことはあるが、言えない」「白紙ならば、とがめられない」といった検閲や言論統制への抗議の意味が込められている。 当局は、抗議の封じ込めに必死だ。 1989年の天安門事件。 天安門事件のリーダー王丹氏(1989年) 「今回の学生運動は純粋に国を愛する人たちによる自発的なものです」 当時、学生運動のリーダーだった王丹氏。12月1日に都内で会見を開き、今回のデモについて語った。 天安門事件のリーダー王丹氏 「大学生たちが『自由を!さもなくば死を!』とシュプレヒコールをあげる映像を見て涙が出ました。そして希望をもらいました」 会見終了後、王丹氏に話を聞いた。 天安門事件を主導したとして逮捕、服役した王丹氏。 1998年にアメリカに亡命し、現在は台湾の大学で教鞭をとっている。 王丹氏は今回のデモについて、若者の経済面での困窮に加え、もうひとつ大きな要因があると指摘した。

■「ネット規制にデモの要因」天安門事件リーダー王丹氏が見る白紙運動
習近平と若者が衝突しているのは、ネットの検閲にとても力を入れているからです。この10年、習近平はデジタルでも権力の集中を強化しました。若者が重要視しているのはネットでの自由です。それが大勢の若者が立ち上がった理由です。 そして今回のデモは天安門事件のときとは大きく異なる点があります。

1989年の時は、最初から『共産党政権は退陣せよ』とは言いませんでしたが、今回は最初から『共産党政権は退陣せよ』がスローガンです。若者は体制を変えないと、コロナの問題を解決できないと分かっています。30年前の私達より問題の本質を認識していると思います。今回の学生運動は『BE WATER』です」 香港民主化デモで取られた戦術「BE WATER」。水はとらえどころがないことなどから流動的、かつ変化するデモの形だ。 王丹氏 「組織がなくリーダーもいないので、彼らの戦略をつかめないのです。動員もSNSで行っています。1989年のときは軍隊が出動し、関係者を捕まえれば鎮圧できましたが、今回は鎮圧しようがないのです。共産党にとって、より頭を抱えることになると思います。

エーガ愛好会 (179) おくりびと   (普通部OB 舩津於菟彦)

本木雅弘が、1996年に青木新門著『納棺夫日記』を読んで感銘を受け、青木新門宅を自ら訪れ、映画化の許可を得た。
しかし、その後、脚本を青木に見せると、舞台・ロケ地が富山ではなく山形になっていたことや物語の結末の相違、また本人の宗教観などが反映されていないことなどから映画化を拒否される。本木はその後、何度も青木宅を訪れたが、映画化は許されず、「やるなら、全く別の作品としてやってほしい」との青木の意向を受け、『おくりびと』というタイトルで、『納棺夫日記』とは全く別の内容で、別の作品として映画化。映画の完成までには本木と、本木の所属事務所元社長の小口健二の働きは大きい。本木雅弘の執念の映画か。
すじは「年齢問わず、高給保証!実質労働時間わずか。旅のお手伝い。NKエージェント!!」 この求人広告を手に「NKエージェント」を訪れた元チェロ奏者の小林大悟(本木雅弘)は、社長の佐々木(山崎努)から思いもよらない業務内容を告げられる。その仕事とは、遺体を棺に収める“納棺”という仕事だった。戸惑いながらも、大悟は妻・美香(広末涼子)に仕事内容を偽り、納棺師の見習いとして働き出す。アカデミー外国語映画賞を受賞した国際的に高く評価された滝田洋二郎の監督。
チェロ奏者の夢に挫折して故郷の山形に妻と共に戻って来た主人公・・新しい職探しの中で遺体を棺に納める『納棺師』の仕事を知り、見習いとして働き始めるのだった。誰もが迎える避けては通れない最後の儀式・・そこに纏わるさまざまな人間模様を描いた感動の作品である。本木雅弘と広末涼子の夫婦間の葛藤と家族愛そして傍を固める山崎努、余貴美子、笹野高史のベテラン俳優たちがとても好いのです・・面白かった。
公開時に話題と成って居たが、特に観もせず、今回NHKBSTVで録画したが直ぐには観なかった。兎に角素晴らしい映画でした。何が。
まず出演者が素晴らしい本木雅弘は初々しさとたどたとせしさが見事演じられている。妻役の広末涼子は何とも可愛らしいこんな皮膚感で演技するとは。そして脇役を固める個性溢れる人々は何とも言いがたい名演。

峰岸徹。余貴美子。吉行和子。そして笹野高史火葬場の職員で焼くことが得意と言い、「ここが人生の門」だとつぶやく。山﨑努この『納棺師』のボスで暗い人生も演技でさらりと、存在感抜群。

人は何時の日か必ず永遠の訣別を迎える。そして日本では納棺という事も大事な儀式として死者を旅立たせるように死に装束をさせ、手甲脚絆、衣服、笠、三途の川の渡り賃などもたせて死化粧をさせて皆で送る。
親族は悲しみに暮れ居てる中での「儀式」この仕事も大変であり、ある意味では「神の仕事」かもしれない。エンドロールでその動きをあたかもお能のような仕草で流れているのは印象深い鳥海山がバックに見え酒田の街並みと風情もマッチしてよいところをロケ現場にしたなぁとおもった。

(安田)「おくりびと」封切り時に映画館で観ました。随分前のことです。それまで「納棺師」なる専門職の存在、そしてその仕事内容をほとんど知らず、特に死に装束の段取りなどに大変驚きました。鳥海山を仰ぎ見る酒田の自然と街並みの美しさが印象的でした。主役がチェロ弾きだということでオーディオ製品も登場しますが、僕の勤めていた会社の製品を撮影に貸し出しました。そこのところは注意して観ました(笑)。この映画を観て数年後に母親が故郷九州で他界しましたが、実家での「おくりびと」が死に装束を施す行程を何とも表現のしようのない気持ちで見届けました。映画ではない現実のこととして実感させられました。

木本と広末もさるものでしたが、山崎努、余貴美子、笹野高史のベテラン脇役は見事な演技と役割で映画を締めていました。NHK番組「ファミリー・ヒストリ―」の語りをやっている余貴美子の語り口が大変気に入っています。山崎努は黒澤明映画「天国と地獄」の誘拐犯役で大いに注目。40年後の演技を観るのはイイモンですね。笹野高史は、藤沢周平作・山田洋次監督の「武士の一分」が忘れがたい。彼は昔から老けて見えますが、実は僕より2歳若い。余人を以て代えがたい役者ですね。

乱読報告ファイル (36) 司馬遼太郎の世界   (普通部OB 菅原勲)

司馬の「坂の上の雲」、「竜馬がゆく」などは多くの人に読まれ、高く評価されているが、これに対する反論も数多ある。その最たるものが評論家の加藤周一だ。ちょっと長いが以下に引用する。「司馬遼太郎氏の史観は天才主義である。数人の天才たちが、対立し、協力しあいながら廻天の事業を行う。そこには民衆が演じた役割と、経済的要因がもたらしたであろう意味は、ほとんど描かれず、ほとんど分析されない。この小説が提供する歴史の解釈、歴史的事件の全体像は、われわれがわれわれ自身の社会的現実と歴史的立場を発見するのにはやくたたないだろう」と切り捨てている(「司馬遼太郎小論」)。この最後の一行は、ボンクラな小生には具体的に何のことを言っているのかさっぱり分からない、「やくたたない」と言いたいのは良く分かったが。要するに、小生を含め大半の人にとって、司馬を読んでも「やくたたん」と言ってるわけだ。つまり加藤のような進歩的文化人から見ると、司馬の作品を持て囃す一般大衆は大バカだと言っているに等しい。ここまで言われると、何やら、加藤の個人的な嫉み、恨みではないかとも思われてくる。そして、その根底にあるのは、どうやら人騒がせなK.マルクスにあるらしい。下部構造は上部構造を規定すると言うその考えに合致しないと言うことなのだろう(司馬が最も忌み嫌っていたのは、あることを絶対視し、それに反することは全く認めない絶対思想であり、彼の基本は、それとは真反対のリアリズムだった)。加藤さん、面白いものには、もっと素直になれば良かったのに。でも、進歩的文化人はそうもいかなかったか。

ここに、司馬が書いた作品がある。「上方武士道」、「風の武士」、「風神の門」、「十一番目の志士」、「大盗禅師」、「韃靼疾風録」。その特徴は、司馬と言えば必ず取り上げられる「坂の上の雲」、「竜馬がゆく」などの主要作品とは違って、その主人公が全て司馬の想像、創作で成り立っていることだ。勿論、司馬の書いたものは厳密な意味での学術論文ではなく、小説なのだが(本人はそうは言っていないようだが)、上記以外の作品の主人公は実在している人物だ。ここで何を言いたいかと言うと、上記の作品は等閑視されているのではないかと言う大きな疑問だ。いや、むしろ、司馬の本領は、想像力、創造力が天井知らずに羽搏くことにこそあるのではないか、と。勿論、ここには司馬史観もないし、背景にはあるが、歴史そのものを語っているわけではない。しかし、司馬を論ずるには、この両方を等分に論じなければ、司馬の本質には迫れないのではないだろうか。その意味で、小生は、「坂の上の雲」、「竜馬がゆく」などと並んで、上記の作品を、大変、面白いことから、再三再四、手に取っている。中でも、「十一番目の志士」の主人公、長州藩の暗殺者(刺客)、天童晋介は極めて忘れ難い。余談だが、余りにも真実らしいので、歴史学者さえ実在する人物だと思ってしまったと言われている。

あっ、この本のことを、ここまで、一切、語っていない。しかし、作家、作品を紹介するこの類の本よりは、先ずは、作品自体に触れて読んで楽しむのが本来の姿だろう。従って、これ以上は言及しないことにする。

(編集子)司馬の主な作品は一応読んで、それなりに納得している一ファンからすると、世にいう司馬史観論とかいう論議自体がばかばかしい。司馬が書いているのは小説、であって、史書、ではないと思うからだ。そういう立場からして、小生は菅原の進歩的文化人観に100%同意する(彼とは ”顔も見たくない有名人” リスト、でもほぼ同じである)。

加藤某が何と言ってるか知らないが、小生は 坂の上の雲 を第一のものと思っていて、そのうち歩けなくなったらビデオでもみて過ごすことになろうかと、この一式を大枚はたいて買った。まだ封も切らずに本棚で出番を待たせてある。スガチュー、俺達ってひょっとしてウヨク?

(菅原)俺たちゃー、右翼でもなければ左翼でもない。お天道様の真下を堂々と歩いて来た、また、これからもそうして行く国士だ。文句、あんめえ!

(船津)生粋の保守本流。右翼でも無く左翼でもなーしと思いますね。

(菅井)字引によると国士とは「国中で最もすぐれた人物」と解説されていました(OMG!)我が家から3Kmくらい南に下ると「国士舘大学」があります

(安田)お二人の投稿記事、大変興味深く拝読致しました。多々同感です。

司馬遼著書を’60年代半ばに読み始めて殆ど読みました。初期の頃の「梟の城」「竜馬がゆく」「燃えよ剣」「国盗り物語」あたりまで来てのめり込み始め、越後長岡藩家老・河井継之助の「峠」に感心しました。黒田官兵衛の「播磨灘物語」も面白かった。近代国家として歩み出し日露戦争勝利に至る勃興期の明治日本を無邪気なまでに楽観的明るさと元気さで描いた長編「坂の上の雲」では、秋山好古・真之兄弟と正岡子規をその明るさの象徴として位置付けた手法に唸りました。薩長土肥出身の歴史を中心的に動かした“大物”を主人公とせず、松山出身の三人の生き様を浮かび上がらせた発想は大変素晴らしい。後年、松山の秋山兄弟生家にも足を運びました。その後も新刊小説が発売され次第読み続けたが、随筆・紀行・対談物が加わり、今世紀に入りる頃まで30年以上楽しませてもらいました。‘70年代初めに著し始めた「街道をゆく」はとても興味深かった。モンゴル、中国、オホーツク、アイルランド、オランダ、南蛮(スペイン・ポルトガル)、アメリカ及び日本各地を巡る紀行。歴史を遡る縦の時間軸とその歴史の現場である地理的な横軸が交差する、司馬が紡ぐ綾を読むのは興味尽きない心地良いひとときでした。「十一番目の志士」は、管原さん同様、大変気に入っています。

読者の多くの歴史知識は司馬遼本に拠るほどに歴史とその舞台に痕跡を遺した人物を、目の前で躍動しているかのような筆致で描いて、読者を惹き込ませて止まないる面白さがあった。僕もその最たる読者の一人です。司馬史観を云々するなど全く無意味であるとのご意見に賛同します。小説を読むのは娯楽なのだから。本格的歴史書は並行して読めば良いのですからね。